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31.疑い
「君、芸能界とか興味ない?」
「え?」
璃玖は小春日の中、カフェのオープンテラス席に一人で座っていると、急に目の前にスーツ姿の男性が現れ、声をかけられた。
「驚かせてごめんね。僕、芸能プロダクションの者なんだけど」
「あ、あの…」
「今すぐに答えを出さなくていいから、名刺だけ、ね?受け取ってくれないかな?」
そう言って男性は名刺を机に置いて璃玖に差し出した。
「いえ、その僕…」
璃玖が対応に困っていると「すみません、弟に何か用ですか?」と言いながら、隼人が璃玖と男性の間に割って入るように立った。
隼人の威圧的な態度にも屈せず、男性はそのまま一歩下がり営業スマイルを浮かべた。
「これは失礼。お兄様と一緒だったんですね。僕、芸能プロダクションの者なんですが、弟さん、芸能界とか興味ないかなって」
「弟はスターチャートに所属しているので結構です」
「えっ、あ、これは失礼」
男性はスターチャートという名前と璃玖の顔を見比べると、名刺をテーブルに置いたままで呆気なく去っていってしまった。
「ったく。ただでさえ朝から何も食ってねぇんだから、静かに食わせてくれよな」
聖を見送った後、髪の洗い方からお風呂上がりの保湿、ドライヤーのかけ方まで一から璃玖は隼人に教わっていると、時刻はお昼を回ってしまっていた。
そのため、食べ損ねた朝食の代わりにと、隼人は若者が集まる街からほど近いオープンテラスのあるカフェに璃玖を連れ出した。
だが、隼人がカウンターへ注文と灰皿を取りに行っているほんの少しの間に、璃玖が知らない男性に話しかけられているのが見えて、隼人は慌てて戻ってきたのだった。
深い溜息をついた隼人は、璃玖の向かい側の椅子にどかっと音を立てて座り、足を組んだ。
「隼人さん。その…ありがとうございます」
璃玖は隼人にお辞儀をした。
「璃玖、お前も自分でちゃんと断れよ、ってなんでにやけているんだ?」
注意をしたにも関わらず璃玖の顔はほころんでおり、隼人は不思議に思う。
「ごめんなさい。だって、隼人さんが僕のこと弟って言うから」
「知り合いにしては歳が離れすぎているからな。説明が面倒だったんだよ」
「でも僕、一人っ子だからつい嬉しくて…」
璃玖の無邪気な理由に、隼人もつられて顔がほころびそうになる。
「隼人お兄ちゃんとでも呼ぶか?」
「えっ、いいんですか?」
隼人は冗談で言ったつもりだったが、璃玖は予想に反して嬉しそうに答えた。
だが、璃玖にお兄ちゃんと呼ばせた日には、聖の『璃玖君に一体何のプレイさせるつもり?』と蔑まされる様子が隼人には目に浮かび、背筋に冷たいものが走った。
「いや、気持ちは嬉しいんだが…。俺、聖に殺されるかもしれないから遠慮しておくわ」
「聖さんに?」
何故隼人の呼び方で聖が怒るのかわからず、璃玖は首を傾げてしまう。
「まぁ、その話は置いといて。璃玖はなんで自分で断れなかったんだ?」
「僕、スカウトって今日が初めてで、なんて答えたらいいかわからなくて…」
璃玖はスターチャートへはスカウトではなく、母が応募したオーディションに合格して研修生になったが、研修生になってからはもちろんのこと、今までスカウト自体されたことがなかった。
ただ今日は、隼人が見立てたコーディネートと髪型で街に出ているおかげで、どうやらスカウトの目に留まるらしく、カフェに到着するまでにも声をかけられていた。
「みんな僕が騙されやすいって思うんですかね」
「は?騙されるって?」
璃玖が突拍子もないことを言い出し、隼人は聞き返してしまう。
「だって、僕に声かけるなんて…。一緒について行ったら多額の入会金支払い求められるとか、ああいうやつですよね?」
「璃玖、お前…。賢いのか天然なのかどっちだよ」
「えっ?」
隼人は机に残されている名刺と、その前に声をかけられた分の名刺を璃玖の方から見えるように並べる。
