34 / 75

34.侮辱

「ねぇ?ねぇ、一樹ってば聞いてる?」 「あっ、ごめん。なんだっけ?」 「はぁー…。昨日からずーっとそんな感じで上の空だよ。そんなに聖さんとアイツのことが気になる?」 「別にそういうわけじゃ…」 「あっそ。じゃあ、そのウザったい感じ、どうにかしてくれない?」 聖のバックダンサーに抜擢された翌日、一樹と伊織はスターチャートのレッスンルームではなく、都内のレンタルダンススタジオを訪れていた。 昨日は聖の担当振付師が午後にスターチャートに来て一樹と伊織にレクチャーしてくれたが、今日は聖のバックダンサーと聖の合同練習日であったため、急遽、二人で練習を見学をすることになった。 駅から少し離れた場所にあるダンススタジオに二人揃って到着し、ドアを開けると、スタッフらしき人が駆け寄ってきて、とりあえず入口付近の壁際で待機となった。 とくにすることもなく二人は話しながら待っていると、まるで値踏みをするように、こちらをチラチラと見ている集団がいることに気がついた。 「どうやら俺たち、あまり歓迎されてないみたいだな」 「だろうね。まあ、上級クラスの先輩たちと一緒だよね。急に新人が自分たちと同じ舞台に来たらおもしろくないだろうからね」 スターチャートの先輩たちは何年もかけて上級クラスになったにも関わらず、一樹と伊織はわずか一年という異例の速さで上級クラスへ進級となったため、周りはおもしろくないらしく、講師たちがいない場所では二人とも浮いた存在となっていた。 それは基礎クラスの時から同じで、二人ともそんな雰囲気にはもう慣れていたため、あえて気づかないフリをしていたが、こちらを見ていた集団の一人が急に近寄ってきて、伊織の目の前に立った。 「ねぇねぇ君、可愛いね」 年齢は大学生ぐらいで長い髪を一つにまとめた男は、格好から恐らくダンサーだと推測出来たが、一樹はまるで存在しないもののように伊織にだけ話しかけた。 さらにもう一歩、男は伊織に近づくと、伊織の顔の横で壁に手をつき、伊織の顔をじっくり嘗め回すように観察した。 それでも伊織は嫌な顔ひとつせず、そのまま笑顔を向けた。 「えー、ほんとですか?ありがとうございます」 出来るだけ高い声で語尾を上げ、伊織は明るく答える。 「あ、男の子だったんだぁ。てっきり、メスのΩだと思ったよ」 伊織の容姿はサラサラで色素が薄い髪に、切れ長の瞳に長い睫毛で、まさに西洋のお人形のようで昔から女の子に間違えられることを一樹も知っていたが、こんな侮辱的な言葉を受けた伊織を見たのは初めてだった。 「君たちなんだろ?急遽、バックダンサーに任命されたの。あれってさぁ、もともと聖さんがソロでやる予定だった曲なんだよねー。一体、どんな関係者を誑しこんでゲットしたわけ?やっぱ君ってΩで、その身体使ったの?」 ダンススタジオ内にいる全員に聞こえるよう、一際大きな声で男は言うと、他のダンサー達やスタッフの視線が一斉に一樹と伊織に集まった。 心配そうにする者や、ニヤニヤしながらこちらを見つめる者もいる中、男は壁を背にしていた伊織の腰に今度は手を回して、いやらしい手つきで腰から背中を撫でた。 一樹は伊織が侮辱されていることへの怒りと同時に、Ωである璃玖も侮辱されている気持ちになり、我慢できずに二人の間に割って入ろうとする。 だが、すかさず伊織は一樹にだけわかる程度に小さく手首を振って合図をし、一樹の動きを静止した。 今にも殴りかかりそうな気持ちを一樹は唇を噛んで必死に堪え言葉を飲み込むと、そんな一樹を見て伊織は『ありがとう』と口だけ動かすと、満足そうな笑みを浮かべ大きな声で叫んだ。 「もう何言っているんですかー。