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12. 体温

「うー…だいぶ濡れちゃったなぁ…」 マンションを出る時には降ってはいなかったが、天沢に言われ傘を持って出て正解だった。 しかし、家に近づくにつれて雨足はどんどん強くなり、靴の中はもちろん、肩やズボンはびっちょりと濡れてしまった。 秋のひんやりとした風が当たると肌寒く、璃玖は鳥肌が立ちながら濡れた傘を玄関先に置き、カバンから鍵を取り出して玄関を開ける。 「ただいま」 誰もいないとわかっていても、ついクセで声に出してしまう。 一週間ぶりに帰ってきた家は不思議なもので、自分の家でありながら他人の家であるかのように錯覚してしまう。 天沢から聞いていた通り両親は不在で、家には誰もおらず静まり返っているため、余計にそう感じてしまう。 とりあえず玄関に荷物は置いたままにして、びしょ濡れになった靴下を脱ぎ、脱衣所の洗濯機に濡れたシャツと一緒に放り込む。 自室に着替えを取りに行くかどうか迷ったが、洗濯機横の整頓された棚からバスタオルを手に取り、とりあえず上半身裸に羽織った。 そのままの恰好で玄関に置いた荷物を手に持ち、キッチンに向かう。 天沢に作ってもらったおかずを冷蔵庫しまおうと扉を開けると、中にはタッパーがぎっしり詰められており、一つ一つ、おかずの名前がマスキングテープに書かれ貼られていた。 「なんでこんなに…」 母は出来たてを食べてもらうことをモットーにしているので、下ごしらえはあっても作り置きをすることはほとんどなく、璃玖は不思議に思う。 なんとか天沢に作ってもらった分をしまうスペースを作り冷蔵庫を閉めると、扉にメモが貼られていることに気づいた。 そこには母の字で『璃玖へ。好きなものを食べてください』と書かれていた。 もう一度冷蔵庫を開け、おかずのメニューを確かめると、璃玖の好物ばかりだった。 (今日帰るって伝えていないし…。もしかして先週から何度も作り直してくれていたのかな…) 「母さん…」 璃玖は母にお礼の連絡をしようと、カバンからスマホを取り出す。 すると画面を触っても何も表示されず、先週自分で電源を落としたままだったことを思い出した。 (使わなかったら忘れてた) 一週間ぶりに電源を入れると、わずかに電池が残っていて起動することで出来た。 「うわっ、不在やメッセージがいっぱい…」 とりあえず誰からきているか確認すると、ほとんどが一樹からだった。 あの電話が来る前から着信やメッセージが何件もあり、心配してくれていたのにあんなことを言ってしまったと罪悪感が生まれる。 そのまま一樹のメッセージを確認していくと、あの月曜日の電話でのやりとり以降は日にちがあいて、一昨日の土曜日にメッセージが届いていた。 『日曜日は体育祭で、俺、レッスンは一日休むから朝練は休みで。月曜日は養成所が設備点検で休みだから間違えて来るなよ!!」と書かれていた。 一樹のメールは、月曜日の出来事がまるで何もなかったかのような文面だった。 (本心であんなこと言うわけないって信頼してくれているのかな…。それとも、何事もなかったかのように僕が話せるようになのかな…) どちらにせよ璃玖は一樹の優しさに胸が締め付けられる気持ちになり、居ても立っても居られず、無我夢中で一樹に電話をした。 手が少し震えるが、深く深呼吸をして、呼び出し音を目を瞑りながら聞く。 「璃玖?」 数回のコールで出た一樹の声は、後ろから聞こえる雨の音にかき消されそうだったが、いつものトーンで璃玖は安堵した。 「い、つき…」 安堵のせいか、緊張から解放されたせいか、悲しくないのに涙が溢れてきたが、もう璃玖には抑えることが出来なかった。 「ぅ…、いつ…き…」 「璃玖…泣いてんの?」 「泣いて…なんか…ないよ」 璃玖は精一杯の強がりを見せる。 「ばーか。何、強がってるんだよ。璃玖、今どこ?」 (あぁ、いつもの一樹だ…) 「家…だけど…」 「今から行くから住所、メッセージで送って。送ってこなかったらこの雨の中、俺、外で何時間でも待つから。じゃあっ」 「えっ!