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29.聖の願い
「ただいま」
「聖さん…!」
聖がリビングルームの扉を開けると、璃玖が急いで聖に駆け寄ってきた。
「うーん、疲れた。やっぱり、慣れないことはするもんじゃないね」
そう言って聖は笑いながら、心配そうな顔で見つめてくる璃玖の頭をポンッと撫でる。
「聖さん…あのっ」
「ごめん…。明日にしてくれるかな?」
まるで璃玖の言葉を遮るように聖は言うと、これ以上の詮索を拒むように足早にベットルームに向かって行ってしまう。
「聖さんっ!」
それでも璃玖は必死に話しかけながら後を追うが、聖は足を止めず、そのまま顔を枕に埋めるように、キングサイズのベットにうつ伏せに倒れこんだ。
「聖さん…」
聖に聞こえるボリュームで璃玖は話しかけたはずだが、聖は返事も顔を向けることもなかった。
「ジャケット…シワになっちゃいますよ…」
いつもの璃玖であれば、聞こえないフリをされた時点で萎縮して声をかけるのを諦めてしまうところだが、璃玖はそれでも聖に話しかけ、寄り添うようにベットの淵に腰掛けた。
そんな璃玖の行動に聖は成長を感じたのか、顔を埋めていた枕から首を動かし、寝転がったまま璃玖の顔を見て笑った。
「ふっ、なんだかそのセリフ、奥さんみたいだね。あー、璃玖君が奥さんだったら楽しいだろうなぁ」
聖は目の前に置かれていた璃玖の手の甲を、人差し指で浮き出た骨の線を悪戯するようになぞる。
「もう、揶揄わないでください。本当はそんなこと思ってもいないくせに…」
避けるというより、まるで諭すようにゆっくりと璃玖は聖の指先から自分の手を引いた。
「あーあ、逃げられちゃった」
「もう、真面目に話してくださいよ」
いつもと変わらない態度をとる聖が、璃玖には相良を傷つけたことに対して気丈に振る舞っているようにしか見えず、璃玖はあきれたような笑みを浮かべながらも、内心はとても心配していた。
「僕はいつだって真面目だよ。それに嘘もつかないよ」
「…たしかに嘘はつかないかもしれませんが、本当の気持ちも言わないですよね」
「本当の気持ち…ね」
「聖さんはどうして正直に相良先生に気持ちを伝えないんですか?あんなに冷たくして…。聖さんが相良先生を好きだって伝えれば、それで丸く収まるじゃないですか」
先ほどの聖と相良のやりとりを璃玖が聞いていた限りでは、何故だか自分自身が聖に影響を与える存在だと誤解されていて、そのことに相良が焦って嫉妬しているように感じられた。
負い目は感じているものの、相良が聖に好意を持っていることは明らかで、聖自身も気づいているはずなのに、相良に対して冷たくする理由が璃玖にはわからなかった。
「璃玖君らしい考えだね」
「…それって、僕が単純ってことですか?」
「ちがうよ。でも…好き…か…。そう簡単なことじゃないんだよね。だって僕は欲張りだから…」
「欲張り?でも、好きなんですよね?相良先生のこと…」
「さぁ、どうなんだろうね」
聖ははぐらかすように優しく璃玖に微笑みかけるが、璃玖は少し怒ったような真剣な顔のままだった。
「聖さん、はぐらかさないでください」
「ごめん、ごめん。本当はね…僕自身もどうしたらいいのか…わからないんだ。まるで、大事なおもちゃを盗られた子供みたいな気持ちみたいでさ。ねぇ、璃玖君…。好きってなんだろうね…」
「好き…ですか。うーん、誰よりも大事にしたくて…守りたいもの…じゃないですか?」
「それじゃあ、家族や友達と変わらなくない?」
「うーん、キスしたいとか、相手に触りたいとか…わっ!」
璃玖は急に聖に腕を引かれ、そのままバランスを崩し背中からベットに倒れこんでしまう。
すると昼間の車内の時のように聖は璃玖の上に跨ると、あっという間に璃玖は組み敷かれてしまった。
「璃玖君も学習しないね…。そういう発言が煽っているんだよ。だいたい大人はね、好きじゃなくても触りたいって思うもんなんだよ」
聖は璃玖の顔の横についていた腕を曲げて、ゆっくりと璃玖に顔を近づけるが、璃玖は聖から視線を離そうとしなかった。
