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38.上書きされる口づけ

聖の病室をあとにすると、璃玖の手首を掴んだまま璃玖を引っ張るようにして一樹は前を歩いていく。 面会時間も終わり就寝時間となった病院の廊下は、照明が最低限になっており薄暗く、一樹の怒った様子の足音がよく響いていた。 「ねぇ…一樹…?」 「…」 一言も喋らない一樹に、璃玖は話しかけずらそうにしながらも、何度も小さな声で声をかける。 「一樹…どこいくの?」 「…」 無反応な一樹へ諦めずに璃玖は話しかけるが、それでも一樹は足を止めず、返事もなかった。 璃玖は一樹が腕を引っ張る力に抵抗するように足を止めると、ようやく一樹は璃玖へと振り向く。 だが、振り向いた一樹の顔は、まるで何か感情を抑えているように表情を消していた。 見たこともない一樹の表情に、璃玖は背筋に冷たいものを感じた。 表情を強張らせた璃玖を見た一樹は、璃玖から顔を背けてしまう。 そして「黙ってついてこいよ…」と抑揚のない声で一樹は言うと、掴んでいた璃玖の手首にさらに力を込め、引っ張るようにしてまた歩き出した。 璃玖は一樹に逆らうことも出来ず、引っ張っられるがままについて行くしかなかった。 いつのまにか聖の病室があるフロアーの端にたどり着くと、突き当たりは非常階段に続く非常口になっていた。 一樹は辺りを見渡すと、すぐ横の部屋が仮眠室と表記されていることに気がついた。 ドアノブに手をかけると、鍵がかかっておらず、そのまま部屋の中を確認する。 そこは、電気が消された畳三畳ほどの部屋で、簡易ベットだけが置かれていた。 「入れよ」 一樹は部屋の中を親指で指差し、璃玖を中に誘導する。 俯きつつも、黙って一樹の言う通りに璃玖は部屋の中へ入る。 璃玖を部屋の奥に押すようにして一樹も部屋の中に入ると、後ろ手で扉の鍵を閉めた。 扉が閉めれると、廊下から差し込んでいた薄暗い照明の光は遮断され、換気用の小さな窓しかない仮眠室は一気に暗くなった。 そんな暗さに璃玖は不安になりつつも、暗さに目が慣れてくると、やっと話が出来ると「一樹」と名前を呼んで、一樹の方を振り向く。 だが、言葉を発するために開かれた口は、すぐに一樹の唇が重ねられ、言葉を封じられてしまった。 重ねられた唇は一度すぐに離されたが、今度は角度を変え、より深く口づけをされた。 その口づけは、以前一樹と最後にしたものとは違い、まるで噛みつかれるような一方的なものだった。 璃玖は、忘れないようにしていた一樹との優しい最後の口づけの感触が、こんな形で上書きされてしまうのが嫌になり、一樹の胸元を軽く押して抵抗をした。 だが、一樹は璃玖が押す力を強めれば強めるほど、より強い力で璃玖の肩を掴んで、離そうとせず、口づけは深くなる一方だった。 「やだっ…離してってば…」 璃玖は逃れたい一心で、今度は一樹から顔を背けた。 すると、そんな璃玖の顎を一樹は手で掴み、無理やり自分に向かせると、また口づけを再開した。 「んーん!」 今度は重ねるだけの口づけとは違い、一樹の舌が差し込まれる。 まるで舌の形をなぞるようにして一樹に舌を絡めとられると、璃玖は次第に腰のあたりに走る甘い痺れを感じ始める。 久々に一樹から与えられる快楽に、璃玖の体は燻っていた熱が呼び起こされそうになっていた。 「んっ…」 一樹の貪るような口内での舌の動きに、璃玖は次第に頭がぼーっとなっていき、抵抗するのをやめてしまう。 一樹は璃玖の腰に手を回し、璃玖の体を引き寄せようにして自分に近づけると、体を密着させた。 「あっ…」 どんどん璃玖の体の力が抜けていき、一樹の支えなしでは立っていれなくなり、足がフラつき始めた。 すると、一樹は璃玖に体重をかけるようにして、後ろに置いてあった仮眠用の簡易ベッドに璃玖を押し倒す。 璃玖に覆いかぶさるように四つん這いになった一樹は、一向に口づけをやめず、璃玖は段々と呼吸が苦しくなり、一樹の背中を合図するように手のひらで叩いた。 だが、そんな璃玖の反応をまるで無視するように、口づけは離されないまま、今度は璃玖の服の裾から一樹は手を差し入れる。 璃玖の素肌に触れた一樹の手は、上昇している璃玖の体温に反してとても冷たく、その冷え切った温度と感触に、璃玖は眼が覚めるように現実に戻された。 「んーんっ!」 璃玖は夢中で首を振ることによって、やっと一樹の口づけから解放された。 「やだっ…。