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7. 僕がΩ…

その日璃玖はレッスンには向かわず、そのまま帰路についた。 ただ、どうやって帰ってきたのか覚えていないくらい頭の中はグルグルしたままで、いつもはそれほど重いとは感じない自宅の玄関の扉が、とても重く感じた。 鍵を開け、急いで靴を脱ぎ、二階の自分の部屋まで階段を駆け上がった。 そのまま、まるで逃げ込むように部屋に入り、鍵を閉めた。 「璃玖ー?帰ったの?今日は早いのね」 足音に気がついたのか、母が階段を上りながら声をかけてきた。 璃玖はカバンを投げ捨て、急いでベットに入り、布団を頭から被った。 「ん、ちょっとね!!調子悪いから放っておいて…」 「放っておいてって…。璃玖、どこがどう悪いの?」 「身体がだるいだけ…寝れば治ると思うから、本当に放っておいて…」 部屋のドアノブを回されるが、いつもはかけない鍵をかけていたため、顔を合わさずに済んだ。 だが、そのせいで母に何か気付かれたかもしれない。 ただ、璃玖には取り繕う余裕も残されていなかった。 「璃玖…。わかったわ。じゃあ、お腹が空いたら降りてきてね」 「…うん」 こういう、あまり詮索はせずに、自分で解決させようとしてくれる母のいつもの対応には、本当に感謝しないといけない。 だが、今は余計に自分があんなことをしてしまった罪悪感に苛まれ、璃玖は考えないように布団を深くかぶった。 遠くからスマホのバイブ音が聴こえる。 時刻はお昼頃のため、恐らく、事務所の食堂に現れないことを心配した一樹からだろう。 (一樹のこと考えてあんなことしちゃうなんて…顔が合わせられないよ) 長い時間鳴っていたが、璃玖は耳を塞いで音を遮断した。 どれくらいの時間が経ったのか…。 何も考えないようにしているうちに、体も疲れていたせいか、いつのまにか璃玖は深い眠りについていた。 コンッコンッ 璃玖はノックの音で目が醒めた。 布団から顔を出し、壁にかかった時計をみると二十時を回っていた。 「璃玖…大丈夫か?」 声の主は、母ではなく父だった。 「うん、大丈夫。もう少ししたら下に行くから…」 「ん、わかった」 パタンパタンと階段を降りていくスリッパの音が聞こえる。 昼間は気が動転していたが、寝たことによってだいぶ冷静さを取り戻すが、まだ罪悪感は消えずにいた。 出来れば両親と顔を合わせたくないが、心配してくれていることを無下に出来ず、ベットから起き出た。 机に置かれた鏡で自分の表情を確認して「よしっ」と自分に気合いをいれ、鍵を捻り、ドアノブに手をかけ、一階のリビングに向かう。 リビングの扉を開けると、ダイニングセットに父と母が並んで座っていた。 「璃玖、何か食べる?」 璃玖に気づいた母に、優しくそう言われて自分のお腹具合を確認するが、特にお腹もすいておらず、食欲もなかった。 「うーん、いらないや」 「そう。じゃあ、ミルクティーなら飲めるかしらね」 「ありがとう」 本当は飲み物もいらなかったが、心配そうな顔の母を見て、とてもいらないとは言えなかった。 母は席を立ち、キッチンに向かってお茶の準備を始めた。 璃玖はそのまま、父と向かい合う形のいつもの席に着く。 「璃玖、体は大丈夫なのか?」 「うん、ぐっすり寝たらスッキリしたよ。心配かけてごめんね」 「そうか」 安心してくれたと思ったが、なぜか父は複雑そうな顔をしていた。 (何か気づかれたかな…) 自分の言動に不安を覚えると「はい、璃玖」と、ミルクティーが入った大きめのティーカップを母から差し出された。 「あなたも」 父の前にはいつものコーヒーが置かれた。 「ああ、ありがとう」 父はコーヒーにゆっくり口をつけ、母も父の隣に座った。 いつもなら他愛もない話をして、穏やかな雰囲気のはずが、今日は空気がとても重く感じる。 父のコーヒーカップを置くカタッという音も、いつもは気にもならないが、静まり返ったリビングによく響いた。 「なぁ、璃玖。ちょっとこれから大事な話しをしてもいいか?」 「うん、何?改まって…」 「体調が悪いと聞いて、もし…。いや、実は…これが届いたんだ」 机の端に置かれたA4サイズの封が開いた封筒を父は手に取り、璃玖に差し出した。 「なに、この封筒?」 璃玖は封筒を受け取り、送り主を確認すると、それは行政機関からだった。 