え、ちょっ!」 璃玖が動揺しているうちに、一樹から通話を切られてしまう。 慌てたせいで涙は引っ込んだが、急いでかけ直しても一樹は応答しなかった。 まだ一樹にどこまで話すかも相談するかも決めていなかった璃玖は、メッセージで「無理」と何度も送った。 だが、すべて既読がつくが一向に返信がない。 (策士だ…。見ているけど、返信しないんだ) かれこれ五分ほどメッセージを送り続けたが、状況は変わらなかった。 (あれだけ雨の音がしたってことは、一樹、外にいるってことだよね…) この雨の中に一樹を外で待たせるわけにもいかず、とうとう璃玖が折れて住所と目印を送信した。 すると、すぐに『わかった』とだけ返信がきた。 (あっ、母さんにも電話しないとな…) 一樹の最寄の駅は璃玖の最寄りの駅から一時間ほど離れており、どんなに早くても到着するまで一時間以上はかかると予想した璃玖は、体を温めようとリビングのタッチパネルで浴室にお湯を溜める設定をした。 そして母に、帰ってきたという報告と、冷蔵庫の中身のお礼のため電話をかけた。 ピンポーン 「あれ、誰だろう?誰か来たみたいだから、じゃあ母さん、ありがとう。また明日ね」 対面ではなく電話のおかげか、母ともいつも通り話せて安堵していた璃玖だったが、インターフォンの音がし、電話を切る。 「はい」 そのままインターフォンに出ると、そこにはびしょ濡れの一樹が映し出された。 「え、なんで?ちょっと待ってて!」 璃玖は急いで玄関の鍵を開けに行く。 素足のまま玄関に降りドアを開けると、インターフォンに映し出された通りの全身びしょ濡れ姿の一樹が立っていた。 濡れた髪をかきあげ、一樹は璃玖と目が合うと顔を赤らめて目をそらした。 「お前、その格好…」と一樹に指摘され璃玖は自分の姿を見直すと、 上半身裸にタオルを羽織っただけの格好だったことを思い出す。 「わっ!ごめん、僕も雨に濡れて…じゃなくて、とりあえず入って!風邪引いちゃう!!」 璃玖は一樹の腕を引き、無理やり家の中に入れてドアを閉める。 一樹の腕はまるで氷のように冷え切っていた。 「ちょうど今、お湯溜めているところだから、まずはシャワーで温まって。廊下の突き当たりがバスルームだから。僕は着替え取ってくる」 璃玖はバスルームを指差し一樹を向かわせ、自分は階段を登って自室に着替えを取りに行く。 (一樹には…) 璃玖より大きい一樹には、持っている服でゆったりめのサイズのものを上下探し出し、自分には長袖のTシャツを出し、璃玖はそのままTシャツを着た。 一樹の着替えを抱え璃玖は階段を降りていくが、聞こえてくるはずのシャワーの水音が全く聞こえてこないことに気がつく。 (あれ、もしかしてうちのお風呂の操作って特殊?) 友達の家に泊まったこともない璃玖は、自分の家のお風呂の操作が一般的か比べたことがないため、一樹が操作出来ずにいるのではないかと不安になる。 コンッコンッ 「一樹入るよっ」 脱衣所に入ると浴室に影が映っていて、一樹が中にいることはわかるが、やはりシャワーを出していなかった。 「一樹、ごめん。操作わかりにくいよね、お湯出してから行けばよかった。開けるよ」 璃玖が浴室のドアを開けると、そこには服を着たままの一樹が立っていた。 何故服を着たままなのかと声をかけようとする前に、一樹に強い力で手を引かれ、そのまま璃玖は一樹の胸に飛び込む形になる。 一樹は、まるでもう離さないと言っているかのように、璃玖の背中に腕をまわし、璃玖を強い力で抱きしめた。 「ちょ、いつ…」 璃玖は抗議しようと顔を上げると、一樹の顔が近づいてきて、あっという間に唇が重ねられる。 雨に濡れて冷え切った身体と同様に、一樹の唇も氷のように冷たかったため、重ねられた一樹の唇の形がはっきりとわかった。 (キス…されている) 最初は驚き、目を開けていたが璃玖だったが、この行為がキスだと気づいた時には抵抗はせず、自然と瞼を閉じた。 どのくらいの時間が過ぎたのだろうか。 数秒だったのか、数分だったのか、璃玖にはまるで時間が止まったような感覚だった。 