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35.一樹と隼人

「それじゃ、あとは当日のリハーサルだけですが、体調管理に気をつけてください。スタッフのみんなも後片付け終わったら引き上げて大丈夫です」 「お疲れ様でした!」 ダンサー達は揃って聖に礼をすると、ダンススタジオを後にして更衣室に向かっていった。 そのため、スタジオには数人のスタッフと聖、そして一樹と伊織だけになった。 「すごかったね!一樹!」 幼い頃からずっと憧れだった聖のダンスパフォーマンスを間近で見た伊織は、まだ目を輝かせて興奮冷めやらない様子だった。 もちろん今までの一樹なら、伊織以上に興奮して、感動していたはずだった。 しかし、練習開始前に聖に言われた『隣にずっといるなんて思い上がらない方がいい』という言葉が頭から離れず、休憩時間の合間に、一樹は昨日から返信のない璃玖に何度も電話やメールをしていた。 だが、それでも連絡がつかず、一樹の頭をよぎるのは、一樹の制止も聞かず背を向けて走っていってしまった璃玖の姿で、今の一樹には集中して見学する余裕など残されていなかった。 まだ発情期の訪れていない璃玖とは番になることも出来ず、告白の返事すら聞けていない今の状況では、璃玖が聖に心変わりしてしまったのではないかと、璃玖を信じたいと思う一方で、焦りと不安は募るばかりだった。 そんな複雑な心境で一樹は座ったままでいると、隣に座っていた伊織は急に立ち上がった。 「さーてと、僕はさっそく媚びでも売ってこようかな」 「はっ?」 「さっきの男、見ていた限りでは、どうも中心的な存在みたいなんだよねー。だからもう少し媚び売っておいて損はないかなーって。ちょっと行ってくるね」 何をしにいくのかと詳しく聞く前に、伊織は先ほど侮辱してきた男がいるダンサーの集団を追いかけるため、更衣室に向かって行ってしまった。 「信じらんね…」 あんなにもひどい言葉を言われたにも関わらず、立ち向かっていく伊織の強さと行動力に一樹は脱帽してしまう。 そんな伊織の行動は、璃久には到底真似出来ないだろうとふと思い、もし先ほどの場面が伊織ではなく璃玖だったら自分は一体どうしていただろうと一樹は想像をした。 浮かんでくるのは、震えるほどの怒りを覚える自分と、傷ついた表情の璃玖の顔で、一樹はその時、絶対に璃玖にそんな顔をさせたくないと思った。 璃玖を独占して、守って、そばにいたい。 離したくない。 璃玖の隣を自分だけのものにするにはデビューして、番にするしかない。 今までそれだけを考えていた一樹だったが、果たしてΩという第二次性を隠して、一般人として普通の生活する以上にΩだとバレることに怯えながら過ごすことが、本当に璃玖の幸せになるのかと今回の件で急に考えさせられてしまった。 「おーい、聖」 入り口付近で俯きぎみに考えながら座っていた一樹は、急に入ってきて聖に声をかけた訪問者の声に顔を上げる。 「なんだ隼人か。どうしたんだ?こんなところまで」 「いや、璃玖がさー…」 聖に歩み寄る隼人から璃玖の名前が聞こえ、一樹は居ても立っても居られなくなり、二人の元に駆け寄った。 「璃玖がどうかしたんですか?!」 「誰こいつ?」 急に会話に入って来た一樹に、隼人は怪訝そうな顔をする。 「璃玖君と同じスターチャートの研修生で、八神一樹君だよ。今回、バックダンサーとして出てもらうんだ」 「へぇー。ということは、ダンスがお上手なんだな。けど、スターチャートの育成も落ちたもんだな。大人の会話に勝手に入ってくるなんて…痛っ」 聖は隼人の頭を軽く手の甲で小突いた。 「勝手にこんなとこまで来たのはお前だろ。お前がとやかく言う権利はない」 「ちぇーっ。