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第6話
「それで、引きずってるのか」
「いや……、まあ、うん」
朱島が頷くと、友人はそれみたことかと眉を顰めた。
「だから言ったろ、気をつけろ、って」
タイチに五文字を与えられた朱島は、平日こそ何とか仕事をしていたが、目に見えてやつれた。追っても仕方ないことはわかっていたし、彼に関するデータは名前以外、朱島は何も持っていなかった。アドレスを交換しなくとも、待ち合わせはいつも友人と逢うこのカフェで、時間は口頭で伝えていたし、朱島もタイチも一度した約束を違えることはしなかったからだ。
(まさかパーソナルデータの重要性に、こんなことで気づかされるはめになるとは……)
情けないことだが、こうなった以上、失恋を認めるより他にない。朱島は定期的に逢っている友人に事の顛末を話したものの、心は一向に晴れなかった。昭和公園であっさり男を見送った時とは、何もかもが全く違った。
彼のことを好ましく思いはじめていた矢先のことだけに、目の前で扉を閉められたような衝撃があった。
「それで、これからどうする?」
「どうするも何も……ここで時間を潰そうかと思ってる」
「一緒に行った場所に足を運ぶのは人探しの基本だが、あまりのめり込むなよ」
「そんなこと……」
そんなことはあったが、友人に言っても仕方のないことだった。
タイチと待ち合わせをしたカフェで、同じ曜日の同じ時間を過ごすことしかできない。ひとりでいると、なぜ、どうして、何が、と思考が広がっていくのが怖くて、こうして友人と連絡を取ってみたものの、彼にも予定があり、やがて朱島は、またひとりになった。
あんなに縋り付くような、求められる悦びに満ちた交合は、初めてだった。しかし、身体だけ満たされて済むのなら、こうまで苦悩していない。結局のところ、朱島は認めるより他になかった。タイチを好きになりかけていた……ということを。
朱島が、溜め息とともに、あらぬ方向へ飛びがちな思考を引き戻し、手元にある雑誌へ意識を留めたその時だった。
ふいと視界の端を、ある青年が過ぎった気配がした。
驚いて顔を上げると、見覚えのある背中が、カウンターでコーヒーを受け取り、街へと出て行った。
「タイチ……?」
後を追い、路上へ飛び出して左右を確認すると、ちょうど道路を横切ろうとしている姿が確認できた。
「タイチ……!」
青年は雑誌とタブレットらしき荷物を抱え、渡り終わったところで朱島に気付いたらしく、驚いた顔をした。タイチだった。
朱島は急いで道路を横断し、タイチの前まできて、急に不安になった。あんなにきれいに別れ際、引いたのに、追い縋られて迷惑だと思われないだろうか。こんなに取り乱して追ってこられて、無様だと思われないだろうか。朱島がやろうとしていることは、明らかにマナー違反だった。遊びの恋なら、明らかに。
「朱島さん……」
「す……すまない……っ」
年下の青年を前に、急いで駆けてきた反動で肩で息をする。こんなに恋に熱くなるなんて、自分でもどうかしていると朱島は思ったが、諦めきれなかった。
「なぜ「さようなら」なのか、理由を訊きたい!」
唖然としていたタイチは、その問いに神妙な顔をした。
「わかっている。ルール違反なのは承知している。追いはしない。なぜかを聞いたら、そのまま回れ右をして私は家に帰る。ただ……理由が欲しいだけなんだ。きみを、ずっと好ましいと思っていたから」
朱島が顔を上げると、タイチは逡巡した上で、黒いデニムの尻ポケットから名刺を一枚、出した。
「……あなたと別れるには、あれしかないと思ったからです」
その名刺を受け取った朱島は、「あ」と目を見開いた。そこには「株式会社CHICA副代表 太地一成」とあった。
「きみ、は……」
その後、よく、俺のことがわかりましたね、と言われ、少し照れ笑いをされた。
「俺は、会社でも顔を知ってる人間でも、大体みんな、気配を消してるから話しかけられてもわからない、って言われるぐらい、存在感なくて、渉外は専門外なんです。副代表とかついてますが、普段はエンジニアの取り纏めをやっていて……つまり、会社にこもってて。……でもそんなの全部、言い訳です」
タイチは、そう言いながら俯いた。
「俺は、怖くなったんです。あなたのことが」
「私のことが……?」
朱島が尋ねると、タイチは最初、赤くなった頬を右往左往させていたが、やがて意を決した男の顔になった。
「……はい。怖気付いて、すみませんでした」
頭を下げると、急に背が伸びた気がして、朱島は若干混乱しながら先を促した。
「どういうことなのか、私も仕事に関することなら、聞いておきたい」
「仕事は関係……ないと言えば嘘ですが、あまり関係はありません。あたは、その……、」
そこで言い淀んだまま、タイチはしばらく硬直していた。しかし、朱島が動かないのを悟ると、意を決して男の顔になった。
「あなたは、おいしい」
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