僕たちって、スターチャート所属で、レッスンをしてくれた聖さんが直接声をかけてくれたんですよー」 あえて伊織はスターチャートの部分と聖が直接という部分を強調するように言った。 スターチャートは芸能プロダクションとして業界に大きな影響力を持つため、商品の一樹と伊織に何かあれば黙ってはいないだろうし、聖が直接選んだ二人に難癖をつければ、それは聖への非難につながると警告するためだった。 伊織の作戦は見事成功し、こちらを見ていた者はまるで何も見なかったように、視線を逸らした。 目の前にいた男もさすがにまずいと思ったのか、伊織から一歩下がり逃げようとする。 そんな男に伊織は自らさらに一歩近づき、密着するような距離にして、腰に回されていた腕に指先を添えた。 そして、男の腕を指先で撫で上げると、上目遣いで見つめ、少し背伸びをして男の耳元で囁いた。 「すごい…綺麗な筋肉ですね」 「えっ…?そ、そうかな?」 褒められたことに気をよくして、男は照れたように顔を赤らめた。 さらに伊織は男の回された手を重ねるように握ると、脇腹から脇の下にかけて、自分の体のラインを触らせた。 「ええ。僕、ほら、こんなに細いから…羨ましいです。だからΩに間違えられちゃうんですかね。ダンスも皆さんみたいに上手くないですけど…もし困ったことあったら…頼ってもいいですか?」 一樹が聞いたこともない猫なで声で、伊織は甘えるように男に言う。 「あ、ああ。いいよ。なんか分からないことあったら、すぐ声かけていいからね」 さきほど嫌味を言っていたのがまるで嘘のように、男は優しく伊織に笑いかけた。 「ありがとうございます。じゃあ、センパイ、色々…教えてくださいね」 色々という言葉に含みを持たせ、余韻たっぷりに伝えてから伊織が男から体を離すと、ハッとしたように男は「じゃ、じゃあ」と言って元いた場所に戻っていく。 そんな男の背を見送るように伊織は笑顔で手を振った。 男が元の場所に戻ったことを確認すると、伊織は急に振り向き、壁に向かってストレッチをするフリを始めるが、その顔は苦虫をかみつぶしたような表情で眉間に皺をよせていた。 「あー、ウザい。ほんと、ああいうクズ野郎は死ねばいいのに。あんなやつ、僕らより先に生まれて、年数重ねた経験があるだけだけだっつーの」 あれだけのことを言われても、怒りを抑え冷静に対応をした伊織に、一樹は尊敬の念を抱いた。 「お前…本当にすごいな」 「別に…。これぐらいしていかないと、この世界でやっていけないことくらいわかっているからね。僕はデビューするためなら何でもするよ」 「俺、お前のそういうところ、本当に尊敬するわ…」 「何?嫌味?」 「いや、助かったってこと。俺が殴りかかっていたら、今回の話、きっとなかったことになっていただろし」 「相手もそれを待っていただろうからね。一樹が待てが出来るいい子でよかったよ」 一樹は言われてみて、初めて自分が男に利用されようとしていたことに気が付いた。 「もっと、気をつけないとな」 「そうそう。でも、なりふり構ってもいられないんだよね。僕たちはなんとしても、今回のコンサートで結果を出さないといけないんだから」 「ああ、そうだな」 「一樹、本当にわかっている?今回の話がどれだけ僕たちにチャンスが与えられているか?」 「わかっているよ…」 「いーや、ぜーったい、一樹はわかっていない。上級クラスになってわかっただろ?いくら僕たちがダンス上手くたって、まだペーペーの僕たちじゃ、実力より経験で先輩達のように舞台にあげてもらえないんだよ。今回はチャンスなんだ」 「そんなこと…わかっているよ」 「どうだか」 上級クラスになるとデビューしている先輩たちのバックダンスを任されるようになるが、生放送やコンサートなど失敗の許されない場面も多い。 