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ゆっくりじゃあダメですか?(9)

会社のどんな場面よりも、ここ数年のいくつかの出来事よりも、今この瞬間の胸の高鳴りが一番だ。 今こうして藤川さんを抱きしめているこの行為を、慰めの意味でなくとも、していいってことだろう? 大切にしてもいいと、……あぁ、まさか今日言うことになるとは思ってなかった。 「智春さん、」 「……はい、」 「俺はね、好きな人がいるんです。その人とゆっくり仲良くなって、俺に心を開いてもらって、そこから俺のことを好きになってもらおうと、ずっと思ってました」 「……ぁ、」 いきなり好きだと言ったところで、今の藤川さんはきっと信じてくれないから。 俺の気持ちを丁寧に伝えたい。 でも、“好きな人”という言葉にだろう、藤川さんの身体が強ばった。  ……本当に、可愛い人。俺はその分また強く彼を抱きしめた。 ねぇ、藤川さん。ちゃんと伝えるから、……だから最後まで聞いて欲しい。 「でも、ゆっくり仲良く……は、やめようと思います」 「……え?」 「その好きな人がね、どうも俺のことを好きみたいなので。そうと知ったらもう、ゆっくりなんてしていられないでしょう?」 「……っ、」 「智春さん、俺が誰かに取られることは絶対にないですよ。俺、智春さんが好きなので。それと、同僚が俺のこと名前呼びなのは、堤下が二人いるからってだけです」 「……あ、」 俺のシャツを握りしめていた手が離れた。そして、抱きしめられた腕から逃れるように、藤川さんが俺の胸を強く押す。   「俺っ、」 「智春さん、」 「あ……っ、」  「逃げないで」 少し開いた距離を今度は俺の方から一気に詰めた。顔を隠しているその手を掴んで、無理矢理顔をのぞき込めば、涙はもう消えていて、代わりに今まで見たことないくらいに赤く染まった頬が見えた。……ふはっ、耳まで真っ赤だ。

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