「見てみろ、この名刺の会社名。こっちはさっきのスーツのおっさん。で、こっちはさっきのやつ。どっちもスターチャートに並ぶくらいの大手の芸能プロダクションだぞ?」
二枚の名刺に書かれた会社名は、片方はモデル、もう片方は主役級の俳優、女優が多く所属するプロダクションで、どちらもスターチャートに匹敵するぐらい業界に影響力のある規模の芸能プロダクションだった。
「そうなんですか?僕、そういう業界ごとって疎くて」
スターチャート自体、オーディションを受けるまで知らなかった璃玖は、他の芸能プロダクションの名前など知りもしなかった。
「はぁー…。じゃあ、璃玖がスカウトから声をかけられるようになったのも、ぜーんぶ俺の頑張りのおかげってことかな」
「はいっ!」
隼人は少々皮肉を込めたつもりだったが、璃玖は全く気づく様子もなく、満面な笑みで返事をした。
その無邪気な様子に今日何度目かの溜息を隼人はつくが、璃玖には隼人が何に対して溜息をついたのかわからず不思議そうな顔をした。
隼人自身、初めて会った時から璃玖のことは嫌いではなく、むしろ業界に染まっていない素直な表情、言動に好意を抱いていた。
だが、璃玖がΩである可能性を疑ってから、隼人は内心、璃玖に若干の不信感を抱いていた。
聖を利用しようと男女問わず近づいてくる者が少なくないため、璃玖も番になって聖のことを利用しようとしているのではと隼人は懸念したからだ。
昨日、璃玖に対してヘアメイクを行ったのも、璃玖自身に素材として隼人は興味を持ったからでもあったが、璃玖にわざと誘うような格好をさせたのは、Ωとして聖を本当にものにするなら誘惑ぐらいするだろうと考えていたからでもあった。
璃玖の出来栄えは本当に優艶で、近づけば自分もその雰囲気に飲まれてしまうぐらいであったが、隼人の予想に反して撮影だけが行われた。
そのため、隼人は璃玖が聖を利用しようといていると考えることはやめた。
だが、寝てしまった璃玖を家に送り届けるかと思いきや、聖が自分のホテルの部屋に運ばせたため、心底驚いたと同時に、聖が何故そこまでに璃玖に入れ込むのか不思議でしょうがなかった。
「お待たせしましたー。こちら、コーヒーと、ロイヤルミルクティーのホット、そしてクラブハウスサンドです」
黒を基調とした制服を纏った綺麗目な男性店員が、手際よく机に注文したものを並べていった。
「ご注文はお揃いでしょうか?」
「ありがとう。あとは君の連絡先だけかな」
「えっ?」
男性店員は驚いた顔をしていたが、隼人はどこからか名刺を取り出し、店員のベストの胸ポケットにさっと入れた。
「気が向いたら連絡して」
「し、失礼します」
優しく笑いかける隼人に店員は顔を赤らめてそのまま急ぎ足で去っていったが、隼人は店員の背に向かって手を振っていた。
「隼人さん…」
璃玖は呆れた様子で隼人を見つめる。
「なんだよ、好みだったんだから仕方ないだろ。ほら食べようぜ」
運ばれてきたコーヒーを飲みながら、隼人は璃玖の呆れた様子に不満そうな顔をしつつ、クラブハウスサンドが乗せられたお皿を璃玖に近づけた。
璃玖は手を合わせ「いただきます」と言って、クラブハウスサンドを一切れ手に取り頬張った。
思っていた以上にお腹が空いていたのか、あっという間に食べ切り、ホットミルクティーが入った大きめのティーカップを両手で包み込むように持ち上げた。
「あったかい」
小春日とはいえ季節は秋も終わりかけで、置いてあったひざ掛けを掛けていたものの、時折吹く冷たい風にいつのまにか璃玖は身体を冷やしていた。
カップから伝わる熱で指先を温めつつ、璃玖はやけどしないようゆっくりとミルクティーに口をつけた。
「それで、璃玖は俺に榛名さんの何を聞きたかったんだ?」
隼人はティーカップをソーサーに戻し、ポケットから煙草を取り出し火をつけた。
「榛名さんと相良先生の運命の番…だったんですよね?」
「へえ、そんなことまで…。聖が話したのか」
聖が璃玖に榛名のことを話したことにも驚いたが、運命の番の話までしていることにさらに隼人は驚いた。