せっかく後輩に元先輩らしいところ見せようとしたのになぁ」 「あの!璃玖に何かあったんですか?アイツ、昨日から全然連絡つかなくて…」 聖の前だということも忘れ、一樹は焦りを露わにしてしまう。 「別に元気だぜ。まあ、ちょっとバタついているというか…。ホテルには戻ったんだけど、ちょっと聖には事前報告というか…」 「えっ?璃玖は…家に帰っていないんですか?」 「あっ…」 隼人は余計な事を言ってしまったと気づいた時にはもう手遅れで、一樹は問い詰めるように、どんどん隼人に詰め寄る。 「一体、どうしてなんですか?」 「知らねーよ。なんだよコイツ。だから、大人の話に入ってくるなって」 詰め寄ってくる一樹から隼人は距離をとろうとするが、一樹はお構いなしにもっと隼人に詰め寄り、矢継ぎ早に質問をする。 「もしかして、璃玖に連絡がつかないことに何か関係があるんですか?璃玖は昨日から一体どこで何をしているんですか?」 「部外者のお前に話すかよ。お子様は黙ってな」 その言葉に一樹は苛立ちを覚え、口が悪くなっていく。 「アンタのほうがよっぽど部外者だ。璃玖に手出ししたら絶対許さないからな」 「その態度は先輩への態度か?」 傍からみると、まるで年の近い兄弟の喧嘩のようで、聖は呆れて溜め息をつく。 「隼人、お前がまず黙れ。一樹君、璃玖君は元気だし、昨日から僕の仕事の手伝いをしてくれている関係で一緒のホテルにいるんだ。だから落ち着いて」 「落ち着いていられるわけないじゃないですか!璃玖が聖さんの何を手伝えるんですか?」 「おいおい、それは璃玖に失礼なんじゃないの?」 「アンタは黙ってろよ。聖さん、璃玖に何したんですか?」 「お前いいかげんに…」 一樹の態度にカッとなった隼人は、一樹の肩を掴もうとするが、その手は聖によって止められた。 聖は隼人に向かって首を横に振って見せると、一樹のこの興奮した様子では話を続けても埒が明かないと、もう一度溜め息をつき、スッと表情を消した。 「これ以上こんな君と話す必要もないね。隼人はタクシー捕まえといてくれ。僕は着替えてくるから」 そう言って聖は、一樹に背を向けて歩き出してしまう。 「待ってくださいよ、聖さん」 一樹は聖を追いかけようとするが、隼人に腕を掴まれ阻まれてしまう。 「待てよ」 「離せってば!」 隼人に掴まれた腕を一樹は振り払おうとするが、隼人の力は強く、びくともしなかった。 「じゃあね、一樹君」 聖は自分のタオルと飲み物を持ち、そのままスタジオから出て行ってしまった。 「くそっ!離せってば!!」 「大人しくしろって。ったく、璃玖のことで熱くなるのは、うちの王子様だけで勘弁しろよな」 一樹の腕を掴んだまま、隼人は笑い混じりに言った。 「アンタ、なんで璃玖を呼び捨てにしてんだよ?一体、誰なんだ?」 身長差のせいで見上げることしか出来ないが、それでも一樹は必死に隼人を睨みつける。 「俺?俺は聖の専属のヘアメイクアーティスト。それにスターチャートの元研修生だから、お前の先輩だぞ。もっと敬え」 「元、先輩ですよね」 「お前、本当に可愛くないなー。お前こそ、璃玖のなんなの?」 「アンタに璃久とのこと、話す必要なんてないです」 一樹はまるで子供のように、不貞腐れた様子で隼人から顔を背けた。 「へぇー…。そういう態度かぁー。じゃあさぁ、知ってるか?璃玖のうなじと内ももに、色っぽく見えるホクロがあるよなー」 本当はそんなものがあるかどうかもわからない隼人だったが、璃玖と一樹の関係の探るにはぴったりだと、顔をにやけさせながら意味深長に一樹に言った。 「ふざけるな!璃玖に何をしたんだ?!」 隼人の策略通り、一樹は頭に血が上り、隼人に掴まれていた腕とは反対の腕の拳で、一樹は隼人の顔を殴ろうとする。 だが、その拳は意図も簡単に隼人に阻まれてしまった。 「あっぶね。