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20.お願い
『まもなく目的地です』
璃玖はカーナビのアナウンスにハッとして顔を上げる。
いつのまにか身体に感じた変化も治っていて、璃玖は安堵し溜息をついた。
「璃玖君、大丈夫?」
聖は心配そうに運転しながら声をかける。
「あっ、はい。もう大丈夫です。心配かけてすみませんでした」
「僕が驚かせちゃったからかな」
「いえ、それは…」
違うと言いたかった璃玖だったが、たしかに聖の唇が触れたことで、あんな感覚が生まれようとしていたのは事実だった。
一樹との出来事が重なって思い出してしまったためなのか、聖自身が原因だったのか、それはわからなかったが、何か璃玖自身に以前とは違う変化が起こっていることは確かだった。
「おっと、ここだね」
着いた場所はスターチャートの事務所からほど近い、閑静な住宅街にあるコンクリート打ちっ放しの三階建てで横長の建物だった。
聖はそのまま建物の地下の駐車場に車を走らせ、駐車した。
フロントガラスから璃玖は薄暗い駐車場を見渡すと数台他の車が止まっているだけで、駐車場には誰もいなかった。
「よし、無事到着。うーん、久々の運転もいいもんだね。でも、ちょっと早く着きすぎたかな」
聖は腕時計で時刻を確認して、シートベルトを外した。
「聖さん、ここは?」
「フォトスタジオだよ。今日はコンサート用のポスター撮りなんだ」
「え?コンサートって来週末なんですよね?」
「そうだよ」
「ポスター撮りってこんなギリギリにやるものなんですか?」
「まさか。本当はもう出来上がっているものがあったんだけど、ちょっと差し替えたくなってね。璃玖君にも協力してもらおうかと」
「僕が…協力?」
「詳しいことはまたあとで話すよ。それより、さっきの続きだけど…」
聖は璃玖の座っているナビシートに手をかけた。
「あまりにも一樹君とのこと楽しそうに話すから嫉妬しちゃったんだよね」
「嫉妬って…。聖さん?」
悪戯な笑みを浮かべながら、聖はまるで追い詰めていくのを楽しむかのようにジリジリと璃玖に近づいていく。
そんな聖から璃玖は距離をとろうとするが、シートベルトが邪魔で身動きがとりにくかったため、急いでシートベルトを外すためバックルに手を伸ばす。
だが、聖の手は先回りしてシートベルトのバックルを押さえるように添えられていたため、璃玖はシートベルトを外すことが出来なかった。
「僕ね、一樹君に璃玖君は帰らないよって宣言してきちゃった」
「え…?」
「だって、君は僕のものになるからね」
そう言った聖に、璃玖は座っていた助手席の背もたれを急に倒されてしまう。
「わっ!」
いきなりのことに璃玖は驚いた声を出してしまうが、聖はお構いなしに璃玖の太もも部分に馬乗りになってきた。
「ひ、聖さん!ちょっと…!」
さすがの璃玖も身の危険を感じ体を捻って抵抗しようとするが、聖はびくともしなかった。
そのため、璃玖は聖の胸板を両手で押し、これ以上近づかれないようにしようとする。
しかし、その手はあっけなく聖によって掴まれて、璃玖の頭上でまとめるように片手で押さえつけられてしまった。
璃玖は何が起こっているのか理解が追いつかず、ただ慌てる状態だが、聖は璃玖を押さえつけている反対の手でそっと璃玖の輪郭をなぞった。
「僕、言ったよね。最近欲しいものが出来たって…」
「聖さん…冗談は…」
「冗談なんかじゃないよ」
璃玖の輪郭をなぞっていた聖の手が、今度は人差し指の指先で璃玖の唇をなぞる。
璃玖はその触れられた感覚に、ビクッと体を跳ねさせてしまう。
腰に甘い疼きを感じ、璃玖は耐えるように目をギュッと瞑った。
聖はそのまま人差し指を顎から喉、そして璃玖の浮き出た鎖骨までゆっくりと指を滑らせた。
そして、指先が鎖骨に到着するとラインに沿うようにじわじわと撫でた。
「聖さんっ、やめてください…」
璃玖は身体が動かない分、首を振って抵抗する。
「ねぇ、璃玖君…。僕の顔を見て」
