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15.聖

璃玖と一樹はこれからのためにいくつかの約束事を決めた。 まず、約束の期間は璃玖に発情期が訪れるまでとし、デビューするための努力は決して惜しまない。 璃玖の作る曲は二人、またはそれぞれが使うだけにする。 そして、今までのように友達として接するが、性欲が抑えられない場合はお互いを利用する。 最後に、デビュー前に発情期がきた場合や、どちらかに別に好きな人が出来た場合は約束は破棄とした。 璃玖と一樹が約束を交わしてから一ヶ月が過ぎた日曜日。 色づいていた紅葉も葉は散り、季節は冬になろうとしていた。 寒さも本格的になってきたため、朝練のストレッチもケガ防止のため念入りに行うようにしている。 背中合わせで腕を組み、璃玖は腰を曲げて一樹を背中で持ち上げストレッチを行うが、頭上で一樹の溜め息が聞こえてきた。 「はぁー…」 「一樹、それ何回目ー?」 ここ数日、璃玖が声をかけても一樹は上の空だったり、かと思いきや急に溜め息をついたりしていた。 それは一樹にとって今日が特別な日だからだ。 「だってさ!あの聖さんがくるんだぜ。俺がスターチャートのオーディション受けるの決めたのも|聖《ひじり》さんの影響だし。しかもレッスンしてくれるって…もう夢みたいだ!」 「わかったよ。もう聞き飽きたから…」 璃玖は一樹の興奮しながら話し始めるのを呆れた様子で見つめながら、一人で出来るストレッチを始める。 毎回こんな感じで一樹の聖談義が始まってしまうと長いからだった。 一樹が憧れの|夏川聖《なつかわ ひじり》は、今『HIJIRI』という名前で海外に拠点を置いている現在二十三歳のアーティストだ。 もともとスターチャートの所属のアイドルで、日本では抜群のダンスパフォーマンスと歌唱力で人気だったが、十代で海外へ拠点を移し、世界的に有名になった。 自分でプロデュースするワールドツアーが来週の日本公演から始まるため、先日から一時帰国している。 日本のメディアでも連日取り上げられているが、元アイドルの長身で甘いルックスは健在で、音楽雑誌のみならず、女性向け雑誌などの表紙や特集は一面『HIJIRI』一色だった。 「でさー。って璃玖、聞いてないだろ。何で璃玖には聖さんの凄さが伝わらないんだろう」 「いや、今日嫌というほど理解したよ…」 「なんで?」 「母さんも聖さんの熱烈なファンだった」 実は璃玖の母も聖のファンだったらしく、軽い気持ちで聖がレッスンに来ると話した璃玖は、言うのが遅いと烈火の如く怒られた。 おかげで出かける準備の間中、聖のデビュー曲から現在の活躍までの経歴を一樹同様に延々と語られてしまった。 母がスターチャートのオーディションを選んだのも聖の影響だったらしく、ある意味一樹と同様、璃玖がオーディションを受けるきっかけになった人だということも今日初めて聞かされた。 しかも、母と連弾していた曲も実は聖の曲だったり、幼い時にはPVを見て踊らされていたことがあったなど、璃玖が知らないうちに幼少から聖に影響を受けていたのだった。 「なるほど、英才教育だな。俺、お前の母さんと聖さんについて永遠に話せるかも…」 一樹はまるで子供のように目を輝かせている。 その様子を見て「ごめん、それだけは勘弁して…。ただでさえお腹いっぱいだから。または僕を巻き込まないで…」と、朝のあのノンストップで話される光景が二人に増える絵面を考え璃玖は胸やけをおこしそうになり、手の平を一樹に向けてストップとジェスチャーをする。 「失礼なやつだな」 「あっ、そういえば母さんが途中から聖さんの歌い方が変わったって言ってたけど、一樹もそう思う?」 ふと璃玖は朝、母が寂しげに呟いていたことを一樹に質問する。 「ああ、ファンの間じゃ有名な話だしな。うーん、日本でアイドルとして歌っていた頃とはたしかに今は違うけど…。それはやっぱり海外に行くことが決まっていたからじゃないかな?まぁ、カッコいいことには変わりないし」 「なるほどね」 母の話では海外に出発する少し前から歌い方が変わった印象だと話されたが、一樹の話通り、アイドルとしての歌い方から変わったなら璃玖も納得がいった。 「あーっ!聖さんのこと考えたら緊張してきた。もう、今日は踊れない…」 一樹は急に頭を抱え込んでしゃがみ込んでしまう。 「え?!急になに?」 「緊張して立ち上がれないよー。