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第六章 狼達は愛に塗れる 1

 俺は本当の母親の事をよく知らない。写真はあるらしいが、あまり見ないのでもう顔すら覚えていない。  物心がついた時には今の後妻が家にいて、その女が本当の母親だと信じていた。弟の悠二が産まれるまでは、女は俺に対して優しかったと思う。だけど産まれてからは、俺に対して厳しくなった。悪い事をしたら叩かれたり、首を絞められたり。 「お母さんは悠矢が可愛いから、ちゃんと怒らないといけないの」 「ごめんなさい…おかあさん、くび、くるしいよ…」 「お母さんの言う事を聞きなさい。勝手な事をしちゃダメ。ねぇ悠矢。お母さん、貴方の事が憎い訳じゃないの。好きだから、こうするの」 「おかあさん、ごめんなさい…ゆるして…」 「もうお母さんに内緒で、勝手にどこかへ行かないって約束する?」 「やくそく、する…どこへもいかない…」  〝好きだから〟〝勝手にどこかへ行くな〟俺はその教えの通り、自分の弟にも同じ事をした。始めての弟は可愛かったし、好奇心旺盛な幼い彼が勝手にどこかに行ってしまう事を、俺はそうする事でしか止められないと思ったからだ。 「悠矢様! 何してるんですか!」 「ゆうじがどっかいっちゃうから、とめたの」 「だからって、首を絞めるなんて…」 「だって、おかあさんにおなじことされたよ」 「え…?」  その後、義母には家で酷く身体を叩かれて、自分が首を絞めた事は絶対言うなと釘を刺された。あの頃の俺は母親に嫌われてしまったと思って、かなり落ち込んだ。如月に義母に何かされていないかと聞かれても、絶対に言ってはダメなんだと思って伝えなかった。  だけど結局義母は弟を連れて別宅に住み、俺は一人ぼっちになった。義母の言う事を聞いて、誰にも喋らなかったのに、義母は簡単に俺を捨てた。  もう、自分の心の支えは週に何度か来てくれる如月だけ。だけど如月も、一時期俺の家に来ない期間があった。如月だけが俺が唯一何でも話せる人間だったから、彼が来てくれないと、まるでひとり、世界に取り残された気分だった。他の使用人はまるでロボットみたいに俺の世話をするだけで、俺の事を本気で考えてくれる人間なんていない。  俺は勇気を出して、あいつの家へ行った。久しぶりに会った如月は元気がない様で、少しやつれていたから、このままじゃ彼は死んでしまうのでは、という不安が過り、俺は大泣きして素直な気持ちを伝えた。すると彼はごめんなさいとありがとうを繰り返しながら、俺を優しく抱き締めてくれた。  あの時の如月に何があったかは知らないが、それ以降彼は頻繁に俺の家に来てくれて、今から六年前に一緒に住んでくれる様になった。  嬉しくて嬉しくて、彼の側にずっと居た。俺の家族は、如月だけ。弟とも、今は一年に一度くらいしか会わない。義母はそれ以下。親父とは会社の話で夕飯はたまに食べるが、毎回苛つく。  今日の夕飯だって、全く楽しくなかった。 「お前、男を飼ってるんだってな」  親父が気に入っている地元のフレンチに呼び出され、個室のテーブルへ着席すると仏頂面の親父からそう言われた。  莉玖の事は親父に言ってなかったから、如月あたりが教えたのだろうか。とりあえず〝飼ってる〟という言葉に俺は苛ついてしまった。 「ペットみたいな言い方すんな。恋人だ」 「まさか男が好きだったとは初耳だ」  ソムリエからワインのエチケットを見せられた親父は「それで頼む」と軽く頷いて、俺の方を見た。 「西園寺莉玖と言ったか。まぁオスにしては綺麗な顔をしているが…」  テーブルに莉玖の写真が置かれる。彼の事は調べ上げた、という意味だろう。 「莉玖に何かしたら殺すからな」 「お前が俺の言う事を聞いたら何もしないさ。ペットで遊ぶのはオスでも構わんが、結婚の件はちゃんとしろ」 「だからペットじゃねぇし、恋人だつってんだろ。俺、そいつを生涯のパートナーにするから、一ノ瀬のお嬢様とは結婚しない」  ソムリエがグラスにブルゴーニュの軽めのワインを注ぐと、親父は香りを嗅いで一口飲んだ。人が真面目な話をしているのに、ワインを楽しむな。 「聞いてんのかよクソ親父」 「……ダメだ、一ノ瀬グループのリゾート展開はうちにとって大きい。あの縁談はお前の意思は関係ない。