璃玖の頬に聖は手を添えて、優しい声で言った。
璃玖は言われた通りに瞑っていた目をゆっくりと開け聖の顔を見ると、指先にキスをしてきた時と同じくらい真剣な表情を聖はしていた。
「君にお願いがあるんだ」
「お願い…ですか?」
「うん。僕に曲を作ってよ」
「えっ…?」
「君が作る僕だけの曲が欲しいんだ」
「僕が…聖さんに曲…?」
聖の曲といえば、日本のみならず海外でもチャートを賑わす人気で、大物ミュージシャンも自分の作った曲を歌って欲しいと頼みに行くくらいだと璃玖は今朝、母が話していたことを思い出す。
そんな聖の曲を素人の璃玖に頼むなんて、璃玖には何かの冗談か揶揄っているとしか思えなかったが、聖は変わらず真剣な表情のままだった。
「僕を…揶揄っているんですか?」
璃玖は聖から目を離さず質問をするが、聖はゆっくりと首を横に振った。
「一樹君との君の曲を聴いて、正直驚いた。まさに僕が求めていた音楽だったから…」
「そんな…僕の曲なんて…」
「君の作った曲と歌詞でどうしても歌いたいんだ」
まっすぐと璃玖の目を見て聖は言った。
(真剣なんだ…)
「とりあえず、腕を放してもらえないですか?どう考えてもまともに話が出来る体勢ではないですよね」
「暴れない?」
「暴れませんよ」
「ごめん、ごめん。つい可愛くってね」
聖は頭上でまとめていた璃玖の手を解放する。
「この業界、こういうことも多いから気をつけるんだよ」
先ほどの真剣な顔はどこにいってしまったのかと思うくらい、聖は悪戯な笑みを浮かべてワザとらしくウインクをした。
「……。ご忠告ありがとうございます。でも、今、この状態の聖さんが言っても説得力ないです」
「たしかにね」
そう言った聖はクスッて笑ったが、璃玖の上に乗っかったままで動く気配を感じられなかった。
「聖さん。僕の上からどいてはくれないんですか?」
「逃げられると困るからね」
「…」
「で、さっきの答えは?」
聖は璃玖に馬乗りになった姿勢を変える様子もないため、璃玖は諦めるように溜息をつく。
ただ、たとえどんな体勢でお願いをされても、璃玖の中での答えは決まっていた。
「ごめんなさい、僕は聖さんに曲を作ることは出来ないです」
「…。それはどうして?」
聖は璃玖の答えに驚くことなく、淡々と質問をした。
「僕みたいな素人が聖さんの曲に携わるなんておかしいです。それに一樹と、僕の作る曲は二人だけのものだって約束しているんです。だから聖さんに曲を作ることは出来ないです」
璃玖はきっぱりと言い切るが、約束という言葉を聞いた聖は途端に眉間に皺をよせ、明らかに不機嫌になった。
「約束?またそれか…。璃玖君といい、一樹君といい、なんのためにそんな約束をしているんだい?二人でデビューを目指すだけなら、この話が大きなチャンスなのは璃玖君にも理解出来ているよね」
たしかに、これから曲を作っていこうと考えるのであれば、聖の話は璃玖にとってまたとないチャンスであり、発情期がくる二年以内にデビューするためにも、決して逃してはいけないものだと璃玖もわかっていた。
ただ、一樹は『番になろう』という未来への希望となる約束や『好きだ』という自分にはもったいない言葉を璃玖にくれた。
そんな一樹に璃玖から差し出せるものは自分の作った曲ぐらいしかなく、璃玖にはどうしても一樹との約束を破ることはできなかった。
「なんのため…かは言え…ないです。でも、何があっても聖さんに曲は作れません。本当にごめんなさい…」
「ふーん。そうやって君たちはお互いを約束って言葉で縛って、チャンスを捨てるのが本当にお互いのためなのかな?」
「それは…」
返す言葉が浮かばず璃玖が黙ってしまう。
「…。はぁー…」
黙ってしまった璃玖に聖は呆れるように深い溜息をついた。
璃玖はそんな聖の反応にいたたまれない気持ちになる。
「そっか。僕のお願い聞いてくれないのか…」
「本当にごめんなさい…」
「じゃあ、一樹君をバックダンサーからおろすよう連絡しようかな」
「えっ?」
(一樹を…おろす?)