この顔は商売道具の一つなんで勘弁してくれよな。冗談だって、冗談」 「ふざけるな!」 一樹は先ほどよりきつく、隼人を睨みつけた。 「はいはい。それで…一樹だっけ?お前と璃玖の関係は?」 「俺と璃玖は二人でデビューを目指しているんだ」 「へぇー。お前が璃玖とね」 そういうことかと、隼人も状況を把握し、掴んでいた一樹の拳を離した。 そして今度は、その空いた手で一樹の顎を掴み、自分のほうに無理やり向かせると、顔の隅々まで観察をする。 明るそうな印象を受ける少々色素が薄い茶髪の短髪でバランスの整った一樹の顔は、隼人の仕事の素材としてもスターチャートがデビューさせるアイドルの傾向にもぴったりだった。 おそらく、あと数年もすれば確実に人気アイドルに化けるだろうと隼人には容易に想像がついた。 そんな一樹と、身長差を生かして璃玖と対照的な恰好をさせたりしたら面白いだろうと考えつつも、隼人は昔を思い出し、冷静に一樹に現実を教えてあげようとする。 「それで?」 「えっ?」 思ってもみなかった隼人の反応に、一樹は戸惑ってしまう。 「だから、約束が何だって言ってるんだよ。そんな約束したやつなんて、俺だって何人もいたぜ」 「俺と璃玖の約束はそんな軽いものじゃ…」 「重い軽いの問題じゃねーよ。俺たちは所詮、商品でしかない。単品で売るか、どうやってセットで売るか、それは事務所が決めることだ。だからそんな約束、なんの意味もないんだよ」 「そんなことは…ちゃんと二人で頑張れば…」 「お前、本気でそんな甘いこと考えてるのか?どうせ聖に同じこと言ったんだろ?」 「それは…」 「なるほどなぁ…。これが聖が璃玖にご執心の理由か」 「どういう意味ですか?」 「そんなこと自分で考えな。けど、優しい俺が一つ教えておいてやる。聖は頭いいから、想像の何倍も先のこと考えて行動しているからな。さっさと気づきな」 一樹には隼人の言っている意味がわからず、首を傾げながら眉間に皺を寄せる。 「ちなみに、璃玖が嫌がることは聖は一切していないし、このまま聖に任せておけば、璃玖は驚くほど変わるぞ」 「璃玖は変わる必要なんてありません」 「まぁ、俺の話を信じる信じないはお前が決めることだ。けど、俺から言わせれば、昨日までの璃玖じゃ、到底デビューなんて無理だったな。それこそ、お前が璃玖と一緒でないとデビューしないーとか、そういう我儘が社長に言えるぐらい人気なら話は別だが」 「聖さんが璃玖を変えたっていうんですか?」 「まあな。おっと、そろそろいいかな。おーい、ちょっと!」 顔見知りなのか、一樹と隼人のやりとりを遠くから見つめ心配そうな顔をしていた男性スタッフを、隼人は手招きして呼びつけた。 「隼人さん、どうされましたか?」 近寄ってきたスタッフの手を急に隼人は掴むと、そのまま自分の代わりに一樹の腕を握らせた。 「コイツ、五分ぐらい掴んで逃さないようにしててくれないかな。逃さなかったら、今度一晩だけ相手してやるよ」 「なっ?!」 隼人の発言に一樹は驚いた顔をするが、男性スタッフは表情が一気に明るくなった。 「ほ、ほんとですか?」 スタッフの中には隼人に憧れているものも多かったが、隼人の寝取り癖と、相手はαだけという恋愛ルールは有名だったため、βのスタッフにとってはまさに夢のような誘いだった。 「ああ、特別サービスでな。じゃーな、一樹。また会う日まで。こっちは璃玖と楽しくやるよ。ちなみに璃玖の嫌がることしていないのは聖だけだからな」 「ちょっと、待ってよ!じゃあアンタは?!まだ話の途中!」 一樹の叫び声をわざと聞こえないように耳を塞ぎながら、隼人もスタジオを出て行ってしまった。

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