少々前に学校で第二性の検査があったため、その結果だろうと予想がついた。 「あぁ、第二性通知か。どうせ、βで…しょ…」 両親がβの子供はβというのが定説で、αやΩになる確率はゼロに近い。 なので人口の大半はβであり、第二性が同一者同士が結婚することが、この世界の暗黙のルールのようになっている。 璃玖の両親も共にβであり、自分もβだと疑ってこなかったが、封筒の中身を見て驚愕した。 「な、な、なんで?なんで僕がΩなの?」 書類に記載されている名前や生年月日などの個人情報はすべて一致しているが、診断結果を何度見直しても『Ω』と書いてあった。 自分はβだと疑ってこなかった璃玖には、寝耳に水で、とても診断結果は信じられなかった。 「そりゃ、苦手なことも多いけど、僕が劣等種だなん…」 パシッ 「あなたっ!!」 璃玖は頬に軽い痛みを感じた。 何が起こったのか、理解するまで時間がかかったが、今まで手を上げたことのない父に平手をされたことに、痛みよりショックの方が大きかった。 父もとっさに手が出てしまったようで、しばらく自分の右手を見つめて、席に着き直した。 「…そういう考えはやめなさい。人を苦しめるし、自分も傷つくことになるぞ」 「ご、ごめんなさい」 こんな厳しい顔をした父を見たことがなく、萎縮してしまったが、やはり診断結果には納得いかず、璃玖は声を上げた。 「でも、なんで僕がΩなの?父さんも母さんもβじゃないか、なにかの間違えなんじゃないの?」 「実は父さんの両親、つまりお祖父様たちはαとΩの番だったんだ」 「そ、そんな…」 たしかに隔世遺伝で両親以外の第二性が発生する確率はゼロではないが、極めて低いと学校では習っていた。 「お祖父様もお祖母様もβなのかと…」 祖父が亡くなったのは、今から一年ほど前だった。 璃玖の祖父は一代で小さいながらも会社を築き、その会社は父が引き継いでいる。 璃玖が生まれてからは、祖父は会社を引退して、書斎に籠もりがちだったが、璃玖も一緒に書斎で過ごす事が多く、祖父の勧める本を読み耽る毎日を送っていた。 だが、祖母の写真は一枚もなく、璃玖は一度だけ祖父に祖母はどんな人だったのか聞いてみたが、 寂しそうな顔で微笑むだけで答えてはくれなかったことを覚えている。 そのため、子供ながらに聞いていけないんだと感じ、以降、祖母のことを話題にすることは一度もなかった。 「お祖母様といっても男性だったが、お祖母様が亡くなられてから、ここにはお祖父様と一緒に住んだからね。遺品はすべて、ある場所に残したままなんだよ」 「お祖父様はとても璃玖のことを大好きだったわ。でも、あなたがお祖母様の血を引いてΩになることを、最後まで心配していらしたの」 「もし、璃玖がΩだった場合は、これを渡して欲しいと頼まれていたんだ」 父から差し出されたのは、璃玖名義で作られた通帳と印鑑が入ったケースと、 住所が書かれた紙のタグがついた鍵だった。 「この鍵は、生前お祖父様とお祖母様が住んでいた家が、今は立ち退きでマンションになっている。お祖父様たちの荷物が残っているが、その一室の鍵だ。通帳も部屋もお祖父様が璃玖に残したもので、璃玖が好きに使いなさいって…」 「ちょ、ちょっと待ってよ。話についていけない。こんなの急に渡されても困るし、僕に出て行けってこと?」 「待って、璃玖…。話しをきい…」 「聞きたくない!!」 ドンッ 璃玖は母の言葉を、力一杯机を叩いて遮った。 そのせいで、一口も口をつけていなかったミルクティーがたっぷり入ったカップが転がり、そのままガシャーンという音と、机からポタポタと床に雫が滴り落ちる水音が静まった部屋で響いた。 「ご、…」 すぐに謝ろうとするが両親の顔を見て、璃玖は言葉を飲み込んだ。 いつもは「大丈夫、大丈夫」と笑ってくれる二人が、顔を引き攣っていることに気がついた。 その時、璃玖は悟った。 (あぁ、二人も僕がΩでショックだったんだ…) 必死に平常心で話してくれていたのが、申し訳ない気持ちになる。 (ごめんなさい…自分の息子がΩなんて、それはショックだよね…) 璃玖はいたたまれなくなり、二人の顔は出来るだけ見ないようにして、封筒を握りしめてリビングをそっと後にした。

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