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第六章 狼達は愛に塗れる 3
「悠矢様、本当に何もしないで下さいよ。最近莉玖様の首に痕がついてるの知ってるんですからね」
如月が少し呆れた顔で、莉玖のベッドに入ろうとする俺に注意する。
「……キスマークぐらいはいいだろーが。流石にセックスはやんねーよ」
「どうだか。……莉玖様、嫌だったら私の事、大声で呼ぶんですよ。悠矢様の股間、思いっきり蹴り上げて下さってもいいですから」
よくわかっていないまま、莉玖は如月の言葉に「はぁい」と返事をした。
如月は3Pや玩具を使用したりする事には怖いくらい寛容だが、六歳児の莉玖に対しては完全に常識人だ。如月の中の良いと悪いの線引きは何なんだろう。
如月は俺に釘を刺す所か、磔にする勢いで〝莉玖に如何わしい事はするな〟と何度も俺に忠告し、ようやく部屋を出て行った。
「うるせぇ奴だ。はぁ…寝るか…」
上体を勢いよく倒すと、柔らかな枕に頭がぼふっと沈んだ。横に寝転ぶ莉玖はすぐに俺の方へ身体を近づける。彼はさっき見ていたクイズ番組の途中で少し寝てしまったので、全然眠くなさそうだ。
「ふふっ。とうま、〝うるせぇ奴〟なのか?」
「そうそう、ほんっとうるせぇ…そういや、お前もそれ、口癖だったな」
「おれ、そんな事いってた?」
「記憶無くす前は、俺が喋ると〝るっせぇ、ボケ〟とかよく言ってたんだよ」
「ふーん…大人のおれ、そういうしゃべり方なんだ…」
「うん…すげー口悪りぃの…初めて喋りかけた時も気持ち悪りぃんだよってキレられて…」
そういやあの言葉遣いを聞かなくなって久しい。目の前のシャンデリアのついた天井に、ぼんやりと十六歳の莉玖の残像が浮かび上がる。
だけどその輪郭は少しボヤけていて、すぐに消えていってしまう。スマートフォンを開けばそれなりに彼の写真も動画もあるが、直接鼓膜に彼の声を響かせたい。
あの、素直になれなくて色んな感情を隠す為の、彼の言葉遣いが、恋しい。
「……どこ見てんだ、ボケ」
最早懐かしくさえ感じるその口調。身体が勝手に声のする方を向く。俺の隣の莉玖は、少し笑っている。
「り、く…お前、まさか…」
記憶が戻ったのか!? と彼の身体を掴もうとした時、「こんなかんじ?」と言葉遣いが戻った。
「おとなのおれに、にてた?」
「そ、そうそう、そんな感じ…そっくり…」
本当に、彼の記憶が戻ったのかと思った。でも、違った。何だか少し悲しくなって、莉玖から視線を外した。
やはり、もうあの時の莉玖には会えないのかもしれない。そんな嫌な考えが湧いてくる。あいつは他にどんな言葉を口に出していたっけ。彼がつけてくれた肩の痕も、とっくに消えてしまった。
俺の中の彼の情報はこうやって少しずつ消えて、今の莉玖が上書きされていくのだろうか。
(記憶か人格か知らねーけど…たまにはそっちのお前も出てきてくれよ…)
目を瞑り、脳の中から彼の記憶を探っていると、莉玖が俺の身体に抱きついた。
「莉玖…? あ、今日もアレやりたい?」
「んーん…今日はムズムズしないからいい…ぎゅーだけして?」
莉玖の身体を引き寄せて、優しく抱きしめる。匂いも、感触も十六歳のままの莉玖だ。だけど中身は自慰すらもわかっていない六歳の子ども。それを考えると、いつも頭がおかしくなりそうになる。
「……やまだ、今日はいたくしていいよ」
「え…痛くって…?」
「ぎゅー、いたいやつでいい…」
「でも、お前痛いの嫌いだろ?」
「今日はいいの…」
その言葉に、俺が強く身体を抱きしめると、莉玖も抱きしめ返してくれた。
いつもと様子が違うのは、やはり先程見ていたドラマの所為だろうか。彼自身、病院で催眠療法を受けているので、十六歳の自分が記憶を失くして六歳に戻っているという事は、一応わかっているらしい。
「ねぇ、やまだは…おかあさんはいないの?」
「母親…? どうしたんだよ急に」
抱きしめていた身体を少し離して、莉玖の顔を見た。
「やまだのおうち、とうまと、まつしたと、さかいさんしかいないから。なんでかなぁってずっとおもってた」
酒井さん、とはハウスキーパーのおばさんだ。莉玖はこの人の作るベーコンエッグの焼き加減と、唐揚げが大好き。たまに夕飯を手伝ったりして仲が良い。
「あー…そうだよな、普通…ってのがよく分かんねーけど、大概いるもんな…。母親は…一歳の時に死んだ。でも俺は覚えてない。そのあとに新しい母親が来たけど…嫌われてたから、母親はいない様なもんかな」
実母の顔はよく覚えていない。義母の顔は見たくもない。なのに、たまに頭にチラつく。俺の首を絞める時の顔や、俺を叩いた時の顔。どれもこれも気持ちが悪い。
「……莉玖は、おかあさん好きか?」
自分の母親の話題から逸らしたくて、彼に質問をした。催眠療法の結果で何となく母親が怖い事は聞いている。莉玖の顔は「う〜ん」と気持ちを上手く言葉に出来ないからなのか、少し曇った。子どもの中の柔らかい心を少し刺激した質問だったかな、と一瞬後悔した。
「おかあさんは…すきだけどこわくて…今はいや…おじさんといつもはだかであそんでるし、そういうときはベランダにいなきゃいけない…」
莉玖は母親のセックスの時や、母親の言う通り出来なかったときはベランダに出されていた様だ。雷を怖くなったのも、雷鳴の中ベランダに出されていた所為。雷が鳴っておびえるのはPTSDの症状だった訳だ。その他にも身体を叩かれたり、貧困の所為もあって、彼は食事もロクに食べさせて貰えなかった。
家に住み始めた頃の莉玖から聞いていた話よりも生々しくて、怒りで身体が熱くなった。
こんな可愛いくて素直な子供に、どうしてそんな事が出来るんだ?
