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30.ホテルでの朝
遠くの方で物音がして、璃玖は目を覚ました。
「今、何時…」
ベッドサイドに置かれた時計を見ると、朝の七時過ぎを指していた。
昨日、ルームサービスの食事を終えると、聖は「また明日ね」と言って、もう一つあったベッドルームに篭ってしまった。
璃玖も自分に与えられたベッドルームにいったん戻ると、空腹が満たされたせいか、すぐに眠気が襲ってきて、部屋に準備されていた大きめなナイトウェアに着替えた後、ちょっと寝るだけと思いながら深い眠りに落ちてしまった。
璃玖はベッドから起き上がり、ナイトウェアが乱れていないか簡単に確認をし、ベッドルームのドアを開けリビングルームを覗いた。
だが、そこには昨日と同じくピアノが置かれているだけで聖の姿はなかった。
どうやら物音は、聖のベッドルームからするようだった。
(聖さん、もう起きているんだ…。とりあえず抑制剤飲んでおこう)
璃玖は部屋のクローゼットにしまっていた自分のカバンからピルケースを取り出す。
そして蓋を開け、薄い水色と白の二色で構成されたカプセルの抑制剤を一錠取り出した。
「えっと、お水は…」
自宅であれば台所に向かうところだが、ここがホテルであることに気づき、璃玖はリビングルームに備え付けられているバーカウンターに冷蔵庫があることを思い出した。
(こういう所では、ミネラルウオーターを飲むべきなんだろうな)
璃玖は抑制剤を握ってリビングルームに向かい、昨日、中身は自由に使っていいと聖が言っていた冷蔵庫からミネラルウオーターを取り出した。
「ん?なんだろう、このビン…?」
ふと、バーカウンターの下に英語のラベルが貼られた小さなビンを璃玖は見つけ、手に取った。
「薬…?聖さんのかな?」
ビンの中身は錠剤で、貼られたラベルを読もうとするが、璃玖の英語力では読解できる単語はほとんどなく、なんのための薬かわからなかった。
(もしかして聖さん、これを探してバタバタしているのかな…?)
璃玖はとりあえず自分の抑制剤を飲み、何かを探しているかのように取り留めなく物音が聞こえてくる聖のベッドルームに向かい、ドアをノックした。
「聖さん、おはようございます。もしかして探しものですか?」
「あ、ごめんね、うるさくして。ちょっとね」
慌てた様子の聖の声がドア越しに聞こえてきた。
「探しているのって、ビンに入った薬ですか?それならここに」
璃玖はビンを聖に渡そうとベッドルームのドアノブに手をかけたが、中から鍵がかけられていた。
「あれ?」
「ごめん、今ちょっと着替え中なんだ。とりあえず、ビンはリビングのテーブルに置いといてくれるかな」
「わかりました」
「あと、ついでにバスタブのお湯を溜めてもらってもいいかな。これから支度して出かけなきゃいけなくて」
「いいですよ」
璃玖は聖に言われた通り、バスルームに向かった。
ブラインドが下されたバスルームの窓からは明るい光が差し込み、白い大理石で覆われた壁や床が余計に明るく感じられた。
璃玖は自宅の倍はありそうな広いバスタブにお湯を溜めるため蛇口を捻った。
温度を調整すると、すぐに湯気が立ち込め、その水音は周りの音を遮るように響いた。
(まるであの時みたい…)
璃玖が声が響くのが恥ずかしいと一樹に伝えると、シャワーの水音で音を掻き消したことをふと思い出す。
すると、重ねた唇、絡まった舌の感触などが次々と思い出され、下半身に熱が集まっていく感覚に襲われる。
(なんだか僕の身体、急に敏感になっている気がする…)
このままではまずいと、璃玖は首を横に振って別のことを考えようとした。
(そういえば、曲!曲のイメージを決めないと…)
必死に頭を切り替えようと、璃玖は昨日の出来事を思い返した。
(僕が作らなければいけない曲…。榛名さんが伝えたかった思い…)
璃玖は目を閉じて、榛名のように自分が死んでしまうとしたら最後にどんな曲を作るかと考えてみた。
しかし浮かんでくるのは、忘れないで欲しい、ずっと好きでいて欲しいなど、自分という存在が消えてしまうことへの恐怖に対して、相手に求める感情ばかりだった。
(榛名さんが伝えたかったことは違う気がする…。そんな感情なら自分で書けばいいし、わざわざ聖さんに続きをお願いする意味がない。やっぱり、榛名さんと相良先生の話、もう少し聞きたいな…)
「おーい、璃玖君。大丈夫?」
戻りが遅い璃玖を心配して、聖がバスルームのドアをノックする。
「あっ、大丈夫です。今行きます」
いつのまにか湯船には七割ほどのお湯が溜まっていた。
璃玖は蛇口を捻って湯を止め、バスルームのドアを開けた。
「戻ってこないから心配したよ」