何も考えられらないまま、ただ、璃玖の体温が一樹と触れている部分から服越しでも移っていくことだけはわかった。 一樹の冷たかった唇に璃玖の体温が移りきった頃、そっと唇は離れていき、一樹は代わりに璃玖のおでこや目頭に啄ばむようなキスをして、璃玖をもう一度強く抱きしめた。 「璃玖…」 「一樹…」 璃玖も応えるかのようにいつきの背中に腕を回そうとするが、ハッとなり腕を下ろす。 (僕はまた一樹をおかしくしている…) 「ごめん、一樹…離して」 「いやだ!」 一樹は璃玖を抱きしめる力をより強める。 「ダメだってば…。僕、また一樹をおかしくしちゃう…。だって…」 (僕はΩだから) 璃玖はそのまま言葉を続けて言えず、言葉に詰まってしまう。 「今日…。実はお前の家ずっと探していたんだ…」 「えっ?」 「どこの駅が近いかは知っていたし、駅から五分ぐらいの一軒家だって前に言ってただろ。一軒家で神山って苗字ならすぐ見つかるだろうって…」 「嘘…だから、こんな早く…」 「あれからレッスンも返信もこないし…。俺、璃玖を失いたくない…もう一度会いたいって必死で…」 抱きしめられているため一樹の表情はわからなかったが、声が震えていて、まるで今にも泣きだしそうな声だった。 「…一樹」 「璃玖、電話でひどいこと言ってごめん。璃玖が俺から離れていくのがショックで…」 「違う…あれは…」 一樹は抱きしめる力を緩め、璃玖の顔を真っ直ぐ見つめる。 そして、璃玖の左頬を右手で優しく包み込むように触れる。 「なぁ、璃玖…。その…お前…Ωなのか…」 「えっ…?!」 璃玖は一樹に言い当てられて、一瞬、頭の中が真っ白になる。 「なっ…、なんで?」 「あの朝練の時、俺、お前の首を噛みたいって思ったんだ…。あんなの初めてで…」 璃玖の頬に添えられた一樹の手が移動し、璃玖のうなじをそっと撫で上げる。 (やっぱり…。あの時も発情期でもないのに、一樹をおかしくしてしまっているのは僕なんだ…) 一樹と目を合わせていられず、璃玖はそのまま俯いてしまう。 そして肯定も否定も璃玖は出来ず、少しの間沈黙が続くが、一樹は璃玖の言葉を待っているかのように優しく璃玖の頭を撫でた。 その優しい手つきは、璃玖の中の何かを溶かしていくようだった。 (ああ、もう限界だ…) ついに璃玖は決心をして、一樹をしっかりと見つめ、重い口を開く。 「その…僕もつい最近知ったんだけど、Ωだったみたい」 一樹は驚くこともなく、ただ「そっか」とだけ呟いた。 「一樹はαでしょ?発情期とかまだなんだけど、なんか変なフェロモン出ているのかもね。ごめんね、色々気持ち悪いことさせちゃって…」 璃玖は出来るだけ明るい表情を作りながら伝え、もう一度一樹の胸をそっと押し、離れようとする。 だが離れようとする璃玖の押す手を一樹は掴み、一樹自身の頬に持っていく。 璃玖は自然と動きを追ってしまい、そのまま一樹と目が合うが、一樹があまりにも真剣な顔だったため目が離せなくなる。 「なあ、璃玖。たしかに俺はαだ。αの俺が怖いか?」 「怖くなんかない!でも…僕がいると、一樹が…」 「ヒートになるかもって?ヒートになった俺がいたら、怖い思いするのは璃玖だろ…。だいたい、今もあの時も璃玖に触れているのは俺の意思だ。璃玖がΩとか俺がαだとか関係ない…。俺は…璃玖だから…触れたかったんだ」 一樹はまるで泣きそうな顔で璃玖に必死に訴えかける。 「僕だから…?」 「そう、お前だから…」 「ねぇ、一樹…。Ωだってわかった時は確かに怖かった…。でも…僕が一番怖かったのは…一樹と離れることだった」 璃玖がそう伝えると、今度はさっきのように添えられるような軽いキスではなく、まるで噛みつくように一樹に強く唇を当てられる。 璃玖は一樹を受け止め、一樹に応えようと頬に添えていた手を今度はしっかりと一樹の首に回した。 感情が高ぶりすぎたのか、一粒の涙を流しながら璃玖は一樹に強く抱きしめられ、先ほどまであんなに冷たかったのが嘘のような、温かい一樹の体温を全身で感じた。

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