思わず、莉玖の弟の事が過る。そんな母親の元で暮らしていて、隼は大丈夫なんだろうか。
「でも、おじさんからおかねもらったときのおかあさんはやさしくて、だからずっとおかねがあればいいのかも。おかねがあったら、おかあさんはおれをすてないかも…」
「……そっか。莉玖はやっぱりお母さんに会いたいか? ごめんな、ずっとこの家にいさせて…」
「さいしょはいやだったけど…でも今はこの家がいい。おれみんなのことすき」
「ん…俺らも莉玖の事、好き。大好き…」
俺の言葉に柔らかく笑っている莉玖。その笑顔の裏で、親からネグレクトを受けていた過去。どれだけ痛みや寂しさに耐えてきたのだろうか。
だから彼は、出会った時に人を威嚇していたのだ。もう誰にも傷つけられない様に、自分の身を守り、自分の存在を認められる場所をずっと探していた。
「やまだ…また泣いてる。どっかいたい?」
「……莉玖、ごめんな」
初めて彼に会った日、殴ってレイプをした。無理矢理身体の関係にさせて、時には首を絞めた。自分の気持ちばかりを押しつけて、俺は彼を傷つけるだけ。莉玖が記憶を失くしたのは、自分の所為。如月に言われた通りだ。安心させるどころか、痛めつけ、自分の思い通りにならないと怒って……。
自分のしでかした事が申し訳なくて、恥ずかしくて「ごめんな」なんて四文字じゃ、とてもじゃないけど足りない。
「なにが? やまだ、やさしいよ。おれ、やまだのことすき」
莉玖は優しく笑って「ぎゅーするからげんきになって」と抱きしめてくれた。
莉玖の優しさが嬉しくて、その身体に甘えると、そのうち彼の唇がふわっと触れた。
「ちゃんとできなかった…もっかい…」
莉玖は舌を出して、ぺろ…と俺の唇を舐めた。
「しょっぱい…」
「俺の口食べるからだろ。もっとしょっぱいの食べろ〜」
今度は俺から唇を押しつけた。
「ふふっ。やまだのくちたべちゃお……ん、んぅ…」
「……莉玖…すき…」
「うん…おれもすき」
何回も軽く唇を咥えてじゃれ合っていると、莉玖の口が「やまだ」と動いた。
「ん…どうした?」
「おれ、きおくがもどったらきえちゃうのかなぁ…みんなと、やまだとずっといっしょにいたいな…」
彼の心と呼応するかの様に、震えた声。「きえるの、こわい」と言葉を続けた彼は、やはりあのドラマの内容と自分を重ねていた様だ。
「莉玖…」
「やまだもおとなのおれのほうがすきなんだよな…? でも、おれ…おもいだしたくない…やまだとまだいっしょにあそびたい…」
仄かな灯りの中で、彼の茶色い瞳が涙で揺らめき出す。そのうち雫が沢山溢れ始める莉玖を見て、自分の胸が締め付けられる。
〝捨てるなら、優しくすんな…〟
前言われた台詞が頭に過ぎった。
捨てたりなんかしない。だから優しくさせて。これからのお前の人生を、沢山俺からの愛で埋めてやりたい。
「大丈夫。莉玖はずっと莉玖のままだから消えない。大きくなったお前も、今のお前も同じだから。ずっとずっと俺はそばにいるから、安心しろ…」
泣き噦る莉玖を抱きしめながら、何度も大丈夫だと呟く。そうだ、きっと大丈夫。小さなお前は、ずっと莉玖の中にいたんだ。だから記憶を失くす前の莉玖も、今のお前の中にいる。
魂ごと全部愛すから、お前が不安にならない様に、ずっとこうして抱きしめさせてくれ。
「莉玖、もう泣くな。ほら、アレ歌お。お前の好きなやつ…わくわくランドに…おっいっでっよっ…」
「……みーんな、みーんな、はっぴぃ…」
「わくわくランドも行かないとな…まだまだ遊びに行ってねぇとこ沢山ある…」
「うん…みんなで、いきたいな…」
眠くなるまで、莉玖は遊びに行きたい所を沢山話してくれた。少しずつ笑顔が戻る莉玖の顔が可愛くて、彼が寝ついても、俺はずっと見つめていた。
(悪いけど…嫌がっても一生離れてやんねーよ。記憶があってもなくても、俺は結局お前の事を好きなままだ…)
マグマの様な激しい愛。海の様な深い愛。全てを包み込む様な優しい愛。
お前を好きになって、愛に種類がある事を、俺は生まれて初めて知る。
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