ドアを開けると、そこには聖が白いバスローブ姿で心配そうな顔で立っており、その後ろには隼人もいた。
「よっ!おはよう璃玖」
「あれ、隼人さん。おはようございます。どうしたんですか?」
「ほら、璃玖にプレゼント」
隼人から急に差し出されたのは大小様々なブランドの紙袋の束で、璃玖は反射で受け取ってしまう。
「えっ?これは?」
「お前の髪をいじったからには、もうお前は俺の作品と一緒だからな。服もまともなの着てもらわないと」
そう言われて璃玖は紙袋の中身を覗き込むと、それぞれの袋には服が何着も入っていた。
「えっ、これ全部服ですか?しかもこんなに?!支払いはどうしたら?」
まだまだ成長期のためシーズンごとに一応服を買い足す璃玖だったが、紙袋の中身の服の量はあきらかに一年通しても買う量ではなかった。
しかも、どれも流行に鈍感な璃玖でも知っているブランドばかりで、璃玖は金額が心配になり焦ってしまう。
その慌てる璃玖の様子を一通り楽しんだ隼人は「プレゼントだって言っただろ。大丈夫、大丈夫。スポンサーがちゃんといるからさ」と言って聖の肩に手を回した。
「それって僕のこと?」
「他に誰がいるんだよ」
聖は横目で隼人を睨みつけるが、隼人はニヤニヤしたままだった。
「そ、そんな!悪いです!ちゃんと僕が払います」
これ以上聖に迷惑はかけられないと璃玖は必死になるが、聖に頭をポンと撫でられ笑われてしまう。
「いいよ、璃玖君。お金は気にしないで。だけど隼人、やるからには中途半端は許さないからね」
「わかっているって」
「えっ!そういうわけには!」
「いいから。ほら、璃玖君、こういう時にはなんていうの?」
「えっ?!えーっと…ありがとうございます?」
璃玖は首をかしげながらも答えると、聖は満足そうな笑みを浮かべる。
「正解。お礼は着替えた姿を見せてくれればいいよ。じゃあ、僕は支度するから。隼人、お前にはあとで仕事してもらうよ」
「へいへい。そのために、こんな朝早くから呼び出されたんだろ。ったく、週末までオフじゃなかったのかよ」
「仕方ないだろ。ちょっとトラブルなんだ。だいたい、毎日の朝の支度は契約の内だろ。来るのが面倒ならお前もホテルをこっちに変えればいいだろ」
「スーツケース一つの聖と違って、俺は道具とか荷物が多いんでね。移動するほうが面倒なんだよ。ったく、なんで急にホテル替えなんかしたんだよ」
「昨日話しただろ。ファンの子にホテル特定されたって」
「本当にそれだけかねー」
隼人は疑うような目で聖を見た後、急に璃玖のナイトウウェアの上着の裾を捲った。
「お、ピンク」
璃玖の白い肌に小さく添えられたような突起を見て、隼人は楽しそうに感想を言った。
突拍子のない隼人の行動に、璃玖は声も出ず思考は一瞬停止してしまう。
だがすぐに隼人から体をひいて、璃玖は必死に守るように自分の上着の裾を引っ張った。
「乳首、充血もしてないしキスマークもないって、聖、本当に何もして…痛ーっ!!」
隼人はあまりの痛みに叫ぶが、そんなことはお構いなしに聖は氷のような冷たい笑みを浮かべながら、隼人の足の甲に全体重をかけるように片足を乗せて踏んづけていた。
「隼人君はー本当に学習能力が足りないみたいだねー」
そのまま聖は笑みを崩さないまま、今度は踵を上げ、足先をぐりぐりと隼人の足の甲に食い込ませるように動かした。
「聖、ギブギブ!ごめんなさい、もうしません」
「わかればいいよ」
そう言って聖は隼人から足をどかした。
(聖さん、怖い…)
聖はまだ口元に笑みを浮かべていたものの、目は笑っておらず、璃玖はその顔を見て、決して聖を怒らせてはいけないと決めた。
「あー痛かった。ほんと容赦ないな」
「お前がバカなことするからだろ」
「へいへい。そういや、昨日から気になっていたんだけど、何でピアノがある部屋にしたんだよ。広いだけなら他にもあるだろ。コンサートで弾くつもりか?」
「さあね。それは週末のお楽しみで」
(あれ、聖さん。僕が曲を作る話、隼人さんにもしていなんだ…。っということは、本当に秘密を守ってくれるつもりなんだ)
昨日、車内で璃玖が曲を作るために提示した条件を聖が守ってくれていることに、璃玖はほっと安堵する。
一樹にバレなければいいという問題ではなかったが、璃玖の心の片隅には一樹との約束を守っていない罪悪感があった。
聖が璃玖に依頼をした本当の理由がわかった以上、後戻りも出来ないし、投げ出すつもりも璃玖にはなかったが、聖が一樹をバックダンサーから降板させるという脅してくれたからこそ、罪悪感に対して自分に言い訳が出来、救われている気がしていた。
(ほんと、聖さんってどこまで計算しているんだろう…)
「とりあえず、璃玖君。今日は夕方には帰ってくると思うから、晩御飯は一緒に食べようね」