てっきり、顔を真っ赤にして照れて抵抗するところを揶揄うつもりでいた聖は、璃玖の反応に拍子抜けしてしまう。
「あれ、抵抗しないの…?」
「だって聖さんは僕のこと好きじゃないし、性欲の捌け口にもしないんでしょ?」
まるで聖の真似をするように、璃玖はにっこりと聖に笑いかける。
だが聖とは違い、純粋に屈託のない笑顔を向ける璃玖に、聖はばつが悪くなってしまう。
「あー…うん。さっきの話ね…。でも、大人は好きじゃなくても…」
璃玖は首をゆっくりと横に振る。
「聖さんは出来ないです。絶対に…。だって、こんな辛そうな顔するくらい相良先生が好きなんだから…」
聖の目を真っ直ぐ見つめたまま、璃玖は聖の頬にそっと手を添えた。
「冷たくして相良先生のこと傷つけたの、後悔しているんですよね?」
「はぁー…」
聖は深い溜息をつくと、璃玖から覆いかぶさるのをやめて、そのまま璃玖の隣に寝転んだ。
「ほんっと、璃玖君には敵わないや」
「…?僕、なにかしましたか?」
不思議そうな顔で璃玖は聖を見つめたが、聖は黙って微笑み返すと、そのまま天井を見つめ「璃玖君…。僕の話に少し付き合ってくれるかな?」と甘えるように言った。
「はい…」
聖は天井を見つめたままだったが、璃玖は聖の整った横顔をそっと見つめた。
「さっきの話で、なんとなく、昔なにがあったかはわかったかな?」
「はい…」
「あの人…相良先輩はね、榛名さんって人が今でも忘れられないんだ」
「榛名さんって…相良先生の運命の番…なんですよね?」
「そう…。ねぇ、璃玖君は運命の番って信じる?」
(運命の番…)
通常の番は、Ωが発情期中のセックス時にαに首すじを噛まれることで番となる。
番の原理に関してはまだ未解明な部分も多いが、αとΩには必然的に惹かれあう運命の番というものが存在すると、璃玖も見聞きすることはあった。
ただ、学校の第二次性の教科書や第二次性の診断書に同封されていた冊子にも『運命の番』について記載はなかった。
それは、運命の番とは存在自体が医学的にも立証されていないため、あくまでもドラマや本の中で登場をするものでしかないからだ。
璃玖自身、自分をβだとずっと信じてきたため、運命の番というものは自分には関係ないものと思っており、あまり考えずに空想上の産物に過ぎないと思っていた。
「うーん…。正直、本の中の世界…おとぎ話だと思っていました」
「僕は、運命という言葉を使って勝手に出会いをロマンチックにしているαとΩの…ただの思い込みだろうって全く信じていなかったんだ」
「でも…相良先生は出会ったんですね。自分の全部を捨ててまで一緒にいたいと思ってしまう…運命の番に…」
「うん…。今思えば、二人は出会いから、それこそ運命だったのかな…。僕と相良先輩でデビューが決まった時、デビュー曲を担当することになったのが榛名さんでね。でも榛名さんには残された時間がなくて、相良先輩は側にいるために事務所を辞めたんだ」
「もしかして、ピアノに置いてあった歌詞ってその榛名さんって人のですか?」
聖は黙って頷き、そのままゆっくりと両腕を組むようにして視界を遮断するように目を覆い隠した。
「僕に託されたんだ…」
「託した…?じゃあ、榛名さんは…今…」
「亡くなったんだ。五年前に…」
(亡くなった…)
璃玖はその言葉に胸が締め付けられた。
璃玖の祖父、浩二朗が亡くなってから一年ほどになるが、いることが当たり前だった人がいなくなることは、辛いや淋しいという言葉だけでは表現出来ない気持ちだということを璃玖自身もわかっていた。
「五年前って…じゃあ相良先生が退所してすぐってことですか?」
「うん…あっという間だったよ。そして榛名さんが亡くなった後に、あの書きかけの歌詞が僕宛てに届いたんだ」
「歌詞だけがですか…?」
「あと…短い手紙もね」
「手紙…。そこには…なんて書いてあったんですか?」
「…。大事なものを奪ってごめん、だから自分の代わりにこの歌詞の続きを作って彼に届けて欲しいってさ…」
「…」
「勝手だよね」
聖は抑揚なく淡々と話しており、感情のない冷たい言葉のように聞こえた。
