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32. 榛名 前編
「おー隼人、久しぶ…り」
「相良先生?!」
隼人が電話から戻ってきて数十分後、なんと現れたのは相良本人だった。
「神山…」
相良もまさか璃玖がいるとは思っていなかった様子で、璃玖の姿を見つけると、そのまま何も言わずに回れ右をしようとした。
「どこ行くんですか?相良先輩」
隼人は瞬時に相良の手を掴み、相良を引き止めた。
「は、離してくれ…」
「なんで逃げるんすか?」
「な、なんでって…俺には俺の事情ってもんがあるんだよ」
昨晩、聖が璃玖をそういった意味で側に置いていると盛大な勘違いをし、しかもあろうことか聖を誘うような言動をして聖を怒らせた相良は、今はとてもじゃないが璃玖と顔を合わせる気分ではなかった。
「ほら、ここ。座ってください」
隼人は自分の代わりに相良を椅子に座らせると、まるで逃げないようにと後ろに立ち、相良の肩に手を置いた。
「俺、仕事あるんだけど…」
「それはさっき電話で聞きました。でも、三十分は余裕があるって話でしたよね」
「う、それは…。でも、用があるのはお前だって」
「俺が代わりに聞こうと思ったんですが、璃玖がどーしても相良先輩に直接聞きたいらしいんですよ」
「は、隼人さん…!」
心の準備も何もしていなかった璃玖は、急に話をふられて慌ててしまう。
「神山が俺を呼び出してまで聞きたいことなんかあるのか?」
「えっ、えっと…」
璃玖が返答に困っていると、その慌てる璃玖の様子を隼人はニヤニヤしながら見つめていた。
(隼人さん、絶対楽しんでいる!!)
「実はですね…」
仕方なく璃玖は意を決して話を切り出そうとする。
だが、急に隼人は「それじゃー俺はさっきの子、落としにかかろっと」と言って、空いている席に座らず、そのままどこかへ歩き出してしまう。
「えっ!隼人さん?」
璃玖は立ち上がり呼び止めるが、隼人は璃玖の呼びかけに振り向くことなく店内のカウンター席へと、まるで心を弾ませているかのような足取りで歩いて行ってしまった。
「お決まりでしょうか?」
璃玖が立ち上がったのを呼んでいると勘違いしたのか、さきほど隼人が気に入った店員が席までやってきた。
「じゃあ、コーヒーを」
「かしこまりました」
相良がメニューも見ずに咄嗟に注文をすると、店員はカウンターに戻って行った。
店員が離れて行ったことを確認すると、相良は観念したかのように椅子の背もたれに体重を預けた。
「ったく。隼人のやつ、何考えてんだ?」
「ほんとに…」
璃玖も力が抜けたように椅子にドサっと座った。
たしかに榛名のことを詳しく聞きたかったが、まさかそのために相良を呼び出すとは璃玖も思っていなかった。
しかも、思い切って質問しようとした矢先に隼人に出鼻をくじかれてしまい、璃玖は話を切り出すタイミングを見失ってしまい、そのまま黙りこくってしまう。
しばしの沈黙が続き、相良の分のコーヒーが席に運ばれてきた頃、ようやく相良から口を開いた。
「神山の髪とかやったの隼人なんだろ?ほんとアイツ、そういうセンスはすげぇよな」
少し長かった璃玖の前髪が切られ、全体の髪型や服装も明るい印象に変えつつ、もともと璃玖が持つ清楚などの良い印象を壊していない隼人の腕前に相良は感心した。
「僕、変わりましたか…?」
まだ自信がないのか、不安そうに尋ねる璃玖の様子に相良はクスッと笑った。
「似合っているよ。前より断然よくなった。だから自信持て」
「はいっ。実は昨日、聖さんにも色々教えて…もらっ…て…」
(しまった!)