「あ、はい。じゃあ、待っています」
璃玖は明るく聖に笑いかけた。
「あーあ、なんか俺だけ除け者ー。ったく。どこの新婚さんだよ…」
聖と璃玖のやりとりを呆れた顔で見つめながら、隼人は茶々をいれる。
「そうだ隼人。お前朝食まだなら、後で璃玖君と行ってきてくれる?それかルームサービスでもいいけど」
「なんだよ、璃玖。朝飯まだなのか?」
「そういえば、そうですね」
「そういえばって…。璃玖、食べ盛りに食べないと伸びないぞ。昨日、ここまで運んだ時も軽かったし」
そう隼人に言われて、璃玖はフォトスタジオで眠ってしまい、このホテルの部屋まで隼人が運んでくれたと聖から聞いたことを思い出す。
「そうだ!すみませんでした。僕、起きない上に、ここまで運んでもらちゃって…」
「大丈夫、大丈夫。聖のスーツケースのほうがよっぽど重たかったから。しっかし、全然目を覚まさないのな。びっくりしたぜ」
「そ、そうなんですよ。僕、昔から一度寝てしまうと起きれなくて…」
璃玖は元々それほど眠りは深いほどではなかったが、一度眠ってしまうとなかなか目を覚ますことが出来ない体質になっていた。
それは発情期抑制剤による副作用だと、璃玖自身も最近気が付いた。
(吐き気とか倦怠感っていう副作用じゃないだけまだ楽な気がするけど…)
Ωの発情期抑制剤は毎日服用することによって、ほぼ完全に発情期を抑制出来るようにはなった。
しかし、副作用は服用する側の体質によって様々で、吐き気や倦怠感など、日常生活に支障をきたす副作用に苦しめられるΩもいた。
そのため周期を計算し、発情期直前だけ抑制剤を服用をして、完全に抑制するのではなく、発情を軽減する程度にするΩもいた。
ただ、服用をやめてしまった途端に発情期になってしまう可能性があるため、基本的にΩは毎日服用をする。
海外ではΩだけが抑制するのではなく、α側もヒートを抑制すべきだという考えも出てきているが、まだまだΩは社会のお荷物扱いが残るこの国には、Ωにだけ負担を強いられている。
璃玖は副作用の心配よりも、Ωということを隠すことを優先していたため、初めて服用した日から欠かすことなく毎日抑制剤を服用していた。
「寝る子は育つって言うのになー。璃玖、もっと筋肉つけろよ」
「ちょっと、璃玖君が将来、お前みたいな筋肉バカになったら困るからやめてくれる?」
「ひでぇ、俺だって少年時代は可愛い系だったんだからな」
「可愛い系…」
璃玖は隼人の昔の姿を想像してみたが、今の隼人のガタイの良さから、とても可愛い系だったとは想像がつかなかった。
「昔は僕より小さかったのに、詐欺みたいにでかくなりやがって。言っておくけど、僕がバスルームにいる間に、また璃玖君に変なことするなよ」
「へいへい」
聖はバスルームのドアを開けて、そのまま中に入りドアを閉めた。
(そっか。隼人さん、昔から聖さんを知っているんだ…。だったら榛名さんのことも知っているんじゃ…)
「あ、あの、隼人さん。隼人さんは、榛名さんって方、ご存知ですか?」
「えっ…」
隼人は目を見開いて、明らかに驚いた顔をした。
「どこでその名前…。まさか、聖が話したのか?」
「えっ…はい」
(もしかして榛名さんのこと、隼人さんに聞くのまずかったかな…)
「そっか…。へえ…聖がねぇ…」
そう言って、隼人は腕を組んでなにやら考え込んでしまう。
「隼人…さん?」
「あっ、わりぃわりぃ。そーだなぁ。とりあえず、その寝ぐせ直して、聖のやつ見送ったら、朝飯食いながら話そうぜ」
隼人に璃玖は髪をわしゃわしゃと搔き乱されてしまう。
「わぁっ!」
「昨日はコテとワックスでパーマかけた感じにしたから、今日はサラサラな黒髪を生かして…ってなんでこんなゴワゴワしているんだ?」
「あっ、そういえば昨日はそのまま寝ちゃって」
「寝ちゃってって…。じゃあ、ワックスも落としていないのか…?もしかして…普段からもドライヤーかけていないとか?」
「そうですね。いつも自然乾燥で…」
「だー!!璃玖、お前ってやつは!!」
「えっ、えっ?!」
隼人が急に大きな声をあげたため、璃玖は驚いてしまう。
「璃玖、お前は自覚が足りなさすぎる!もう我慢ならないっ!俺が徹底的に叩き込んでやる!!」
「あーあ、璃玖君。隼人のスイッチ入れちゃった」
聖は隼人の叫び声が聞こえて心配になりバスルームのドアから顔だけ覗かせたが、璃玖へにっこりと笑いかけた。
「そうなると僕の言うことも聞かないから…璃玖君、頑張ってね」
「えっ!ちょっと、聖さん助けて…!!」
璃玖の助けを求める声はまるで聞こえなかったかのように、聖は静かにバスルームのドアを閉めてしまった。
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