「え、えっと…。隼人さんはどこまでご存知なんですか?」
「逆に璃玖はどこまで知っているんだ?」
「僕は…。相良先生が榛名さんとは運命の番で、聖さんとデビューが決まっていたけど…その…相良先生は榛名さんを選んだって」
璃玖は自分の知っている範囲のことを掻い摘んで伝えた。
「そっか、だいたいは聞いているんだな。で、璃玖はそれ以上何が知りたいんだ?」
「その…榛名さんってどんな人だったんですか?」
「…。そんなこと聞いて、璃玖はどうするんだ?」
「どうするって…」
(曲作りのことは言えないし…。しかも聖さんと相良先生のこと、どこまで話していいかわからない…)
璃玖は正直に答えることが出来ず、言葉を詰まらせてしまう。
璃玖が言えない様子に隼人も気が付いてはいたが、隼人は煙草を吸っては吐いてを静かに繰り返し、璃玖が喋るのを待った。
そのため、落ち着いた雰囲気のカフェがより静けさを際立たせた。
しばらく沈黙が続くと、隼人は煙草を灰皿に押し付け火を消し、静かに口を開いた。
「璃玖ってさぁ、聖のこと好き?」
「えっ?」
「いいから答えてくれ」
いつもの声のトーンより低く、まるでヘアメイクをしている時のような真剣な目で、隼人はじっと璃玖を見つめる。
「好き…ですよ」
「それは恋人として?」
「いえ、そういう…好きではないです」
「俺はさ…聖には感謝しているし、大切な友人なんだ。正直言うと、俺、璃玖のこと疑っていたんだ」
「え…」
「璃玖が聖を何かに利用しようとしているんじゃないかって」
「利用…」
璃玖はしていないと言いかけたが、言葉に詰まってしまう。
聖がフォトスタジオで璃玖に気づかせてくれた出来事が、聖を利用したことになるのではと思い、言葉が出てこなかった。
「もし聖を利用するだけなら、俺は絶対に許さない。これ以上聖に近づけさせない。どうなんだ?」
「僕は…」
璃玖は一度言葉を飲み込むが、何かを決心したように深呼吸をして隼人の目を真っ直ぐ見つめた。
「ごめんなさい、理由は言えないです。でも、聖さんと…相良先生のためなんです」
隼人に嘘や誤魔化しをしたくなかった璃玖は、今言えることを隼人に伝えた。
「僕、どうしても譲れない場所があるんです」
「譲れない場所?」
「聖さんが相良先生の隣にいたかったように、僕も隣に立っていたい人がいるんです。でも、今の僕には手に入れることが出来ないから、そのことに聖さんが気づいて声をかけてくれました」
「聖が?」
「はい。だから、僕もお返しに…なれるかどうかわからないですが、聖さんの役に立とうと思っています」
「役にね…。ったく、二人揃って俺には詳しく教えてくれないわけね」
「えっ?二人って?」
「璃玖と聖だよ。あいつもなんも話してくれないんだ」
「それは…きっと、僕が内緒にしてくださいとお願いしたからで…。聖さんは悪くないんです!」
璃玖は必死に隼人に訴えかける。
聖を利用しようというしたたかさを璃玖が持っているのではとも隼人は考え、大量のプレゼントをしてみたり、先ほどみたいに嫌味を込めたことを言って色々反応を確かめてみたりもした。
だが、璃玖の反応はどれも計算された行動とは隼人自身も思えず、今の話を聞いて、璃玖が聖に害を与えることはないと隼人は判断した。
「わかったよ。お前たちが何をしようとしているかは知らないけど、いつかは教えてくれよな。あと、手伝えることがあれば言えよ」
「…。はいっ。ありがとうございます!隼人さん!」
「それで隼人さん…」
「おっと。悪いけど、榛名さんのこと、聖が璃玖に話していないなら俺からはこれ以上話せないからな」
「…え?じゃあ…」
「そのかわり、よく知っている人に会わせててやるよ」
隼人はスマホを取り出し、組んていた足をほどいて立ち上がると、どこかに電話をかけるような仕草をすると、璃玖を置いてどこかに向かっていってしまった。
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