男が好きでも構わん。とりあえず結婚だけはしろ。男を公式のパートナーにして、パーティーに連れて行く気か? そんなの、いい笑い者だ」 「……認めないなら、俺と縁切ってくれよ。後継は悠二に頼めばいいだろ」 「お前には小さい頃からそれなりの教育を一通り受けさせてる。今更悠二には無理だ。あいつは甘やかされて育ったからな。それに、俺が愛してるのはお前を産んだ母親だけだ」  急な親父の口から母親の話をされて、思わず目が点になる。親父が実母の話をするのは珍しい。 「何だそれ。親父の惚気なんて初めて聞いたわ。俺が母親似か知らねーけど、重ねてんならマジで気持ち悪りぃ」 「……顔は似てるが、性格は俺に似たな。クソな性格はそっくりで嫌になる」 「性格似てんなら、俺が嫌がんのわかるだろうが。息子には会社絡みの縁談勧めといて、自分は恋愛結婚とか……だったら俺も自分の意思で決めていいだろ」 「パートナーは、それなりの家庭環境で育った女じゃないと務まらない。世界が違いすぎると適応出来ない。お前の母親が良い例だ」  父親と母親は恋愛結婚で、普通の家庭出身の母親は相手に相応しくないと大反対されたらしい。しかし父親はその反対を押し切り、無理矢理結婚を通した。俺が産まれてから暫くは幸せだったが、母親はこの環境と育児によるノイローゼで身体を壊し、病死した。 「俺が結婚を押し通さなければ、お前の母親は死なずに済んだ」 「いやいや…アンタが母親の精神状態に気付いてサポートしてやれば良かったじゃねぇか。アホか…」 「俺がそんな事に気づくと思うか?」  父親は仕事は出来るが、そういう気遣いは全く出来ない。確かに気づけという方が無理かもしれない。 「アンタの性格なんて知らねぇよ。でも愛する女の為ならそれぐらい出来るだろーが」 「もうあとの祭りだ。気づいたってどうしようもなかった。今の妻はとりあえずで選んだだけだからな。見てくれだけは良い」 「見てくれだけだから愛人なんか欲しくなるんだろーが…」  話していてまた苛々が募る。そんな見てくれだけで選ぶから、俺はとんでもない目に遭った。その所為で、俺は莉玖に首絞める最低野郎になってしまった。 「とりあえず、お前の結婚はあの娘で変わりはない。…お前は歳の割には頭が良いと思ったが、そのペットの所為で大分馬鹿になったな」 「……あー気分悪りぃ…もう帰る」  前菜にすら手をつけないまま、俺は椅子から立ち上がった。 「悠矢、昔お前に聞かせた言葉まだ忘れてないよな? お前が言う事を聞かないなら無理矢理聞かすまでだ」 「……そんなの忘れた。俺は親父の言う事は聞かない」 「山田グループはお前に継がせる。それは決定事項だ。お前にしか継がせたくない。そのペットを奪われたくなかったら、ちゃんとやれ」  背中越しに届けられる親父の言葉。俺が会社を継ぐ事が決定事項。莉玖に会うまで、俺もそうだと思っていた。山田グループを継ぐのが当たり前。会社の為に好きでもない女と結婚して、それまで適当に女を抱く。  将来社長になる為の勉強や、いざという時に暴漢に襲われても自分の身は守れる様に教えられた護身術。  俺の人生は、全て山田グループの為の物。そう割り切って諦めていた筈なのに、西園寺莉玖に会ってから、人生を諦めたくなくなった。 「何でもいいけど、西園寺莉玖に何かしたら殺すとだけ覚えとけ。俺の人生はアンタなんかに捧げない、あの男だけに全てを捧げる」 「……ケツの青いガキは、視野が狭くて敵わんな。お前があの男を選んでも、きっと彼の人生を潰すぞ」 「……潰させねぇよ」  店を出て松下の用意した車に乗り込むと、後部座席にごろりと寝転がった。ポケットのスマートフォンを取り出すと如月からのメール。 〝社長との食事は疲れると思うので、癒し送りま〜っす♡〟  相変わらずふざけた文面と鼻息を荒くして敬礼したスタンプの後に、莉玖が如月の膝の上でカメラ目線で寝転んでいる写真が添付されていた。如月の膝の上なのはムカつくが、速攻で保存して莉玖の事を思い浮かべる。  今日も俺と寝てくれたらいいなぁなんて、そんな事を考えるだけで、俺は今幸せなんだ。  俺の大事な人は、俺が決める。親父なんかに、決めさせてたまるか。  

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