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46.好きの理由
璃玖は黙って、出来上がった歌詞が書かれたルーズリーフを持って、録音ブースに入っていった。
初めて入る録音ブースは、ドアを閉めると、空気の流れが遮断されたように驚くほど無音だった。
まるで世界に一人とり残されたかのような感覚になる不思議な空間は、璃玖の集中力をさらに高めた。
璃玖は書き終えた歌詞を譜面置きに置き、もう一度歌詞を見直すと、深呼吸をした。
機械の調整を終えた聖が顔上げると、璃玖と防音ガラス越しに目が合ったため、どちらからともなく頷き合った。
(榛名さんの想い…)
出来上がった歌詞は、璃玖の頭の中にある程度入っていたため、聖、そして相良に想いを伝えることだけに集中をしようと璃玖は決めた。
そのまま璃玖は目を瞑り、榛名の気持ちを代弁するつもりで歌い始めた。
歌い出しは、榛名の書いた歌詞そのままで、自分を忘れないで欲しいと書き綴られているものだった。
璃玖はそこで止まっていた歌詞に、自分で書き足した歌詞を歌い続けた。
(榛名さんは相良先生に忘れないで欲しいと願った…。けど…)
璃玖が辿り着いた答えは、相良の記憶の中で生き続けさせて欲しいけれども、前に進んで欲しいというものだった。
(本当に手にしたいものは、手を離してはいけない)
相良が本当に手にしたいもの、それは聖だと、だから後ろを振り向いてもいいのだと、璃玖が感じた、榛名が自分からは決して言い出すことが出来なかった想いを、気持ちを、璃玖は歌詞で表現した。
「ありがとう…璃玖君」
聖は璃玖の歌を聴きながら、そっと呟き、目を瞑って息を吐いた。
正直、聖自身、榛名が何を伝えたかったのかは大方の予想はついていた。
だが、璃玖に代弁してもらうことによって、まるで肩の荷が降りたように、歌詞の内容をすんなり受け入れることが出来た。
瞑っていた目をゆっくり開けた聖は、何かを決意したかのように、険しい表情に代わり、ヘッドホンから聴こえる璃玖の歌を歌詞だけでなく、全体に集中した。
璃玖の歌声は、まだ粗削りであったが、優しく透明感がありながらも、どこか強いものを聖は感じた。
璃玖が届けたいと想う気持ちは、十分に歌詞の内容だけでも伝わってきたが、それ以上に、聴く人を自分の世界に吸い込み、メッセージを届ける不思議な魅力が璃玖の歌にはあった。
その力は、聖が初めて璃玖と出会った時に聴いた曲とは比べ物にならないもので、聖自身、ここまでの曲を璃玖が完成させるとは、正直思ってもみなかった。
聖はヘッドホンから流れる今書き終えたばかりとは思えない曲に、次第に鼓動を感じていた。
(終わった…)
息も絶え絶えで、うっすらと汗を浮かべた璃玖は、何とか最後まで歌い終わると、ヘッドホンを外した。
すると、安心してしまったのか、身体から力が抜け、璃玖はその場に座り込んでしまった。
その様子が防音ガラス越しに見えた聖は、ヘッドホンを投げ捨てるように外し、急いで録音ブースのドアを開け、璃玖に駆け寄った。
「大丈夫?璃玖君」
「聖さん…。僕、なんだか力が抜けちゃって…あははっ」
璃玖は慌てた様子の聖を安心させるため、笑顔を向ける。
「璃玖君…」
聖は何故か一瞬戸惑ったような表情を見せたが、すぐにいつものように笑みを浮かべ、璃玖に手を差し出した。
聖に差し出された手を璃玖はとると、力をこめて聖は引っ張りあげるが、璃玖は足に力が入らず、璃玖の身体は聖に寄りかかるようになってしまった。
すると、聖の胸の鼓動が急に高鳴った。
「ごめんなさい聖さん!」