聖はカバンからスマホを取り出し、何やら操作を始めた。
そして、操作を終えたスマホ画面を黙って璃玖に見せると、そこには『スターチャート社長』と書かれていて、すぐに電話が出来る状態だった。
「璃玖君は一樹君との約束が一番大事なんだろ。じゃあ、そんな約束を守るためにお互いのチャンスを犠牲にしていいんだよね。一樹君、せっかくダンスの腕いいのにね。もったいない」
「聖さん…」
「さて、どうする?」
「…」
「これが最後だよ。僕のお願いきいてくれるかな?」
璃玖の頭の中に、聖のレッスンでバックダンサーに選ばれた時の一樹の嬉しそうな顔が浮かんだ。
聖の顔は笑みを浮かべつつも目は真剣だったため、聖は本気で言っているんだと璃玖は再確認した。
「…。これは…脅迫ですか…?」
「いや、取引だよ。決定権は君にあるんだから。僕は君の作った曲が欲しい。そのためには手段を選ばないだけだよ。だいたいコンサート間近で新人にバックダンサー頼むなんておかしいと思わない?」
「それは…」
言われてみれば、今日の聖のレッスンは前から決まってはいたが、バックダンサーを決めるものだなんて誰も聞いてはいなかった様子だった。
それに起用するのであれば、バックダンサー慣れしている他の上級クラスの先輩達を選ぶほうが自然だと璃玖は気がつき、一樹がバックダンサーに選ばれたのは、璃玖が曲作りの話を断った時の切り札として仕組まれていたのだと気付かされた。
つまり初めから璃玖には、聖のお願いを断るという選択肢は残されてはいなかったのだ。
「…。わかりました。曲作りやってみます」
約束を破るという一樹への後ろめたさはあったが、それ以上にバックダンサーに選ばれて喜んでいた一樹を落胆させるようなことは璃玖には到底出来なかった。
「わかってもらえて嬉しいよ。絶対に後悔はさせない。一樹君とよりもいいものになるよ」
「…。聖さんって、すごい自信家なんですね」
「この自信が売り物だからね」
璃玖は皮肉を込めたつもりだったが、聖の方が何倍も上手だった。
「…わかりました。でも、僕からもお願いがあります」
「ん?」
「まず、今回のことは一樹には全部内緒にしてください。バックダンサーに選ばれたの、本当に喜んでいたんです。あと、曲が出来上がったとしても僕が作ったってことは誰にも言わないでください」
「それで君が曲を作ってくれるならお安い御用さ」
正直、わずか半日足らずでこんなに聖の策にはまってしまったことを考えると、聖が約束を守るかどうかは怪しいところではあったが、璃玖の立場上、お願いをするしかなかった。
「それで、いつまでに曲を作ればいいんですか?」
「来週末のコンサートまでだよ。リハーサルのことを考えるとあと五日かな」
「たった五日で一曲?!そんなの無理ですよ!」
璃玖は一樹に曲を作ってくれと頼まれた時は、一番だけ作るのに二週間はかかった。
しかも、一樹をイメージした曲だったためか、特につまづくことなく曲が出来たが、それ以外に作ったことがない璃玖には、全く見通しが立たない状態だった。
「無理、じゃなくて作るんだよ。もう君のご両親には僕のマネージャーから来週まで家には帰らないって話をつけてあるし、曲作りの場所と環境は整えてあるから」
「でも、なんで来週末のコンサートまでなんですか?」
聖の滞在期間は不明だったが、そんなに急ぐ理由が璃玖には全くわからなかった。
「それは内緒。ただ、こんな無茶なお願いの対価として、僕は僕にしか与えられない、今の君に必要なものをあげるよ」
「無茶なことだって自覚はあるんですね…。で、僕は聖さんから何をもらえるんですか?」
「言っただろ。僕は君の魅力を最大限に引き出すって。君に足りないのは自信と実力、そして経験だ。この一週間で君にそれを与える。僕が…君を必ずデビューさせるからね」
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