誰か緊張しない『おまじない』してくれないかなー」 ワザとらしく璃玖の表情をチラッと確認しつつ一樹は何かを求めてくる。 「一応聞くけど…それって何をしたら満足なの?」 「キス」 「…」 「あれ?ダメ??」 「友達は…キスしないだろ」 「…それもそっか」 一樹は悪戯に口元は笑いながらも、憂いを帯びた顔のまま立ち上がる。 二人で約束事の中に今まで通り友達として接するということを決めた。 これは璃玖からの提案で、自分のことを好きだと言ってくれた一樹をこれ以上好きにならないためだ。 今でもあのお風呂場で出来事を思い出すと、顔から火が出そうなくらい恥ずかしいが、それ以上に最後に交わしたキスが璃玖は忘れられない。 忘れないようにと感覚を記憶したのだから当たり前だが、ふと思い出すと胸が締め付けられるような、身体が熱くなるような衝動に襲われそうになる。 その衝動がもし抑えられなくなった場合には、お互いを求めるようにも約束をしたが、安易にもう一度求めてしまえば、今度こそ歯止めが効かなくなりそうなことは璃玖自身理解していたため、言い出すことはなかった。 しかし、いつもであればもう少し冗談を言ってくるはずだが、ストレッチの仕上げに腕を上げて背伸びをする一樹の表情はまだ固いままで、さすがの璃玖も心配になる。 「実は本当に緊張している?」 「なに?俺って緊張しなさそうに見える?」 「見える」 「即答かよ。そりゃ、俺からしたら聖さんって神様みたいな人だからさ。聖さんのPV見てダンス始めたし、伊織とよく完コピして歌とか振り付け練習してたからさ。あー、早く開始時間にならないかなー」 「神様か…。気持ちはわかるけど、そろそろ僕の練習もちゃんと見てよね。 だいたい、僕は見学も出来ないんだから一樹は贅沢なんだよ」 聖のレッスンは限られた人数で行うため参加は上級クラスだけで、見学も中級クラスまでと限られていた。 そのため、基礎クラスの璃玖は見学すら出来ないのだ。 「わかってるよ。最近の璃玖は練習の鬼だからな」 なかなか進んでいなかった曲作り作業も、先週ついに歌詞と振り付けも完成した。 曲自体も璃玖が独学で作曲の勉強や機材を揃え始めたため、どんどんアレンジを行っている。 ただ、一樹の考えた振り付けはどれも難易度が高く、璃玖のダンスの腕ではまだまだ追いつかず練習段階だった。 それでも璃玖は一樹に追いつこうと、今まで以上に参加や見学の出来るレッスンに出席して、格段に歌もダンスも上達していった。 「璃玖も一年間は基礎クラスだから…来年の春の進級テストでいいクラスいけるんじゃないか?」 「ほんと?でも、そうなるように頑張るよ。まず、一樹の隣に並ぶためには追いつかなくちゃね。上級クラスはまだ遠いなー」 「そんなすぐ追いつかれたら俺の立場がなくなるよ。でも、うん…。よかった。前より璃玖が元気になって…」 一樹はいつものように優しい手で璃玖の頭を撫でる。 「うん…。ごめんね、色々心配かけて」 「ここはごめんじゃなくて、ありがとうな。ただ、その…お前は身体とか本当に変化ないのか?」 「ん?本当にないよ。薬の副作用もないし。意外にこんなもんかなって感じ」 抑制剤を毎日欠かさず飲むようになった璃玖だが、現在のところ特に目立った副作用もなく、Ωと判明する前とは何ら変わりなかった。 「ぁ痛っ」 璃玖はおでこに急にデコピンをされる。 「お前…もう少し自覚持てよ。誰が聞いているかわからないんだから…」 璃玖のΩということを隠そうとする自覚が足りない発言に一樹は顔を曇らせる。 「ごめん…」 「ったく。まぁ、俺が聞きたかったのは、体調の変化じゃなくて…気持ちというか…その」 「ん?」 一樹は璃玖の察しの悪さに痺れを切らして、璃玖に顔を近づけ「その…したくなったりとか、しないのかってこと」と耳元で囁く。 「したく…?…ばか!一樹こそ場所考えろよ」 一樹の言葉の意味をようやく理解して、璃玖は顔を真っ赤にして一樹から顔を離す。 「いや、大事なことだろ。その…辛くなったら、いつでも相手になるからさ」 「もう、この話お終い!ほら時間なくなってきちゃったよ」 璃玖は時計を指さし、話を切り上げる。 抑制剤の副作用で体調はもちろん、性的な欲求にも変化がでるケースがあるらしいが、璃玖の身体は本当に以前と変わらなかった。 どうやら璃玖自身、もともと淡白なことには変わらないが、与えられる快感によってリミットが外れると発情期のような求め方になってしまう傾向があるらしい。 