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8. もう約束守れないや…。

この世の中は男女の他にもう一つの性、第二次性が存在する。 第二次性はα『アルファ』、β『ベータ』、Ω『オメガ』の三種類に分かれているが、外見では全くわからない。 人口の大半はβで、αは総人口の数パーセントしか存在せず、Ωはαよりさらに半分ほど少ないとされているが、隠している者も多く、正確な数字は不明となっている。 αには科学で解明はされていないが、あらゆる能力に長ける者が多く、それ故、世の中の重要ポストはαが大半を占める。 政治家や重役はもちろん、芸能界などもαが多い。 だが、そんなαを『ヒート』という激しい発情状態にし、狂暴化させてしまう発情期をもつΩ。 発情期はΩだけに十二歳頃から訪れ、毎月一週間ほど続く。 発情期を迎えたΩは、男性であっても妊娠することが出来る。 発情期は性欲を発散させることにより沈静化することが出来るが、発情期中のセックス時にΩはαに首すじを噛まれると、Ωとαには番『つがい』と言われる契約が成立する。 番は死ぬまで解消されないが、Ωの発情期は番になったαに対してのみに有効になる。 そんな発情期は、毎日抑制剤を服用することによってほぼ抑えることが出来るようになった。 もし、何かの拍子に発情期になってしまっても、特効薬で発情後でも抑えることが出来る。 ただ、抑制剤や特効薬には様々な副作用が報告されている。 また、服用していても、体質によって抑制が不完全であったりする場合があり、予期せぬタイミングで発情期を迎えてしまうΩも少なくない。 その場合、事件に発展することが多く、世間では事件にαが巻き込まれるという風潮のため、昔ほど表だってはいないが、まだまだΩは社会のお荷物扱いをされている。 α、β、Ωという第二次性は、親の性が引き継がれることが一般的で、Ωが生まれることを避けるようになっていることと、αは優れた血筋を残そうとする傾向のため、第二次性問わず同性婚も可能だが、 αはαなど、第二次性同一同士で結婚するのが暗黙のルールのようになっている。 ただ、隔世遺伝などで親と同一ではない第二次性の子が生まれる場合があるが、極めて稀な例であった。 「はぁ、はぁ」 急いで階段を駆け上がったせいか、それとも気持ちの整理がつかないせいか、心拍数が上がったままで呼吸が落ち着かない。 昼と同じように自分の部屋に逃げ込むが、鍵を閉めたところで力が抜け、璃玖はドアを背に座り込んでしまった。 「どうして、どうして…」 璃玖は握りしめていた診断結果の入った封筒を床に投げつける。 リビングで話をしていた時には、ただ事実を知ったことにショックだったが、落ち着いてくると、自分がΩだという不安ばかりが襲ってきて、璃玖は我慢していた涙が溢れて止まらなくなった。 この世の中は平等と謳いながらも、Ωへの差別は根強く残っている。 会社などでは、積極的にΩを採用することによって社会的信用やイメージアップを図っているが、芸能界という、才能だけでは生き残れない世界では、あえてΩを起用するリスクを冒すことはない。 スターチャートのオーディション面接時に、両親の第二次性を聞かれたが、今思えば年齢的に自己の第二次性が不明のため、Ωの入所を防ぐためだったのだと気がついた。 (ごめん、一樹…もう約束守れないや…) 二人でデビューしようと約束したのに、まさかこんなことで夢が潰されるとは思っていなかった璃玖は、 ただ絶望することしか出来なかった。 まだ自分がΩだと信じがたいが、今朝の一樹との出来事も、自分がΩで一樹がαであるば合点がいく。 (僕が一樹を変えてしまったんだ…) もう、自分が隣に一緒にいると一樹に迷惑がかかってしまうことは明白だった。 しかも、発情期でもないのに全く抑えることが出来なかったあの性欲。 もし発情期を迎えてしまったら…自分が自分でなくなるような恐怖で震えが止まらなくなった。 (こわい。こわいよ…一樹) 頭に浮かぶのは優しく手を差し出してくれる一樹。 だが、自分がΩであるために、あの吸い込まれるような目をした一樹に自分が変えてしまう。 璃玖は声を殺しながら、一人暗い部屋で不安と恐怖に押しつぶされながら、ただただ泣き続けた。 ふと気がつくと、カーテンの隙間から朝日が差しこんでいた。 ドアに寄りかかり、座ったままだった璃玖は、泣き疲れて寝ていたような、ずっと意識はあったような不思議な感覚だった。 ただ、一晩中泣いたことで目の周りが腫れて、痛いことだけはよくわかった。 (顔、洗ってこよう…) 頭がぼーっとしているせいで、深く考えることが出来なくなっていることは璃玖にとって救いだった。 