一樹、ちょっと待ってってば…ちゃんと話…」 「なんだよ…。なんでさっきから嫌がるんだよ…。あの隼人ってやつならいいのか…?それとも聖さんか?」 「えっ…?」 璃玖は一樹が何を言っているのか理解が追いつかず、驚いた顔で一樹の顔を見た。 僅かに差し込む月明かりの部屋で、璃玖の目に映し出される一樹の顔は、眉間にシワを寄せたまま、冷たい笑みを浮かべていた。 「αなら誰でもいいのかよ…」 (αなら誰でも…いい…?) 「ちょっと待って…一体なに言って…」 「俺以外とも…しているんだろ?」 (しているって…) 璃玖はやっと一樹の言葉を理解すると、怒りに任せて思いっきり一樹の頬を手のひらで叩いた。 「…ふざけないでよ!!」 「痛っ…」 一樹は璃玖に叩かれた頬を片手でさする。 「一樹!冗談でも言っていいことと、悪いことがあるよ!」 璃玖は一樹を睨みつけると、一樹は璃玖以上に傷ついたような顔を一瞬見せたが、その表情はすぐに怒りに変わった。 「じゃあ…さっきのはなんだよ!なんで聖さんに抱きついたり、泣いたりしているんだよ!」 「それは…」 璃玖が自ら抱きついたわけではなかったが、抱き寄せられて抵抗をしなかったことや、聖の前で泣いたのは事実で、璃玖は返答に困り、言葉に詰まってしまう。 「なあ?会ったのは昨日が初めてなんだよな?なんで、聖さんとそんな仲になってんだよ?」 「…」 璃玖は色々ありすぎた聖との出来事を、どこまで一樹に話していいか分からず、再度言葉に詰まってしまう。 「なんだよ…なんか言えよ…!頼むから…違うって否定してくれよ!」 一樹は悔しそうに、簡易ベットを思いっきり拳で叩く。 璃玖はその衝撃に驚き、目をつぶって縮こまり、顔を背けてしまう。 「頼むから…璃玖…教えてくれ。聖さんに無理やり連れ回されたり、抱き寄せられたりしたんだろ?どうせ、なんか弱みでも握られたんだろ?」 一樹の言葉で、当初は一樹のバックダンサーの降板の件で聖に脅されているような形だったことを璃玖は思い出す。 だが、最初に聖の差し出された手についていったのも、今、聖の側にいようとしているのも璃玖自身の意思であり、璃玖には一樹に嘘をついてまで、聖をこれ以上悪者にすることは出来なかった。 「…ごめん一樹。聖さんとのことは…今はこれ以上話せない。でも…一樹としたようなこと、聖さんはもちろん、誰ともしていないよ。それは誓って言える」 璃玖は嘘をついていないと伝えるように、一樹の目を見てまっすぐ答える。 だが、一樹はそんな璃玖に対して嘲笑うような笑みを浮かべた。 「なんだよ、それ…。ちゃんと訳を話せよ。そんなんで信じられると思うのか…?」 「ごめん。でも、信じてとしか言えない。あんなことしたのも…したいと思うのは一樹だけだよ」 「そんなの信じられるかよ…」 「ごめん…」 「謝んなよ。俺が悪者みたいだろ…」 璃玖の顔の横についた一樹の腕は、怒りなのか悔しさからなのか、拳を強く握り、小刻みに震えていた。 一樹の腕の長さの分だけしか璃玖との距離は離れていないはずだったが、璃玖には一樹の心がとても遠くにあるように感じた。 (一樹に隠し事をして追い詰めて、こんなに苦しめてしるのは僕なんだ…) 璃玖はそう考えると胸が締め付けられ、これ以上言葉が出てこなかったが、一樹から目を離そうとしなかった。 昨日、伊織と一樹のダンスを見て感じた疎外感。 聖の願いを叶うために曲を作ること。 引き換えに聖が与えてくれると約束してくれたもの。 一樹にすべて話してしまえば楽になるかもしれないが、すべて否定され反対されてしまうことは目に見えていた。 昨日までの璃玖なら、おそらく一樹にすべてを話してしまい楽になる方を選んでいた。 一樹の後ろを追いかけることだけに必死になる日常。 だが、璃玖がこれから一樹となりたいものは、聖と隼人のようなお互いに本当に実力を認めあった対等な関係だった。 このままでは何も成長出来ないことを、璃玖自身、もう気が付いていた。 璃玖が視線を外さないことで一樹は何を言っても無駄だと思い、深い溜め息をついた。 「話す気はないんだな…」 「ごめん…今は…。聖さんのコンサートが終わったらちゃんと話すから」 「あっそ…。わかったよ。聖さんのほうが大事なんだな。じゃあ俺は伊織と…」 言いかけて、一樹は口を紡ぐ。 「伊織…君?伊織君と…何…?」 「伊織と…。デビューを目指すことを選ぶ…」

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