もし実際に発情期が訪れた時、あの体の奥底から求めるような欲望のまま近くのαを誘ってしまうかもしれないという恐怖は今でも拭えないが、今は一樹がいると思うと以前より璃玖は気持ちが楽になっていた。 (発情期を抑制するための番じゃなくて、きちんと思い合って本当の番になりたい) 璃玖はそう自分に言い聞かせ、残り時間の一日一日を大事にしていこうと決めていた。 「じゃあ、とりあえず一回通してやって、課題見っけて練習していこう。 あと、俺、レッスン前にシャワー浴びて着替えたいから早めに切り上げよう」 「愛しの聖様に会えるんだもんね」 「なんだよ。璃玖ー、ヤキモチか?」 「そんなわけないだろ。ほら、曲流すから。歌も通すだろ」 「もち!せっかくだから大音量でよろしく!」 相良先生にお願いしてスピーカー使用の許可も取ったため、今日からは天井に吊り下げたスピーカーからスタジオ全体に曲が響くようになった。 璃玖は機械のスタートボタンを押し、一樹の隣のポジションにつく。 数秒後イントロが流れ始め、一樹と呼吸をあわせるように歌いながら踊っていく。 だが、曲を表現するというには程遠く、二人ともまだまだこなしていくことで精一杯だった。 「はぁ、はぁ…」 歌も振り付けも通しで行うと、璃玖の体力ではまだ追いつくことが出来ず、一曲終わった頃にはヘトヘトで呼吸は整わず座り込んでしまう。 さすがの一樹も膝に手をつき、肩で息をしている。 「ふー、やっぱり通しは体力持っていかれるな」 「ダンス…だけなら…まだしも、歌う…となると…倍以上疲れるよね…」 璃玖は息も絶え絶えの状態で一樹と話をしていると「そのわりにはよく出来ていたと思うけどね」と誰かの声が聞こえた。 大音量で音楽を流していたため人の出入りに気がつかなかった二人が、声がした入口の方を振り向くと、そこには夏川聖、本人が立っていた。 「ひ、聖さん?!」 「ごめんね、勝手に見学して。僕もよくここで自主練していたから懐かしくてさ」 聖は二人に歩み寄り握手の手を差し出す。 「初めまして。夏川聖です」 (綺麗な人…) 連日、テレビや雑誌で聖の顔を見ていた璃玖だが、実物は比較にならないくらいオーラのせいか、まるで飲み込まれたような感覚に陥った。 璃玖は思わず息をのみ、差し出された握手の手をとることも忘れ、訳も分からず固まってしまった。 一樹も緊張で出遅れてしまうが、震えながらも聖と握手をし、手を離した後、深々とお辞儀をする。 「初めまして!俺、八神一樹って言います。ずっと、ずっとファンで…。今日は、この後レッスンよろしくお願いします!!」 「僕のレッスン参加してくれるんだ。君、クラスは?」 「この秋から上級になりました」 「へぇ、その若さで上級か。たしかに上手いわけだ」 「あ、ありがとうございます!!」 「君は?」 「えっ」 璃玖は話しかけられてふと我に返り、慌ててお辞儀をする。 「あっ、僕は神山璃玖って言います。半年前に研修生になって、まだ基礎クラスです」 「そっか、璃玖君か。可愛い名前だね。これからも頑張ってね」 にっこりと聖は笑う。 璃玖はその顔にまた引き込まれる感覚に囚われて、聖の顔を見つめたまま固まってしまう。 「ちなみに今流れていた曲は誰かの新曲?」 「いえ、俺たち二人で作った曲です。と言っても、俺は振り付け担当で、作詞作曲はほぼ璃玖一人です」 「ふーん、オリジナルなんだね。いい曲だったよ」 「ありがとうございます!実は、この曲で二人でデビュー出来るように練習しているんです」 「二人でか…。それは…叶うといいね」 「はい!」 「おっと、そろそろ時間かな。じゃあ、僕は社長室に挨拶しに行かなきゃいけないから。また後でね」 「はい!!」 一樹は深々とまたお辞儀をして、手を振ってスタジオを出ていく聖を見送った。 扉が閉まったことを確認して一樹はあまりの出来事に興奮冷めやらぬ様子で叫びだす。 「うわぁー。ナマ聖カッコいいー!!あんな近くで…しかも握手までしちゃったよ。夢みたいだ」 「あ、うん…」 一樹の大声にハッと我を取り戻した璃玖は急いで相槌を打つ。 「よし、もう今日は片付けてシャワー浴びに行こうぜ」 (なんだったんだろう…あの表情…そしてこの感覚) 二人でデビューをしたいと話した時の聖の顔が、ほんの一瞬なんとも言えない不思議な表情に見えたことと、今まで感じたことのない体が動かないような感覚に戸惑う璃玖であった。

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