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第七章 愛を叫ぶ狼達 6

「あ〜マジで疲れた。これで暫くあの狸親父と会わなくて済む」  力尽きた様に椅子に座り込み、自然に首元のネクタイを緩める。あの頃はこんな格好を毎日するなんて信じられないと思っていたが、やっぱり今も堅苦しい。この整髪剤で固められた髪型も鬱陶しい。俺は緊張から解放されて、セットされた髪をグシャグシャと崩した。 「でも凄いですよ! あのホテル・シャンバラがうちの傘下に入るなんて!」  松下は鼻息も荒くしながら、タブレットの契約書類の画面を見せた。さっきまで俺の目の前に座っていた、恰幅の良い中国人の顔を思い出す。 「あの狸、この期に及んであんな事言いやがって。自分の立場わかってんのかよ。でも、これでやっとデカイのがひとつ片づいた。松下、お疲れ。毎日遅くまでありがとうな」  松下の目には若干クマが見える。 「いえいえ! 俺は何も…。でも、これで心置きなく休暇に入れます。悠矢様、本当に色々として頂いて、ありがとうございます」 「礼なんていらねーよ。松下にはまた馬車馬みたいに働いて貰うんだから。それまで子育て頑張れよ」 「はい!」  ボンズ・インターナショナル・アジア支社の商談室。広い部屋には、大きな案件を終えて安堵感でいっぱいの俺と松下だけ。  俺は今、山田グループのアジア展開の最高責任者を任されて上海にいる。先程、中国のホテル市場でトップシェアを誇る、ホテル・シャンバラとの契約を終えたばかりだ。 「役員の不祥事と、強気すぎる戦略が裏目に出て経営不振。だが、ホテルの立地はどの場所も良いし、まだシャンバラの名前は使える。アジア地域でのコンセプトモデルとしては抜群だ。特にマカオにあるシャンバラ・オリエンタルはありがたい。今迄のボンズでは出来ない展開が出来そうだからな」  商談室を出てすぐのエレベーターホール。上向きのボタンが点灯し、エレベーターが着くと、松下はすかさず中に入った。 「シンガポールにあるイチノセとのリゾートホテル展開は当たりましたもんね」  俺がエレベーターに入ったタイミングで、松下が最上階のボタンを迷わず押した。 「あれは向こうのアイデアが良かったからな。俺はそれに乗っかっただけ。ラッキーだった」 「いやぁ、悠矢様がアジア地域を任されてから凄いですよね。俺も毎日興奮しっ放しです」 「俺は結果出さないと意味ねーからな……死に物狂いでやんねーと」  役員室に戻った俺は、デスクチェアに座り、スマホをタップする。写真共有のアプリを起動させ彼のアカウントを確認すると、新しい写真が二時間前に更新されていた。  シンガポールにあるボンズの新しいリゾートホテルの部屋で、こちらを見ている美しい彼の写真。速攻で〝いいね〟を押す。だけど〝いいね〟の数は瞬く間に増えて、俺の〝いいね〟はすぐに埋もれてしまった。 「あいつ、シンガポール行くなら先にこっち寄れっつーの」 「あ、莉玖様の新しい写真ですか? 俺も見ました。今回も中性的なイメージですよね」  松下はステンレスのマグに入ったコーヒーを俺の机に置いた。 「まぁ、どっちにも見える様な感じで頼んでるからな」 「でも俺は一番最初の写真が好きです。悠矢様が後ろから抱き締めてるやつ!」  興奮した松下は、自分のスマホでその写真を俺に見せた。 「ああ、SNSで火がついたやつな。でも俺も莉玖もモデルじゃないのに、穂乃果の奴よくこんなの思いついたな…」 「如月さんも昔から二人をうまく広告に出来たらいいのになって言ってて…やっぱり如月さんはずっと先を見てて凄いです。莉玖様も悠矢様も、あれからずっと頑張ってて…俺…」  松下が急に泣き出して、思わず立ち上がってハンカチを渡す。 「何で泣いてんだお前は? しっかりしろよ、娘に笑われるぞ」 「はひ…うっ…うっ…ほんと、がんばってて…おれずっとみてるから…すごいなって…」  渡したハンカチは涙と鼻水ですぐにビシャビシャになった。ハンカチはそのまま松下にプレゼントしよう。 「ほら、泣くな。もうすぐ如月も来る時間だし、また怒られるぞ」  その言葉に松下は鼻をズズッと勢いよくすすって、背筋をしゃんと伸ばした。  松下は最近娘が生まれた。だけど俺のサポートについていると、家に帰宅するのは深夜で、休みの間も何かと確認作業に追われるため、娘や妻とゆっくり向き合う時間があまりない。  有能な彼は、アメリカや上海で不慣れな土地での俺を支えてくれた。優秀な人材は、一人でも長く残ってゆくゆくは社長になる俺を支えて欲しい。そして、従業員にとってこの会社が働きやすい環境になる様にしたい。それは、如月に俺の課題のひとつにされていた事だ。  俺は、松下に育休を奨めた。一応うちの会社は女性は勿論、男性にもその制度はある。だが、男性社員が取得する事はあまりない。こうやって、取得する人間が増えていかないといつまで経っても制度は浸透しない。  ボンズの理念は「繋がり」。人生の全ては繋がっていて、このホテルという空間もお客様と繋がっている。旅行での休憩場所として、疲れた身体を休ませる場所として、大切な人の時間を過ごす場所として、お客様と繋がらせて欲しい。そしてそれは、客とホテルだけではなく、ホテルで働く従業員にあって会社がそうでありたい。従業員自身が、家族や大切な人との繋がりを大事にしなければ、お客様との繋がりを大事に出来ないのだ。 「如月さん、もうすぐ着くそうです」 「一人?」 「はい。莉玖様はシンガポールで別の撮影が入ってるみたいで、無理みたいです」 「あ、そう…来ねーのか。またおあずけかよ」  少しの期待が打ち砕かれて、そのまま背もたれに身体を預けた。 「屋敷に来た時は、不良少年だったのに、今は謎めいた人気モデルですもんね」 「そうだな…でも本当にモデルになられちゃ困るけどな。俺、捨てられそうじゃん」  椅子をくるくると左右に動かして、気を紛らわす。本当に捨てられたらどうしよう、なんて若干気弱な気分になってしまう。 「まさか。莉玖様が頑張ってるのは、全部悠矢様のパートナーになるためですから、捨てるなんて有り得ないですよ」  松下のその言葉に、俺は「だったらいいけど」と笑って返した。ステンレスマグに入ったコーヒーを飲むと、まだ熱さを保っている。 「そのマグ、アメリカに行く前に莉玖様がプレゼントしたものですよね」 「ああ、そろそろ新しいの買ってもらわねーと。ロゴ消えちまった」  (あーあ。莉玖に会いたかったな…)  広い窓から見えるのは、十二月の厚い雲に覆われた灰色の風景。莉玖と過ごした日々は、あんなにも鮮やかだったのに。  今は彼に会えるのは年に二回ほど。早く、毎日彼がそばにいる生活になりたい。その為に、俺は日々如月に言われた計画をコツコツと進めている。  莉玖と出会ってから約十年。  俺は今日で、二十七歳になる。

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