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11. 朝
一樹との電話や天沢の話などで璃玖の許容量を超えてしまっていたせいか、
熱が下がらず、目が覚めては寝てを繰り返す日々が続いた。
いつの間にか一週間が過ぎ、曜日はまた月曜日になっていた。
体のだるさを感じつつも目を覚ました璃玖は、寝室のカーテンを開けた。
外はまるで先週の璃玖の気持ちのように、どんよりと今にも雨が降りそうな鈍色の雲で覆われていた。
(だいぶ気持ちの整理はついたんだけどな…)
この一週間ベットから出ることが出来ず、何も考えたくなくても、
色々考えてしまう環境だったため、自分がΩという存在ということは受け止めることが出来た。
ただ、養成所や一樹、番を持つかどうかまではまだ決められなかった。
「はぁー…」
ため息をつくと同時に玄関を開ける音がしたため、
璃玖は急いで寝室の扉を開けてリビングに向かった。
「天沢さんっ」
「あっ、璃玖様。もう起き上がっても大丈夫なんですか?」
両手に持った買い物袋をキッチンにサッと置き、天沢は心配そうな顔で璃玖に近づき、おでこに手を当てる。
「もう大丈夫ですよ。本当に色々ありがとうございました」
寝込んでいた璃玖のため、朝昼晩と毎日訪ねてくれた天沢は、身の回りのことを全部やってくれた。
料理や洗濯、掃除など、家庭科の授業以外でやったことがない璃玖には、
熱がなかったとしても何も出来なかったため本当に助かった。
なにより、天沢の存在は精神的にも璃玖にとって、かけがえのない支えになっていた。
「ご飯は食べられそうですか?」
「はい。もうお腹ペコペコです」
この一週間、食欲が戻らず、いつもの半分ぐらいしか喉を通らなかったため、いくら食が細い璃玖でもエネルギーが足りなくなっていた。
「では、腕によりをかけたものを…と言いたいところですが、すぐに食べられる胃に優しいものにしますね」
「お願いします」
璃玖はそのまま、天沢の料理を作る姿の見えるダイニングテーブル端の特等席に座った。
天沢はいつもの黒いエプロンを取り出し、買ってきた食材を調理スペースに袋から取り出していく。
ふと璃玖は今更ながら疑問が浮かぶ。
「そういえば、お金って…」
ここに来てから天沢は毎日ご飯を作ってくれたり、タオルなどの生活必需品を買い足してくれたが、費用を請求されたことは一度もなかったことに気がついた。
「ご安心ください。まず、私のお仕事代はお隣の部屋代で浩二朗様に前払いで頂いています。璃玖様の身の回りの費用につきましては、璃玖様のお父様より頂戴しております」
「父さんから…」
「実は璃玖様とお会いした日の夜、お父様よりお電話を頂いておりました。
よろしくお願いしますと、何かあったら教えてくださいと…とても心配されていましたよ」
それを聞いて、璃玖の頭の中に、両親が心配している顔が浮かび、胸を締め付けられる。
「…そっか…あ、そうでしたか…」
「ふふっ。大丈夫ですよ。私も少しずつ堅苦しくないように気を付けますね。これから長いお付き合いですから」
「はいっ」
天沢の笑みにつられ、璃玖も顔をほころばせる。
「しかし、璃玖様はしっかりしていらっしゃる・・・。お父様の幼少期とは似ても似つかないです」
「えっ、父さんの小さい時を知っているんですか?」
「知っているもなにも、おしめを替えたり、離乳食を作ったのも私です」
「えっ!お祖母様は?」
祖父母と付き合いがあったということは、その息子を知っていてもたしかに不思議ではないが、話ぶりではまるで天沢が『お母さん』のようだった。
「あー…、つばき様は…行おうとする熱意はあるのですが、一をやると十の事故が発生する方だったので…。最後はなんとか覚えて頂きましたが…あれは私も浩二朗様も育児以上に大変でした」
天沢の手が止まり、目頭を押さえながら天を仰ぐそぶりをする。
いつもは喋っていても決して手を止めない天沢が、わざわざ手を止めて思い出してしまうということは、冗談ではなく、本当に育児より祖母の面倒のほうが大変だったのだろうと璃玖は悟った。
「お祖母様って一体…」
写真を見た印象では、美人で、何もかもそつなくこなしそうな印象だったが、どうやらその見た目からは想像出来ない人らしい。
「さぁ、出来ましたよ」
天沢の手が止まっていたのは一瞬で、あっという間に、お粥や副菜、野菜スープまで完成させていた。
「あれ、今日はタイトルはないんですが?」
毎日どんなにシンプルな料理でも、レシピ本のような乙女なタイトルをつけていた天沢が、何も言わないことを璃玖は不思議に思う。
すると天沢の顔がみるみる赤くなっていき、天沢は自分の顔を手で覆い、顔を背けた。
「すみません…。その、家では当たり前だったので恥ずかしいこととは知らず…。昨晩、出張から帰ってきた番に璃玖様に指摘された話をしたら爆笑されて…やっと気付いたのかと言われました」
(…あれは璃玖に対してではなく、日常だったんだ)
家事を完璧にこなす天沢も、やはりいくつになっても『可愛い奥さん』なんだと璃玖は再認識した。
「えー、僕は天沢さんのキャラのギャップが楽しかったのになぁ」
「もう、璃玖様。揶揄うのはやめてください。さぁ、冷めないうちにどうぞ」
テーブルに運ばれた料理は、朝食らしく白で統一された食器に盛り付けられ、どれも湯気がたち、食欲をそそられた。
「いただきます!」
璃玖は手を合わせ、一品一品味を噛み締める。
天沢の料理の味付けは、璃玖の母の味付けによく似ていて、どれもとても美味しいが、寂しさを璃玖に思い出させた。
食事の途中だったがいったん箸を置き、シンクで洗い物をしている天沢を、璃玖は凛とした態度で見つめる。
「天沢さん。僕、今日から家に帰ろうと思います。
家から飛び出して、現実から逃げるみたいになっちゃっているので、ちゃんと自分がどうしたいのか決めてきます」
そう伝えると、天沢はまるで背中を押してくれるように優しく微笑みかけてくれた。
「わかりました。でも思いつめないでくださいね。逃げることも、救いを求めることは決して悪いことではありません。ただ、今日は遠方の葬儀があるということで、ご両親ともに明日の夜まで戻られないとのことでしたよ。
戻られるなら明日でも…」
「いえ、早めに戻ってもう少し気持ちの整理して、明日は笑顔で両親の帰りを出迎えるようにします」
「えらいですね。でも、迷った時はいつでもこちらにいらしてくださいね…っというより、私が淋しいのでいらしてくださいね」
「はい!あと、僕がここにいると、天沢さん僕に付きっきりになっちゃって、番さんに悪いですもん」
天沢はまた顔を赤くして「いえ、あの、そんな」と慌てふためく。
「コホンっ。では、お食事に困らないよう、温めるだけのものをいくつか多めに作りますね。ぜひ、それをお持ちになってください」
平静を取り戻すかのようにわざと咳ばらいをするところが、年上ながらも可愛いと思ってしまった璃玖であった。
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