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36.伊織
一樹は隼人を追おうと、男性スタッフに掴まれた腕を振り払い走り出そうとする。
だが、隼人ほどでないにしろ、大人の男性が踏ん張る力には勝てず、一樹は隼人の後を追いかけることは出来なかった。
「あっ、暴れないでください!困ります!!」
「一樹っ!」
スタジオに戻ってきた伊織は、一樹とスタッフとのやりとりを見つけ、慌てて駆け寄った。
「頼むから離してください!」
「一体どうしたんですか?」
伊織は暴れる一樹の肩を掴んで静止させようとする。
「ちょっと彼を…五分ほどここに留めておくように頼まれまして」
「じゃあ僕が代わります。別に僕でも同じ時間留めておければいいですよね?だから離してもらえませんか?」
「え…でも…」
男性スタッフは一樹と伊織の顔を見比べて困った顔をする。
「約束は守ります。そうでしょ?一樹」
「…ああ」
一樹は暴れるのをやめて、仕方ないとあきらめた様子で斜め下を見つめながら、伊織に従うように頷いた。
「それじゃあ、お願いします」
一樹を制止するため全力で踏ん張っていた男性スタッフは、体力も限界だったため、伊織の提案に甘え、掴んでいた一樹の腕を離し伊織に託した。
そして、そのまま男性スタッフは、二人に軽くお辞儀をして、隼人との約束が嬉しいのか、鼻歌交じりにスタジオから出ていき、スタジオには一樹と伊織の二人きりになった。
「腕、離してくれよ」
「ダメだよ、約束したんだから。はぁー…。僕がいない間に一体何があったの?」
伊織は呆れ気味に一樹に質問をする。
「…。聖さんのヘアメイクアーティストって奴が、璃玖に手を出すかもしれないんだ。しかも璃玖、聖さんとホテルに泊まっているらしくて…だから追いかけようとしたんだ」
一樹の話を聞いて、表情には出さなかったものの、伊織は璃玖の状況に内心かなり驚いていた。
伊織の璃玖の印象は、特に突出したものもなく、睨んだだけで怯むくらい弱くて、この世界の恐ろしさや厳しさ、汚さを知らない子供というものだった。
そんな璃玖が昨日、基礎クラスにも関わらず特別に聖のレッスンを見学し、特別扱いされていることに伊織も不思議に思っていた。
だがまさか、聖と一緒にホテルに泊まっているなんて、実力もない璃玖がそんな状況になるのは、聖か聖に近いスタッフに色目を使ったとしか伊織には考えつかず、伊織は不敵な笑みを浮かべた。
「なるほどねー。昨日の特別待遇はそういうことか。まさか、あんなお子様が色目使えるなんてびっくり。まぁ、そのギャップが売りなのかな」
「ちがう!璃玖は伊織みたいに自分からそんなことするやつじゃない!!」
一樹は伊織の言葉を否定するつもりが、とっさに伊織自身を否定するような言葉が飛び出してしまい、言葉が過ぎたと口元に手を当てる。
「はっ?」
だが、伊織が聞き漏らすはずもなく、一樹の言葉に伊織は怒りを覚え、眉間にシワを寄せた。
「みたいって何?自分から媚びを売る下品な僕と、色目使って取り入るアイツは違うって一樹は言いたいの?」
「そういう意味じゃ…」
ないと言葉を続けようとした瞬間、一樹の口は伊織が少し背伸びをし、唇を重ねたことによって言葉が遮られてしまった。
一樹は何が起こったのかわからず、驚きのあまり目を開いたまま、抵抗するのも忘れてしまう。
だが、伊織の舌が差し込まれ、一樹の舌に当たった生々しい感覚に一樹は現実に引き戻されると、勢いよく伊織を突き飛ばした。
伊織は突き飛ばされたことで掴んでいた一樹の腕を離し、よろめいたが、そのまま悪びれた様子もなく、冷静な顔を一樹に向け、唇を人差し指の指先で見せつけるように拭った。
「何…しているんだよ…」
一樹は思ってもみなかった伊織の行動に、ずっと信じてきたものに裏切られたような気持ちになって、手の甲を口にあて、伊織を悲しげな表情で見つめた。
「教えてあげたんだよ。デビューするためなら、誰だってこんなことも出来るってね。一樹のお気に入りの璃玖君も、結局、僕と一緒だよ」
「違う…。璃玖はそんなやつじゃ…」
「いいかげんにしなよ一樹。そんなことないって言いながら、本当は信じてないんだろ?あんな子が急に特別扱いされるなんておかしいじゃないか」
「それは…」
昨日の出来事は璃玖の才能が認められたからと続けようとしたが、お世話係という名目で連れ出され、一緒のホテルに泊まる意味までは一樹にもわからず、言葉に詰まってしまう。