璃玖は急いで聖から離れようとするが、聖は璃玖の背中に腕を回し、夢中で璃玖を抱きしめた。
「えっ…。聖さん…」
何故、自分が聖に抱きしめられているのか璃玖は理解出来ず、狼狽えてしまうが、いつもの冗談だと思い、すぐに聖の胸板に手をついて押し返そうとする。
「もう、聖さんってば、誰かに見られたら誤解されますよ。それに僕、汗が…」
思っていた以上に硬い聖の胸板を、璃玖は押し返そうとするが、それ以上に抱きしめてくる腕の力は強まり、聖から離れることが出来なかった。
璃玖を抱きしめてくる力は、まるで逃げることも許さないと言わんばかりの強い力で、璃玖は次第に痛みと息苦しさを覚えた。
「聖さん、痛い…です」
璃玖の訴えに聖はハッとした様子で、すぐに腕の力を緩め、璃玖を解放した。
「あっ、ごめん。ちょっと、ぼーっとしていたみたい」
(もしかして、これって…)
璃玖は以前、一樹が二人っきりの朝練で同じような状態になったことを思い出す。
(でも、なんで…。あの時はまだ、抑制剤を飲んでいなかっただけのはずじゃ…)
次第に璃玖の心は不安に苛まれていった。
以前、一樹が我を忘れるように璃玖を求めたのは、発情期は来ていなかったが、抑制剤を服用していなかったため、なにかしらの自分のΩフェロモンが一樹に作用したのだと、璃玖は仮説として考えていた。
だからこそ、毎朝欠かすことなく抑制剤の服用していたが、その仮説では今起きた聖の状況が説明出来なかった。
(やっぱり、僕はお祖母様と一緒で抑制剤が効かないんじゃ…)
一番恐れ、心配していたことが現実味を帯びてきて、璃玖はさらに不安に襲われた。
指先のかすかな震えと背筋に冷たいものを感じるが、璃玖は聖に悟られまいと、必死に平常心を装い、笑みを浮かべた。
「聖さん、僕…喉乾いちゃって。ちょっと飲み物とってきますね」
兎にも角にも、聖から距離を取ろうと、璃玖は録音ブースから出ようとするが、聖に手首を掴まれてしまう。
「待って、璃玖君!」
「…!離してください!」
璃玖は咄嗟に、聖に掴まれた手首を思いっきり払いのけてしまった。
「璃玖…君?」
「ごめんなさい、聖さん。でも…でも…」
自分のしてしまったことに璃玖は聖以上に驚くが、余裕がなく、言葉が続かないまま、聖をまるで縋るように見つめた。
すると、聖は優しく微笑むと、首を横に振った。
「それ以上何も言わなくてもいいよ。ただ…その涙は一体誰のため?」
聖に指摘されて、璃玖は自分の頬を手のひらで触ると、初めて涙をこぼしていることに気がついた。
「これは…」
「璃玖君、僕はね…。昨日、僕のために流してくれた璃玖君の涙が、とても綺麗で…愛おしいと思ったんだ」
「愛お…しい…?」
「そう。僕は、璃玖君の本当にすべてを手に入れたくなったんだ」
「えっ…?」
聖の言っている、すべてという意味が分からず、戸惑ってしまうが、以前、聖が璃玖の作る曲が欲しいと言っていたことを思い出す。
「欲しいのは僕の曲が…ですよね?もう、聖さんはいつも言い方が紛らわ…し…い…」
いつものように冗談を言っているのだと思った璃玖だったが、聖の顔はあまりに真剣だったため、目が離せず、璃玖は言葉の語尾がたどたどしくなってしまう。
「僕は一樹君と、同じ意味で璃玖君を手に入れたいんだ」
「そんな、冗談…ですよね?」
璃玖には聖の告白がどうしても信じられず、唾をグッと飲み込んだ。
だか、聖は先ほどのように、ゆっくりと首を横に振った。
「本気なんだ。少しだけでいいから、座って、落ち着いた状態で僕の話を聞いてくれる?」
聖の諭すような提案に、璃玖は視線を床に落とし躊躇するが、そのまま黙って頷いた。