目を腕で覆ってしまっているため表情がわからなかったが、璃玖には聖が辛そうに話しているように見え、冷たく聞こえるのは本当の感情を隠そうとするからなのだろうと璃玖は感じ取った。
「でも…僕には出来なかった」
「それは…どうしてですか?」
「わからないんだ。何故、榛名さんが僕にわざわざ続きを託したのか…何を書いて欲しいのか。それに、書こうとするたびに相良先輩の顔が浮かんでね…。思い出すのが辛かったんだ。それから少しでも離れたくて、忘れたくて…。しばらく経って日本を飛び出したんだ」
璃玖は歌詞が書かれた紙が、丸められ伸ばされたような皺があったことを思い出し、あれが聖の葛藤の表れなのだと悟った。
「そう…だったんですね」
「けど今日の朝、初めて璃玖君の作った曲を聞いてびっくりしたんだ」
聖は目を覆っていた腕をどかし、体を横にして璃玖のほうを向いた。
「僕のですか?」
「そう。璃玖君の作った曲が、榛名さんの曲に似ていたんだ」
「えっ?」
「僕のデビューしてからの数曲は榛名さんの曲なんだけど、それに雰囲気が似ているんだ…」
「僕は特に聖さんの曲を意識したことは…あっ!」
今朝、母が璃玖の幼少時から聖の曲を聴かせていたと話していたことを璃玖は思い出す。
母が聖のファンだったということも今日初めて知った璃玖だったが、まさかその影響で、榛名の曲に自分が作る曲が似ているなんて璃玖自身思ってもいなかった。
「そういえば、母が聖さんのデビューからのファンで、僕が小さい頃から聖さんの曲を聴かせていたって…」
「なるほどね。こういうことを巡り合わせっていうのかな。でもね、似ている理由はそれだけじゃないと思うんだ」
「それだけじゃない?」
「榛名さんと璃玖君はなんだか雰囲気が少し似ているんだよね。たぶん、見えている世界が一緒なのかな。歌詞の言葉の選び方も似ているんだよね。白いんだ…」
「白い…」
「そう。透明なようで繊細で、でも芯が強い…って感じかな」
「見えている世界…。でも、だから僕に…代わりに作って欲しいんですね」
「そういうこと。あーあ、ネタバラシしちゃった」
聖は緊張が解けたかのように思いっきり伸びをした。
「でも、それならそうと今朝言ってくれれば…」
「一樹君との約束破ってまで引き受けてくれた?」
「それは…」
聖に痛いところを突かれ、璃玖は口籠ってしまう。
「璃玖君の曲でデビューするって一樹君が話していたから、きっと僕が急に頼んでも断られると思ってね。僕に脅されたことにしておけば、まぁ実際脅したけど…璃玖君なら仕方なく引き受けてくれるだろうって」
「聖さん…」
「僕が出せない答え、代わりに出してくれるかな?」
璃玖には聖が何を考えているのか最初は全くわからなかった。
もちろん今でも理解できないことは多く、相良にあれほどまで冷たくした理由は璃玖には今でもわからない。
だが、例え相良に嫌われようとも、相良のために歌を完成させ、届けようとしていることだけは璃玖にはわかった。
「聖さんって…」
「ん?」
璃玖は急に上半身を起き上がらせて、目尻に涙を溜めながら聖を睨みつけた。
「もっと…自分を大事にしてください!」
その言葉に聖は一瞬驚いた顔をしたが、聖もゆっくりと上半身を起き上がらせて、いつもの笑みを浮かべる。
「ありがとう。本当に璃玖君は優しいね。だから…」
なにか言いかけたまま、聖は今にも涙が零れ落ちそうな璃玖の目元にそっと拭うように指先を這わせようとするが、その途端、璃玖のお腹がぐーっと大きく鳴った。
「あっ…」
一瞬お互いに顔を見合わせたが、すぐに聖は口元に手の甲をあて、笑いを必死に堪えるように横を向いてしまう。
「ふっ…。ごめん、ごめん。そういえば何も食べていないもんね。ルームサービスでも頼もう」
そう言って聖はベットから立ち上がった。
「うぅ…恥ずかしい…」
璃玖は恥ずかしさでいっぱいで、顔を隠すように枕を抱きかかえ顔を埋めた。
「いっぱい食べて、今日は寝よう。明日からよろしくね」
「…はい」
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