「ほらね。一樹だって不審に思っているんだろ?だからあんな子は放っておこ。だいたい、今、聖さんに楯突いて、バックダンサー降ろされたらどうするんだよ。アイツのためにチャンスを捨てるの?」
「俺は…バックダンサーより、璃玖の方が大事だ。それに…俺は璃玖を信じている!璃玖を犠牲にしたチャンスなんていらない。だって俺は璃玖とデビューするんだから」
「まだそんなこと言って!アイツと一緒にデビューなんて無理に決まってるだろ!何回言えばわかるの?」
一樹の両腕を掴み、伊織は諭すようにまっすぐ一樹の目を見るが、一樹は顔を背けたままで「そんなのわかないだろ!」と怒鳴るように声を張り上げた。
「わかるよ…。だって…僕は絶対に一樹の隣を譲らないんだから。アイツなんかに…絶対譲らない!!」
一樹は伊織の言葉に驚き、とっさに伊織の顔を見ると、その目は今までに見たことないほど真剣だった。
「伊織…」
「本気だよ。ダンススクールの時から、僕の隣は一樹だったんだ。僕には一樹は必要だし、一樹を際立たせられるのも、僕だけだ。ちょっとこの前現れたアイツなんかに、一樹の隣は絶対に譲らない。一樹とデビューするのは僕だ」
同じダンススクールに通って一緒に練習し、舞台に立ってきた伊織と一樹は、一緒にデビューしようと約束を口にしたことはなかった。
それは、今まで二人でやってきたのだから、これからも当たり前だと、あえて口にする必要もないと伊織は考えていたからだった。
けれど半年前、急に璃玖とデビューすると言い出した一樹に、伊織は少しながら裏切られたようなショックを受けた。
ただ、伊織も一樹の隣を譲る気は全くなかったし、璃玖では一樹の実力に追いつけず、隣に並ぶことは誰が見ても出来ないとわかりきっていたことだったので、それほど璃玖の存在をライバルとして気にしてはいなかった。
もちろん、一樹と璃玖が特別な関係であると伊織も気づいていたが、恋に浮かれた一時的な気の迷いだろうと、一樹を強く止めることもしなかった。
しかし、まだ璃玖とデビューすると言い張っている一樹と、さきほどの一樹の発言で、璃玖より自分が劣っていると言われているような気持ちに伊織はなり、プライドがこれ以上我慢ならなかった。
「ごめん、一緒にデビューは無理だ…。俺は璃玖と組むんだ」
そんな伊織の気持ちには全く気付かない様子で、一樹はキッパリと言い切った。
「はぁ…。一樹がここまで馬鹿だとは思わなかったよ…」
感情をこれ以上表に出さないように、伊織は呆れた様子を装いつつ溜め息をつき、掴んでいた一樹の二の腕から手を離すと、一樹に背を向けた。
「仕方ないね。こんなこと、言いたくなかったけど、じゃあ教えてあげるよ。アイツに夢みるのも勝手だけど、アイツの本性をね」
一樹から数歩距離をとってから伊織は振り向くと、一樹に笑いかけた。
「璃玖の本性?」
「そう…。ねぇ、一樹はレッスンルームで自分が何したか覚えている?」
「レッスンルームで?」
「レッスンルームって実は監視カメラついていて、先生たちの部屋から見れるんだよ。だから僕、偶然見ちゃったんだ」
本当はそんなカメラもついておらず、伊織は何か決定的な出来事を目撃したわけではなかった。
だが、一樹と璃玖が朝練を二人きりで行っていることを知っていた伊織は、まるで何か秘密を目撃したかのように話を続けた。
「それって…」
「まあ、これ以上は言わなくても当人だからわかると思うけど…」
案の定、一樹に何か心あたりのある様子が伊織には見て取れたため、伊織はそのまま嘘を重ねた。
「何を見られたかわかったみたいだね。でもね、アイツは一樹だけじゃないよ。実は他の人とのあんな場面、僕は何回も見かけているんだ。一樹には可哀そうだから言わなかったけど、結構モテるみたいだね」
「何言って…」
「アイツのトクベツは一樹だけじゃないってことだよ。いいかげん気づけば?」
「そんなの嘘だ…。そんなわけ…」
自分を見失っている一樹を取り戻そうと、伊織は一樹の反応を見ながら更に追い打ちをかける。
「聖さんやスタッフにまで取り入っているのがいい証拠だろ。きっと良いスポンサーが現れたから、一樹は用なしなんだよ」
「そんなわけない!」
「ねぇ、いいかげん目を覚ましなよ。あんな奴やめて、僕とデビュー目指そうよ」
伊織はもう一度一樹に近づき、一樹の首に腕を絡め、改めてキスをしようとする。
「やめろ!」
一樹は伊織の腕から逃げ出すと、そのまま走ってスタジオを出て行った。
一樹はスタジオのドアを閉め、そのままドアに背を預けた。
