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42.気持ちの整理
「ほら、璃玖君。こんなとこで寝たら風邪ひくよ」
「んっ…聖さん…」
璃玖はピアノの鍵盤の蓋に伏せるような形で眠ってしまっており、聖に声をかけられて目を覚ました。
「頑張ってくれるのは嬉しいけど、身体壊したら元も子もないよ」
「それ、倒れた聖さんが言うんですか?」
「おっ、璃玖君も僕に対して言うようになったね」
聖は璃玖の髪をかき乱す様に、乱暴に頭を撫でた。
その仕草は一樹に初めて声をかけた時に撫でられた感触に似ていて、璃玖は聖を一樹と重ねてしまう。
(一樹…)
まだ心の中で名前を呼ぶだけで胸が締め付けられる璃玖は、自然と暗い表情になってしまう。
そんな璃玖の表情の変化に聖は気づくと、璃玖の両頬を軽くつまんだ。
「ははっ、璃玖君、ほっぺたやわらかいね」
「いひゃいれす…」
さらに引っ張り、璃玖の頬の柔らかさを堪能すると、聖はやっと手を離した。
「あー、おもしろかった」
「もう…」
引っ張られた自分の頬を撫でながら璃玖は聖の顔を見ると、楽しそうに笑っていた。
一樹と何かあったことは明らかであるのに、聖はあえて詮索しないでいてくれた。
昨晩、璃玖は逃げ込むように聖の病室に戻ると、足元から崩れるように座り込んでしまったが、
聖が尋ねても、璃玖はただ黙って首を振るだけだった。
すると、聖は「帰ろう」とだけ言って、医師や隼人の制止も聞かずそのまま退院してしまった。
「聖さん、もう体調は大丈夫なんですか?」
「璃玖君が無理やり寝かしつけてくれたからね。おかげでぐっすり眠れたよ」
「そうでもしないと、聖さん休まなかったじゃないですか」
隼人とマネージャーと別れホテルに戻ったはいいが、聖は何やら事務作業を始めようとしたため、璃玖はベットルームに聖を無理やり押し込み、休ませたのだった。
「璃玖君は何か飲む?」
「あっ、ミネラルウオーターいただけますか?」
「オッケー」
そう言って聖は冷蔵庫からミネラルウオーターを取り出し、璃玖に投げて渡した。
「ちょっと部屋に行ってきますね」
璃玖は受け取ったミネラルウオーターを握りしめ、自分の部屋に戻ると、日課の発情期抑制剤を飲み、リビングルームに戻ってきた。
戻ってくると、バーカウンターで聖がコーヒーを淹れる準備をしていたため、璃玖はピアノの椅子に座って、聖のテキパキとした無駄のない所作を見つめた。
「聖さんって…その…隙がないですよね。なんでも出来ちゃう感じ」
「そう?僕も人間だから苦手なことあるよ。倒れるしね」
「たしかにっ」
聖と璃玖は和やかな雰囲気で笑い合うと、璃玖は相良が話していた聖の昔の様子を思い出す。
「相良先生が言っていたんですけど、聖さんは昔はぶっきらぼうだったって本当ですか?」
「昨日、そんな話まで聞いたんだ」
「あっ、いや、えっと…」
「いいよ、別に気にしないで。本当だよ。好きでこの業界に入ったわけでもなかったしね。でも、僕と違って相良先輩はなんにでも全力で…。色々あったけど、あの人からは本当にたくさん学んだよ」
相良の話をする時は、いつもどこか苦し気な表情をしていたが聖だったが、この時の聖は、璃玖には違って見えた。
それは、聖に何か気持ちの変化があったからなのか、それとも昔すぎる話のせいなのか、璃玖にはわからなかった。
だが、どこか懐かしむように穏やかな表情に璃玖には見えた。
「聖さんは…。相良先生と同じように、僕に教えてくれようとしてくれているんですか?」
「それはどうだろうね。あの人のは善意だろうけど、僕のは…ね」
「善意…じゃないんですか?」
「さぁ、どうだろうね。さて、そういえば曲の進捗はどう?こんなとこで寝ちゃうくらいだからさぞかし…」
「うぅ…。聖さんの意地悪…」
相良と別れ、聖が入院したことを知らされるまで璃玖はピアノには向かってはいたが、書くべきものは決まっているのに、どう書いていいのかがわからない状態だった。
聖をベットルームに押し込んだ後も、榛名の残した歌詞をじっと見つめたが、頭に浮かぶのは一樹とのやりとりばかりで、とても曲や歌詞が浮かんでくる状況ではなくなってしまっていた。
仕方なく、気持ちを切り替えようと、鍵盤の蓋を閉じ、視界を遮ろうと伏せていたら、いつのまにか寝てしまって朝を迎えてしまっていた。
残された時間を考えると無駄に出来る時間もなく、纏まりかけていたイメージが時間が経過するにつれて遠のいてしまいそうで、璃玖も焦りを感じていた。
「わかっているよ。難しいこと頼んでいるんだし、まぁ、楽しんで作ってよ」
「楽しんでって…」
聖の曲を作るというだけでも恐れ多いことなのに、榛名の想いまで背負って考えなければならないと知った今、璃玖には荷が重く、とても楽しめる余裕はなかった。
「僕は璃玖君が作った曲なら、なにも文句は言わないよ」
「それはプレッシャーですか?」
「ううん、違うよ。期待…いや、確証だよ。璃玖君なら絶対できる」
聖にはっきりと断言されると、璃玖は不思議と出来てしまいそうな気持ちになる。
だが、やはり今は目を閉じると、頭に浮かんでくるのは思いつめた一樹の顔だった。
一樹とデビューするために聖から学ぼうとしているのに、一樹との約束を破棄してしまっては意味がないことは璃玖自身もわかっていた。
Ωだからと差別をしない一樹があんなことまで考えてしまったのは、自分のせいであったと璃玖は反省していた。
素直に謝ってしまいたい気持ち。
誰にでも触れさせると思われながら触れられて、感じてしまった情けない気持ち。
伊織の嘘を信じた、一樹に裏切られたような気持ち。
様々な感情が鬩ぎあい、璃玖はまだ気持ちの整理がつかなかった。
「ねぇ、璃玖君。僕と気分転換に行こっか」
璃玖が俯き黙り込んでしまった様子に気づき、聖は明るく提案する。
「えっ、聖さんと?」
「なに、嫌なの?」
「違いますよ!でも、お仕事は?」
「今日は完全オフなんだ。週末まで隼人も来ないし、僕、暇なんだよね」
病院から帰ってきてすぐに事務作業に取り掛かろうとしていた聖に、無駄な時間があるわけもなく、自分のことを心配してくれているからだと璃玖も気づいた。
そのため、聖の提案に気が引けてしまう。
「でも、僕は早く曲を作らないと…」
「この時点で何も浮かんでないんだから、これから同じように取り掛かっても結果は変わらないんじゃないかな?時間の無駄だと思うよ」
淹れ終えたコーヒーのカップを鼻に近づけ、微笑みながら香りを楽しんでいる聖に痛いところを突かれ、璃玖は言葉に困ってしまう。
「うぅ…でも…」
「良いところに連れて行ってあげるから」
「良いところ?」
「そう、僕のとっておきにね。ほら、とりあえずシャワー浴びておいで。ルームサービス頼んでおくから、朝食食べたら出かけよう」
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