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44.聖の歌

「お待たせ。ちょうど、昔、練習に使っていたのが残っていたよ」 聖はCDケースを片手に持って、音楽スタジオに戻ってきた。 「僕は何かすることありますか?」 「うーん、特には。とりあえず座ってて。僕はちょっと、歌う準備するから」 CDケースを机に置くと、椅子に置いていたカバンから聖は水筒を取り出し、中身を飲み干した。 「コーヒーなら、僕、買ってきますよ」 「大丈夫だよ。これ、中身はぬるま湯なんだ。歌う前には必ず飲むようにしているんだ」 「あっ、それ相良先生が言ってました。喉を温めるって」 以前レッスン時に、声を使う前や最中の水分補給はぬるま湯がいいと、相良が言っていたことを璃玖は思い出す。 「そうそう、相良先輩直伝。ほんとに効くのかはわからないけど、もう習慣なんだよね」 そう言って聖は、今度は身体を伸ばしたり、ひねったりして簡単なストレッチを始めた。 そのストレッチもすべて、璃玖が相良の発声レッスンで教わっているものだった。 相良と聖は同じスターチャートの研修生であったのだから、同じ動作をしていても不思議ではなかったが、璃玖には二人の関係が垣間見れて、少し嬉しくなった。 「何、ニヤニヤしているの?」 璃玖が自分のストレッチを見ながら顔をほころばせていることに、聖は不思議に思う。 「聖さんて、スターチャートの先輩なんだなーってシミジミ思ったんです。そういえば、隼人さんが相良先生を先輩って呼んでいるのって何故ですか?学校が同じだったとか?」 「何故って…隼人も研修生だったからだよ」 「えっ?」 璃玖は思いもよらなかった事実に、つい驚いてしまう。 「あれ?言ってなかったっけ?隼人も一応は璃玖君の先輩だよ」 「そうだったんですね!でも、何で今まで気づかなかったんだろう…」 思い返してみれば、隼人が研修生であったっと考えるのが自然だったが、出会った時に聖専属のヘアメイクアーティストと紹介されていたため、璃玖は考えもしなかった。 聖と一緒にいたせいで感覚が麻痺してしまったが、隼人もかなりの美形であり、モデルや俳優でも十分納得するルックスの持ち主だった。 「あのデカい図体からじゃ、アイドル目指していたなんて発想も出てこないでしょ。昔は僕より小さくて可愛かったのに…。本当に詐欺だと思ってるよ」 呆れた様子で溜め息混じりに聖が言うため、璃玖はついつい笑いがこぼれてしまう。 「聖さんって、本当に隼人さんには容赦ないですよね」 「そう?まあ、腐れ縁だからね。さて、身体も温まったし、あとは…」 聖は机に置いていたCDケースから、レーベル面に何も書かれていないCDを取り出し、機械にセットした。 そして、たくさんのボタンを惑うことなく操作して、何やら細かい調整を始めた。 「聖さん、ここの機械もいじれるんですか?」 「趣味程度にね。言っただろ、ここで練習していたって」 璃玖には何を操作しているのか全くわからなかったが、これから聖の歌が聴けると思うと、心躍る反面、聖の想いを直接聞くことに、次第に緊張してきていた。 聖は設定が終わったのか、璃玖にヘッドホンを差し出す。 「はい、これ。音楽は小さくして、僕の声がしっかり聞こえるように調整してあるから、堪能してね」 「はい…」 璃玖は緊張を隠そうと、聖からヘッドホンを満面の笑みで受け取った。 だが、聖には隠せるわけもなく、心配そうな顔で聖は璃玖を見つめる。 「ねぇ、璃玖君。本当に聴くの?」 「えっ…?」 「最初に忠告したけど、今の璃玖君には…」 「…いえ、聴きたいんです。聖さんの当時の想い、僕に聴かせてください!」 (相良先生に届かなかったけど、榛名さんは知っていた想いを…) 璃玖は受け取ったヘッドホンを握る力を強め、聖をまっすぐ見つめた。 「わかったよ…。