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9. Ωであっても幸せですか?

「ここが…」 朝の駅に向かう人波に逆らって番地を頼りに辿り着いたのは、予想をしていた通りの場所に建つ高台のマンションだった。 (で、でかい…) ただ、そこに建っていたのは、璃玖の予想以上の高級マンションだった。 三つ程の棟で形成されており、壁と剣先フェンスに覆われた建物は、なかなか正面に辿り着けず、やっと着いたと思った正面玄関には門が設置されていて、まるで美術館のような重厚な建物だった。 大小様々な樹々に囲まれた門をくぐると、まるで高級ホテルのようなエントランスが広がっていた。 「よしっ!!」 気後れしないように自分に気合いを入れエントランスに入ると、すぐにオートロック式の自動ドアがあった。 戸惑いながらも手に持っていたキーをかざすと、自動ドアが開き、中に急いで入る。 不審者に思われないよう、出来るだけ自然にしようとするが、まるでスターチャートの事務所のエントランスのように広いロビーで、ついどこに何があるのか、キョロキョロしてしまう。 恐る恐る中に進んでいくと、複数並ぶエレベーターがあり、ボタンを押すと、すぐにエレベーターが到着した。 到着したエレベーターに乗り込むと、鍵についたタグで部屋番号を確認にし、十二階のボタンの押す。 (十二階って最上階か…) ボタンの上に設置されたディスプレイを見ていると、あっという間に階を示す数字は進んでいき、最上階に到着した。 降り立ち辺りを見回すと、同じ階には五部屋ほどしかなく、部屋番号は一番奥の角部屋を指していた。 奥に進み、ドア横のネームプレートに「神山」と書いてあることを確認して部屋の鍵を開ける。 ゆっくりとドアを開け、中に入ると、誰かが掃除をしているのか埃は全くたまっていなかったが、靴や小物などは一切なく、生活感を感じなかった。 (母さんが掃除でもしに来ているのかな…) 靴を揃えて脱ぎ、上がると、正面にドアが一つ、左手には二つ、右手からは明るい日差しが差し込んでいた。 璃玖は光に誘われるように右手に進みドアを開けると、広々としたリビングダイニングキッチンが広がっていた。 ただ、家具はダイニングテーブルとソファがあるぐらいで、玄関と同じくらい生活感がなかった。 リビング奥のドアを開けると、ベットルームになっていて、大きなダブルベットが真ん中に置かれていた。 この部屋も目立った家具はなく、ベット以外には、サイドテーブルがあるぐらいだった。 ただ、そのサイドテーブルの上には、写真立てが二つ飾られていた。 璃玖はベットに腰掛けて写真を見ると、飾られている写真の一つは父と母の結婚式のものだった。 (父さんも母さんもそれほど変わってないなー) おそらく十年ほど前と思われる二人は、緊張しながらも仲睦まじく洋装で写っていた。 そして、もう一つの写真は古そうに色あせているが、男性が三人で写っていた。 写真をよく見るため写真立てを手に取ると、一人は父ぐらいの歳の頃の祖父だと気がついた。 (ということはお祖父様の隣に写っているのはお祖母様?) 初めて見る祖母の姿は、祖父にそっと腰を抱かれながら優しく微笑む男性だった。 ズボンと白いシャツを着ているが、それでも男性と思えないくらい細身で中性的で、とても綺麗な顔立ちだった。 祖父母の隣に映るもう一人の男性は誰だかはわからなかったが、三人が並んで映る写真からは、両親の結婚式の写真と同じくらい、幸せそうな様子が感じとれた。 (お祖母様はΩでも幸せだったのかな…) そんなことを考えた璃玖は頭を振り、マイナス思考になりそうなことを阻止して、写真立てをサイドテーブルに戻した。 気分転換に外の空気を吸おうと、立ち上がり、そのままもう一度リビングに向かう。 リビングのカーテンを開けると、ルーフバルコニーに繋がっていた。 大きな窓を開けると、少し肌寒いが心地の良い風が入ってきて、高台にあるおかげで遠くまで街が広がって見えた。 「うーん、風が気持ちいいー!」 (秋色、秋景色、秋麗…) 少しひんやりする秋風が心地良く、そのまま蹴伸びをしていると、背後から「ガチャっ」という音がした。 振り向くと、そこには祖父ほどの年齢の男性が立っていて、璃玖と目が合う。 その瞬間に男性は手に持っていたカバンを手から落とし、驚いた様子で何かうわごとのように呟いた。 璃玖には名前のように聞こえたが、風の音でほとんど聞き取ることができなかった。 