璃玖は寝静まった家に、物音を立てないように一階に降り、静かに洗面所に向かった。 顔を洗い終わり、鏡に映った自分の顔を見ると、目は充血し、いつもは二重の目も一重になるくらい腫れてしまっていた。 「ふっ、ブサイク」 思えば、何一つ取り柄がなく、パッとしない容姿の自分がアイドルになんてなれるはずもない。 あまりに一樹は眩しい存在で、自分も隣にいたい、一緒に同じ世界を見たいなんて、とんだ勘違いだったと、璃玖の思考はマイナス思考になる一方だった。 だが、そのまま鏡を見つめていると、一つの疑問が浮かんできた。 (もしかしたら、この顔はお祖母様似だったのかな) 璃玖の顔は、両親とはなんとなく似ている程度だったが、祖父にはほとんど似ていなかった。 璃玖の中で、今までタブーだと思っていた祖母への興味が湧いてきた。 祖父はたまに、璃玖を優しい目で見つめて微笑んでいたことがあり、今思えば、あれは祖母の面影を自分に感じていたのかもしれない。 (Ωでどんな人だったんだろう…) そんな事を考えながら、棚に置かれたタオルを手に取り、顔を拭きながらリビングに向かうと、昨日のカップの破片は跡形もなく片付いていた。 代わりに机には、三角に握られたおにぎりが二つと、ふっくらと焼き上げられた卵焼きが乗せられたお皿が、ラップに包まれた状態で置かれていた。 (母さん…) 璃玖はなんだか、胸のあたりにつかえていたものが取れた気がした。 昨日と同じ場所に座り、机に置かれたおにぎりを手に取って「いただきます」と小さく呟き、口に運んだ。 一口食べると気持ちが落ち着いたのか、昨日から何も食べていないことに気がつき、夢中で食べてしまった。 食べ終わると、お皿の横に見慣れない無地の箱が置かれ、小さい字で「璃玖へ」と蓋に書かれていることに気がついた。 蓋を開け中身を確認すると、昨日差し出された鍵と通帳のセット、そして見慣れない薬とメモが入っていた。 璃玖は中身を箱を取り出し、一つ一つ確認をした。 まず鍵についたタグに書かれた住所は、家から五分ほどの高台の住所だった。 たしか病院の跡地を利用して、最近大きなマンションが建てられた場所だ。 次に通帳を開いてみると、その金額に驚いた。 今まで見たことのないゼロの数で、金額の単位を何度も確認してしまった。 (お祖父様…) 恐らく、璃玖がΩだった時に、Ωとして生きていく時に不自由しないように残してくれたのだろう。 これから先、どのくらいのお金が必要かわからないが、大事に使っていこうと璃玖は決めた。 最後に、見慣れない薄い水色と白の二色で構成されたカプセルは、どんな薬か大方予想はついた。 璃玖はカプセルを指先でつまみ、天井にかざしてみた。 (これが抑制剤…) 抑制剤は国から支給されるため、薬局に行かなくても、まとまった量が自動で自宅に届くようになっている。 恐らく、今回の診断書に同封されていたのだろう。 一緒に入っていたメモには『毎朝 、食後に一粒』と書かれていた。 璃玖は空いたお皿と薬を持って台所に向かい、空いたお皿はシンクに置いた。 そして、食器棚からコップを取り出し、蛇口をひねった。 コップに水を溜めながら指先に握った抑制剤をもう一度見つめる。 (これを毎日飲めば、僕がΩだとバレない) 昨日はあまりに色々なことがあり、パニックになってしまっていたが、 今はこの抑制剤もあり、Ωも普通に生活が出来るようになっていると学校で聞いた。 (大丈夫、大丈夫) そう自分に言い聞かせながら水と一緒に薬を口に含む。 薬独特の苦味があり、飲み慣れないカプセルの大きさに、目を瞑り、勢いをつけて飲み込むと、 薬が喉をゆっくり通っていく感じがした。 それはまるで、薬というより毒を飲んでいるような感覚だった。 飲んだ後は特に変化もなかったため、リビングに戻ると、時計が目に入った。 時刻は母が起き出す時間の一時間ほど前を指していた。 (今日は月曜日…か) 通常であれば学校に行き、放課後はレッスンに向かうが、どちらも行く気分になれず、 両親と顔を合わせるのもまだ抵抗があった。 ふと、先ほど手にした鍵の存在を思い出した。 (行ってみようかな…) 璃玖は自分の部屋に戻り、何が必要かよくわからなかったが、 着替えや日用品を出来るだけリュックに詰めて、小旅行が出来るくらいの身支度をした。 リビングに戻り『お祖父様のマンションに行ってきます。数日そっとしておいてください』と書き置きを残し、小さく「行ってきます」と呟いて、璃玖は家を後にした。

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