そのため、スターチャートはもちろん実力主義だが、何かあった時に機転を利かせ冷静に対処できるスキルを二人はまだ持っていないとして、半年間、レッスン以外は見学を言い渡されていた。 一樹は仕方がないと納得していたが、伊織は自分たちより明らかに下手である上級クラスの先輩を見学させられることに腹を立てていた。 だが今回、聖のコンサートに先輩たちではなく自分たちが選ばれため、実力を認められたと一樹以上に伊織は喜び、力が入っていたのだ。 「あっ、そういえば昨日来ていた振付師の人に聞いたんだけど、僕たちがこうやって選ばれたこと自体がイレギュラーなんだって。それってすごいことだから、この後の聖さんのワールドツアーに連れて行ってくれるかもだってさ。ねぇ、ねぇ、そうなったらどうする?」 「どうするって…俺は…」 即答すると思っていた一樹が言葉を濁す様子に、伊織は信じられないといった顔をした。 「何迷ってるの?まさか…行かないとか言わないよね?もしかして、誰かさんを気にして、せっかくのチャンスを棒に振る気?」 「…」 一樹は下を向き黙ってしまったため、伊織は呆れて溜め息をつく。 「へぇ…。あんなに聖さんに夢中だった一樹なのにね。ちょっと前なら、そんなこと即答していたよね。やっぱりアイツは一樹の邪魔でしかないね」 「そんなことは…」 璃玖は関係ないと否定しようとしたが、伊織の言う通り、頭の中は璃玖と離れ離れになってしまうことへの不安で、とても行くとは言えない自分がいることに一樹は気がついた。 「あっ、聖さんだ!こんにちわ」 ダンススタジオの扉を開け一人で入ってきた聖に、すかさず伊織は声をかける。 「こんにちわ、伊織君。一樹君も、見学に来てくれてありがとうね」 まさに不安の元凶になっている聖の登場に、一樹は聖を直視することが出来なかったが、一応「こんにちわ」と小さな声で挨拶はした。 「もう、こんなプロの練習を見学出来て、僕たち感激です。あと、僕たちを選んでくださって本当にありがとうございます!」 「僕こそお礼を言わなきゃ。時間がないのに無理を言ってごめんね。君たちを見たら、どうしても一緒のステージを作りたくて」 「そんな!ありがとうございます。ねぇ、一樹。一樹?」 璃玖が一緒に来ていないことに気づき、何かあったのかと一樹は不安になるが、それを聖に悟られるのが嫌で一樹は黙ったままでいた。 「璃玖君のこと、気になる?」 「別に…俺、璃玖のこと信用しているんで」 一樹の気持ちを見透かし、聖に試すような言い方をされるが、一樹は冷静を装った。 「ふーん…。信用ね。そのわりには僕のこと、なんだか睨んでいる気がするのは気のせいかな?」 「気のせいじゃないですか?」 「そっか。まぁ、璃玖君とは週末会えるよ。連絡はちょっと取りあうことは出来ないけど」 「それはどういう意味ですか?」 「どういう意味だろうね。でも、次に会う時には君の手の届かないところにいるかもしれないよ」 「絶対、璃玖は…俺のとこに戻ってきます」 昨日、璃玖は自分のものだと宣言した時と同じように、一樹は聖の目を真っ直ぐ見て伝えた。 聖はその一樹の真剣な眼差しに笑顔を浮かべたが、一樹には聖の笑みは何かを安心したかのように見えた。 そんなことを考えていると、聖は一樹に顔を近づけて、耳元でそっと囁いた。 「君の隣にずっといるなんて思い上がらない方がいいよ。いつか後悔する日がくるかもしれないから…」 「それって…」 「それじゃあ、あそこにパイプイスがあるから、二人とも見やすいところで自由に座って見学していってね」 「はーい」 伊織が返事をすると、聖は笑顔を崩さないまま何事もなかったように、ダンススタジオの中央に向かって行った。

ともだちにシェアしよう!