男性は驚いた表情から、ハッとしたように表情を和ませて、そのまま璃玖に近づき頭を下げた。 「お久しぶりです、璃玖様」 璃玖は年上の人に頭を下げられるのは初めてで、動揺してしまう。 「えっ、あ、あ、頭上げてください。…あれ?どうして僕の名前…」 「あ、驚かせて申し訳ございません。そうですよね、璃玖様と最後にお会いしたのは、お生まれになられてすぐの時だけですものね。私、以前は璃玖様のお祖父様、浩二朗様の秘書をしておりました、|天沢楓と申します。浩二朗様が引退された後は、このお部屋の管理を任されておりました」 頭を上げた男性の顔をよく見ると、年齢は重ねているが、先ほど祖父母と写っていた男性によく似ていることに気が付いた。 璃玖は気になり、そのまま質問をする。 「間違っていたらごめんなさい…寝室の写真に写っていた方ですよね?」 「はい、そうです。随分昔の写真ですが…。でも、璃玖様を拝見していると昔を思い出します」 天沢は昔を懐かしむような表情を浮かべた。 「しかし、ここにいらっしゃったということは…。璃玖様はΩだったんですね…」 「…っ」 Ωという単語に、璃玖の身体がつい、ビクッと反応してしまう。 「あ、その…。ご不快にさせて申し訳ございません。ただ、この部屋は、璃玖様がΩであった場合のみに鍵をお渡しするとなっておりましたので…。立ち話もなんですので、お茶を淹れますね。よろしければ座ってお待ちください」 天沢は自分のカバンから黒いエプロンを取り出して、シャツの袖をめくりながらキッチンに向かう。 璃玖はキッチン横に置かれたダイニングテーブルに席に着いた。 「ミルクティーはお嫌いですか?」 ホーロー製の口が細いポットを火にかけ、戸棚から数種類あるティーカップを選びながら天沢は璃玖に尋ねる。 「あ、好きです。母もよく淹れてくれるので」 「それはよかった。少々お待ちくださいね」 対面キッチンとなっているため、天沢のお茶の準備の様子が椅子に座りながらよく見えたが、普段お茶を入れない璃玖でもわかるくらい、丁寧でありながらも余分な動きがなくスピーディーだった。 ついつい天沢の手際の良さに見惚れてしまう。 「すごい、慣れているんですね」 「ふふ、ミルクティーは特に。浩二朗様の休憩時は、コーヒーよりミルクティーを淹れていたものですから」 「へぇー」 「ちなみにミルクティーは、璃玖様のお祖母様、つばき様直伝です」 璃玖は初めて、祖母の名前が「つばき」ということを知った。 「天沢さんは、お祖母様のこともよく知っているんですか?」 「えぇ、もちろん」 「じゃあ、お祖母様がΩということも…」 「もちろん存じ上げております」 そんなことを話しているうちに、あっという間にミルクティーは完成した。 天沢は、お盆に椿の柄のティーカップに入ったミルクティーとクッキーを数枚お皿に乗せて、璃玖の目の前に運んでくれた。 だが、目の前に並べ終わると、そのまま璃玖の少し後ろに立ったままの天沢に、璃玖は困惑する。 「あ、あの、座らないんですか?」 「あっ、申し訳ございません。つい昔のクセで。ただ、お仕えする身なので、主人と同席するというのは…」 「お仕え…?主人…?とりあえず、普通にしてもらえると助かります。あと敬語も…」 「あ、失礼しま…いえ、ゴッホン。わかりました。出来るだけ堅苦しくないように気を付けます。では、座りますね」 そう言って天沢は璃玖の向かい側に座った。 「さて、まずはもう一度自己紹介をさせてください。私は天沢楓と申します。浩二朗様より、このお部屋の管理と、璃玖様がここに住むようになった時には、お世話をするようにとお亡くなりになる前から約束をさせていただいてました」 「そうだったんですね。ん?お祖母様が『椿』で、天沢さんが『楓』…なんだか兄弟みたいですね」 璃玖は明るくそう言うと、天沢は先程出会った時以上に驚いた顔をして、そのまま前触れもなく一筋の涙を流した。 「え!ご、ごめんなさい。僕、何か…」 いきなりの天沢の涙に璃玖は慌てふためいてしまう。 「失礼しました。初めてつばき様…璃玖様のお祖母様にお会いした時にも同じことを言われて…。つい、懐かしくなってしまいました」 「…僕、お祖母様の写真を見たのも、名前知ったのも今日が初めてだったんですが、僕と似ていますかね?」 「えぇ、璃玖様の年の頃のつばき様に、驚くくらいそっくりです」 「そんな昔からお祖母様と知り合いだったんですか?」 