じゃあ、僕とひとつ約束してくれるかな?」 「約束…ですか?」 「そう、絶対に泣かないって」 そう言って、聖は璃玖の目元を、人差し指で涙を拭う素振りをした。 (泣かない…) 「泣かな…ければいいんですね」 「うん。璃玖君は感情移入しすぎるからね。僕のために泣いてくるのは嬉しい。でも…ごめん、約束して」 璃玖は、何故そんな約束を求めるのか理由を尋ねそうになるが、その言葉は出さずに飲み込んだ。 それは、聖がどこか切なそうに笑っているように璃玖の目には見えたためだった。 「わかりました。約束します」 「じゃあ僕が合図したら、これとそれの順番でボタン押して、ヘッドホンつけてもらっていい?」 聖は機械を指差して、ボタンの操作方法を璃玖に伝えた。 「わかりました」 璃玖が頷くと、聖は録音ブースの明かりをつけ、中に入っていった。 そして、真ん中に置かれたマイクから少し離れた場所に聖は立つと、防音ガラスで璃玖には聞こえなかったが、発声練習を始めたように見えた。 しばらくその様子を璃玖は見つめていると、聖はマイクの前に立ち、ヘッドホンをつけた。 すると、聖の顔つきは、テレビや雑誌で見かけていた芸能人のHIJIRIの顔になっていた。 聖は一呼吸おくと、璃玖を見つめ、軽く頷いた。 聖に言われた順番通りに璃玖はボタンを押して、ヘッドホンを装着した。 ヘッドホンから流れてきたのは、たしかに聖のデビュー曲で、母に聴かされていた影響で、璃玖も歌詞を見なくても口ずさめるぐらい、よく知っているものだった。 だが、イントロが終わり、聖の歌声が聴こえてくると、今まで聴いていた曲とは違う印象を璃玖は受けた。 聖の歌声を生で聴くのはもちろん初めてであったが、その圧倒的な歌唱力とは別に、聖の声と歌詞が、まるで璃玖の中を血液のように流れていくように感じられた。 その感覚を吸収するように、璃玖はそっと目を閉じた。 好きという気持ちをずっと秘めたまま、伝えられずに終わってしまった恋の歌は、今はもう、切ないという言葉だけでは言い表せないものだった。 (この聖さんの想いを…相良先生は知らないなんて…) そんなことを考えると、また昨日のように涙が溢れそうになるが、璃玖は聖との約束を思い出し、必死に堪えた。 そして、聖から生まれる一音一音を逃さないように、全神経を耳に集中させた。 (この歌詞の意味を榛名さんもわかっていたんだ。だから…) 璃玖の中で霧が晴れたように、モヤモヤしていた感覚がなくなると、璃玖は目をゆっくりと開けた。 途端に、璃玖の頭の中にフレーズや曲のイメージが次々と湧いてきた。 「心を寄せる、結ぼれる…」 聖が歌っている途中だったが、足元に置いていたカバンからルーズリーフとペン、そして榛名の残した書きかけの歌詞を取り出した。 榛名の書きかけの歌詞を、目の前の機械に立てかけて置くと、璃玖は無我夢中でペンを走らせた。 耳からは聖の歌声が聴こえていたが、それ以外の感覚はすべて塞がったかのように何も感じず、ただ、次から次へ溢れ出す言葉を、一粒もこぼさないようにだけ集中した。 (きっと、榛名さんは相良先生に…) 「璃玖…君?」 いつのまにか歌い終えた聖が録音ブースから出てくるが、璃玖は全く気づかない様子で、目の前のルーズリーフにただひたすら言葉を書き続けた。 数分、数時間、どれほど時間が経過したかわからなかったが、璃玖はやっとペンを置き、力が抜けたように椅子の背もたれに寄りかかった。 すると、璃玖から離れた場所に座っていた聖が、そっと璃玖に近づいてきた。 「聖さん…」 「どう?出来た?」 「なんとか…。聖さん、僕、下手だと思うんですが…聴いてくれますか?」 「歌って…くれるの?」 璃玖はゆっくりと頷いた。 「僕の歌…いえ、榛名さんの気持ち、聴いてください」

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