そして呼吸を整えるように目を瞑り、気持ちを落ち着かせようとした。
しかし、落ち着けば落ち着くほど耳に残っているのは伊織の言葉だった。
自分だけではなく、他にも特別な相手がいる。
考えたこともなかった伊織の話に、一樹は動揺を隠せなかった。
ただ、一樹自身、伊織の言葉をすべて信じるわけではなかったが、昨日からの出来事はたしかに不自然なことが多すぎると一樹も感じていた。
最初は璃玖の実力を聖が見出してくれたと考えたが、璃玖が連れ出されたことや、元気なのにも関わらず今連絡がつかないことは事実で、一樹を更に不安にさせる材料になっていた。
璃玖を信じたいのに疑っている自分がおり、一樹はそんな気持ちを払拭するように頭を振った。
璃玖に今すぐ会って違うと否定してほしい。
その一心で、一樹は璃玖の居場所を知っている聖と隼人の姿を探すことにした。
すると、ちょうど隼人が突き当たりの廊下を曲がっていくのが微かに見え、一樹は急いで後を追いかけた。
廊下を曲がると隼人の姿はなく、一番奥の部屋から、聖と隼人の声が微かに聞こえた。
一樹はノックをせず、すぐにドアを開けようとドアノブに手を伸ばしたが、部屋の中の会話から璃玖の名前が聞こえたため、そのまま聞き耳を立てた。
「タクシーは捕まえた?」
隼人がなかなか呼びに来ないと、着替えも終えて痺れを切らしていた聖は、足を組んでイスに座っていた。
「外で捕まんねーから、そこら辺にいたスタッフに手配頼んできた。呼ぶのに時間かかるらしいぜ」
「あっそ。じゃあここで聞かせてもらおうか。お前は一体、璃玖君に何をしたんだ?」
聖は笑顔を浮かべながらも、明らかに怒った様子で、向かい合うように置かれた目の前の椅子を指差し、隼人を座るように促す。
恐る恐る隼人は指差された椅子に座るが、聖の笑った顔が怖く、直視できないため、視線が泳いでしまう。
「いやー…。璃玖が榛名さんのこと知りたいって言うからさ」
「言うから?」
「…。相良先輩に会わせました」
「…。お前ってやつは…」
聖は驚きよりも、隼人の直球な行動に呆れ、深い溜息をつく。
「いやぁー、話聞くならやっぱり相良先輩かなって。あっははは…」
「隼人、僕にまだ何か言うことがあるんじゃない?」
隼人の目がまだ泳いでいることに気づき、聖はさらに問いただす。
「あー…。実は、璃玖が相良先輩と言い争ってさー」
「璃玖君が?そんなことあるわけないだろ」
璃玖は泣いたり怒ったり表情がクルクル変わるものの、誰かと言い争いを、まして相良とするなんて、聖には想像がつかなかった。
「だよなー。俺も目を疑ったよ。けど、原因を聞いても教えてくれないんだよなー」
「教えてくれない?さっきから気になっていたんだけど、一緒にいたお前がなんでわからないんだ?」
「あ、っと、その…えーと…」
隼人は口が滑ったと、ばつが悪そうにする。
「お前は一体、何をしてたんだ?」
「…ナンパです」
聖に睨まれて、隼人は観念したように正直に答えた。
「馬鹿らしい…。それでどうなったんだ?」
「それが璃玖のやつ、急にホテルに帰るって言い出して、それからじーっとピアノの前で座っているんだ」
聖は一際大きな溜め息をつくと、力が抜けたようにイスの背もたれに体重を預け、腕を組んだ。
「はぁ…なんともまぁ、僕のいない間に好き放題してくれたね」
「えー。だって璃玖とは一緒に風呂入ってー、好きなように弄ってー、服着せた仲だし、よくね?」
重苦しい雰囲気を打開しようと、隼人は今朝、璃玖の髪や服の支度をしたことを、わざと含みを持たせた言い回しをして笑い交じりに言った。
「お前、反省していないだろ…」
聖は隼人の言い回しに、露骨に不快感をあらわにしたところで、ノックもなく部屋のドアが開かれた。
そこには顔色が青ざめた一樹が立っていた。
「一樹君…」
「あの…今の話は…一体」
聖は瞬時に隼人の話が一樹に誤解を与えたと気づき、慌てて組んでいた足をほどきイスから立ち上がる。
だが、立ち上がると同時に、聖は目の前が真っ暗になり力が入らず、そのまま前のめりに倒れこんだ。
「お、おい聖!」
「聖さん!」
目の前に座っていた隼人がとっさに抱き留めてくれたおかげで、聖は床に勢いよく倒れこむことはなかった。
だが、微かに名前を呼ばれる声が聞こえつつも、その声は次第に遠くなっていくように感じながら、聖はそのまま意識を失った。
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