「そうですね。実は浩二朗様に仕える前からつばき様とは付き合いがあったものですから…。詳しい話はまた今度の機会に…。ちなみに、私もΩです。番がいて、この隣の部屋で一緒に暮らしています」 そう言って、天沢はシャツのボタンを一つ外し、長めの襟足を手で持ち上げ、首筋の噛み跡を見せてくれた。 噛み跡は古そうに見えるが、形がくっきりと残っていた。 それを見た璃玖は、あらためてΩという存在に実感が湧いてきた。 「璃玖様はご自身がΩだということに驚かれましたか?」 外したシャツのボタンを元に直してながら、天沢は心配そうに璃玖に尋ねる。 「驚いたというより、正直ショックで…まだ信じられないです」 璃玖はティーカップを握る手に力が入る。 「そうですよね。そして、恐らくこれから様々な困難が待ち受けていると思います。世間のΩに対する目は厳しいですからね」 「…」 「でも、だからこそ浩二朗様は、心配されて、この部屋を璃玖様に残されたんですよ」 「そう…ですよね。母も父もβだけど、発情期になった時に迷惑をかけてしまうかもしれないし…」 ヒートという状態になるのはαだけだが、βにもΩの発情期は毒のようなもので、αほど発情はしないが、近い症状が出る場合がある。 そのため、昔ほどではないが、今でもΩが生まれた家庭は発情期を恐れ、子供を施設に預けたり、幽閉したりするらしい。 「発情期が来るまであと二年ほどですかね…。もう抑制剤は飲まれ始めましたか?」 「はい、今日初めて飲みました。でも、飲み続ければ発情期は抑えられるから、日常には支障ないですよね…?」 「最近の抑制剤はたしかに効能が優れています。ただ、完全ではないということはご存知ですよね」 「はい、学校で少し習いました」 「実は浩二朗様がこの部屋を璃玖様に残したことには、もう一つ理由があります」 「えっ…」 「つばき様が抑制剤が全く効かず、発情期を抑えることが出来なくなってしまった時期があったからなんです」 「薬が…効かない…?」 つまりそれは、発情期が抑えられずに、日常が送れないということを意味していた。 「浩二朗様は、璃玖様にその事が遺伝されていないかを心配されて、この部屋だけでなく、璃玖様の発情期に影響されないΩである私を使用人として残されたのです」 「そ、んな…どうして薬が効かなくなったんですか…?」 璃玖はティーカップを握る手が、不安で震えだしそうで、天沢に悟られないよう、そっと反対の手で手首を抑えた。 「つばき様は…恋をしたからだと、笑って話されていました」 「恋…ですか?」 「人間の体というのは不思議なもので、化学ではまだ解明されていないことがたくさんあります。つばき様が薬が効かなくなった理由は化学では原因不明でしたが、私はお話を聞いた時、番の力だと思いました」 「番…ですか?」 「えぇ、番は魂の番です。どちらかが死ぬまで永遠に解消されません。そんな番は、やはり好きな人となりたいと思う結果が発情期なのではと思うんです」 「天沢さんも番がいらっしゃるんですよね。Ωであっても幸せですか?」 不躾な質問だとわかっていなが、璃玖はどうしてもその答えが知りたかった。 「えぇ。あの人と出会うまではΩであることが嫌で嫌で仕方なかったですが、そんなことが一瞬で吹き飛んでしまうくらいには」 天沢は幸せそうに目尻を下げながらニッコリと笑う。 「しかし、璃玖様には番を作ることで発情期を抑制するのではなく、自由な選択をしてほしいというのが浩二朗様のお考えでした」 「そうだったんですね…。色々教えてくれてありがとうございます」 「今は…混乱されていらっしゃいますよね。顔色もよくないですし…。今、シーツと枕カバーを新しいものに変えますので、今日のところはゆっくり寝室でお休みになってください。せっかくの綺麗な顔が台無しですよ」 「そんな、僕の顔なんて…。でも、ありがとうございます」 「では、お目覚めになった時用に、なにか簡単に召し上がれるものと、お風呂の準備をして、私は一旦失礼しますね。また夜に伺いますので、とりあえず今はゆっくりお休みください」 「ありがとうございます…」 そして、天沢がシーツなどを変えている間に、璃玖は天沢の淹れたミルクティーをゆっくり飲み干すと、 気持ちが少し落ち着いたのか、はたまた緊張の糸が切れたのか、机に突っ伏した形で眠りに落ちていた。

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