璃玖は昨晩の相良と聖のやりとりを思い出し、聖の名前は出すべきではなかったと後から気がついてしまった。
「聖に…か。今日は…聖と一緒じゃないんだな」
「え、えっと、なんだか仕事でトラブルみたいで…」
「さすが売れっ子だな。神山は…聖とコンサートの日まで一緒にいるんだろ?」
「えっ?どうしてそれを…」
「社長に聞いた。社長が『聖が後輩育成に目覚めた!』って感動して俺に教えてくれたよ」
「あっ、そうだったんですね…」
てっきり誰かに曲作りのために聖と一緒にいることを聞いてしまったのかと思った璃玖は、ホッと安堵した。
「そういえば昨日、お前が聖と消えた後、八神がすっごい顔してレッスン室に戻ってきたぞ」
「一樹がですか?」
「あぁ、まさに鬼の形相。まぁ、そんなこと気にせず、葉月は八神にベッタリだったけどな」
「…。そうですか…」
伊織は一樹と同期でレッスンのクラスも一緒のため、璃玖よりも一樹と一緒に過ごす時間が必然的に多い。
合同レッスンなどで璃玖も一緒になることもあるが、そういう時、決まって伊織は一樹ににベッタリして璃玖を近づけさせまいと睨んでいた。
それでも日曜朝の自主練や休憩時は一樹と一緒にいることも多かったため、それほど璃玖も気にしてはいなかったが、やはり面白いものではなかった。
璃玖は表情が暗くなっていき、相良もその変化に気がついた。
「あっ、いや、そういうことを言いたかったわけじゃなくてだな」
「?」
「その後、八神が聖のバックダンスの練習、死に物狂いでやっていたんだよ。今まで苦労したところなんかあんま見たことなかったけど、あんな必死になって練習するところ、初めて見た」
「一樹がですか?」
「あぁ。聖に神山を連れていかれたことへの対抗心なのかもな。可愛いよな」
(一樹が…)
いつも璃玖が背中を追いかけるばかりの一樹が、なんだか追いかけてくれているみたいで璃玖は嬉しくなる。
だが、それと同時に一樹の背中を追いかける今のままではいけないという気持ちが璃玖は強くなった。
「相良先生は…このままで一樹と僕は二人でデビュー出来ると思いますか?」
いつになく真剣な顔で質問する璃玖に、相良も真剣に受け止める。
「…。立場としては可能性があると言いたいとこだが…。正直、事務所的にも八神と葉月のほうが可能性が高いのはたしかだ」
(やっぱり…)
「神山は…八神と一緒にいたいんだな」
「…はい」
「でも…聖はどうするんだ?」
「聖さんですか?」
「だってお前ら…」
相良は璃玖が首をかしげていることに気付くと、そのまま言いかけてやめた。
「相良先生?」
「いや…なんでもない。俺には口を出す権利はないからな。それで、聖はお前に何を教えてくれたんだ?」
「えっと、自信を持つことと、僕を見てもらいたいって思うことが必要だって教えてくれました」
「へぇー…」
急に相良がフッと顔をほころばせた。
「どうしたんですか?なんだか相良先生、嬉しそう」
「それ、聖に教えたの俺だから」
「えっ?!」
「聖って、研修生なりたての時すっげーぶっきらぼうでさ。でも、なんかほっとけなくて声かけたんだ」
「聖さんが…そんな…」
元人気アイドルで、しかもあんなに笑う聖がそんなアドバイスが必要だったとは、璃玖にはとても考えつかなかった。
「だから神山も諦めるなよ。あの聖だって、努力したから今の地位があるわけだから」
「は、はい」
「んで、本当は俺に一体何を聞きたかったんだ?八神の近況ってわけじゃないだろ?聖の昔話か?」
「あっ、えっと…。榛名さんの曲って僕が作る曲に似ているって聞いて…。榛名さんってどんな人だったのかなって」
璃玖はつい話の流れで相良に質問をしたが、榛名の名前を伝えた途端、相良の目から静かに涙が溢れ出した。
「さ、相良先生?!」
あまりに唐突な出来事に璃玖はあたふたしてしまう。
一方相良は、冷静な表情のまま自分の頬を手のひらで触れ、その手が濡れていることに気が付くと、何故だか優しく笑っていた。
「ごめん、ちょっと不意を突かれた。まさか神山から榛名の名前が出てくるとは思わなくて」
「相良先生、ごめんなさい!僕また…無神経で…」
「いや、違う。神山は悪くないんだ。これは…俺がまだ忘れていない証拠だから。嬉しいよ」
相良は泣いているにもかかわらず、何故か嬉しいと笑っていたが、次々と溢れ出る涙が止まらない様子で、そのまま背もたれに寄りかかりながら上を向いた。
「相良先生…」
璃玖の呼びかけに相良は返事をせず、しばし無言が続いた。
璃玖は相良の様子に居ても立っても居られず、机に置かれた相良の手を以前天沢が自分にしてくれたように、そっと自分の手を重ねた。
相良の手は寒さのためか、はたまた涙で熱が奪われたせいか、璃玖にはひどく冷たく感じられた。
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