「ありがとう。じゃあ、あそこに座ろう」
そう言って、聖は録音ブースの後方に並んで置かれていたパイプ椅子を指差すと、端の席に座った。
三つほど並んで置かれていたため、璃玖は念のため聖と距離を取るため、一つ開けて座ることにした。
その距離感に違和感を感じているはずなのに、聖はそのことには触れることなく、淡々と話始めた。
「僕は璃玖君の…恋人になりたいんだ。でも、さっきみたいに触れて欲しくないなら、今後一切僕からは触れないって約束する。それでも…璃玖君とは一緒にいたいんだ」
「こい…びと…って…。聖さん、何を言って…。だって今までそんなこと…。それに、相良先生は?聖さんは相良先生が好きなんですよね?だから歌を届けるんですよね?」
「あの人には…もう、届かないんだ」
「えっ…?」
「まぁ、元々届けるつもりもなかったんだけどね」
聖は冗談を言うように、悪戯な笑みを浮かべた。
「それって…。だって、聖さんがコンサートまでに曲を作ってくれって…。それって、相良先生に聴いてもらうつもりだったからですよね?」
当時、相良に聖の想いを届けることが出来ず、結ばれることがなかった二人が、曲が完成することによって、スタートラインに立てると璃玖は信じて疑わなかった。
だからこそ、聖に今、告白されていることが、璃玖にはとても信じられなかった。
「あの人は…来ないよ」
「来ない?そんなはず…」
「今日、海外に出発するはずだから…。今頃、飛行機の中かな」
聖は腕時計に視線を落とし時刻を確認すると、肩をすくめた。
「海外…?そんな…。で、でも、コンサートまでには帰ってくるんですよね?」
璃玖の必死な質問に、聖は目を瞑って、黙って首を横に振った。
「そんな…」
璃玖はせっかく作った曲を聴いてもらえなかったことよりも、聖の歌がまた届けることが出来なかったことが悔しくてたまらなかった。
「璃玖君は何も気にしないでいいよ。榛名さんがなんと願っても、僕は元々、相良先輩とどうこうなるつもりは、初めからなかったんだから」
「でも、聖さんは相良先生が今でも好きなんですよね?」
嘘をつかれたくないと、璃玖は聖の顔をじっと見つめた。
だが、聖は表情一つ変えることなく、冷たく言い放つ。
「さっきも言った通り、相良先輩と今更どうこうなるつもりはないよ」
璃玖には、それでもまだ聖の言葉が信じられず、聖に食い下がった。
「そんなの…嘘です。だって…。だって、あんなに相良先生の話をする時、辛そうにしていたじゃないですか?」
「全部、演技だよ」
「…っ」
聖は、また表情を変えなかった。
璃玖はまるで裏切られたように、ショックで頭の中が真っ白になり、いてもたってもいられず、思わず俯きながら立ち上がった。
「騙してごめんね」
俯いているため、聖の表情を確認することは出来なかったが、いつもの不敵な笑みを浮かべる声色にしか璃玖には聞こえなかった。
「でも…。じゃあ、なんで、僕にわざわざ曲作りをさせたんですか?」
「それは、璃玖君の実力を知りたかったからなんだ」
「僕の…実力?」
璃玖は顔を上げ、聖を横目で見ると、聖はゆっくりと立ち上がり、璃玖と距離を保ちながらも璃玖の目の前に立った。
「一樹君ってさ、璃玖君と同じように好きなのかな?」
「聖さん…。それは一体、どういう意味ですか…」
聖の言葉に、璃玖が心の奥底に隠していた不安が掘り起こされ、まるで駆けあがってくるかのように鼓動を早くさせた。
「そのままの意味だよ。彼が好きなのは璃玖君自身なのかな?それとも璃玖君の作る曲が欲しくて好きなのかな?」
「なにを言って…」
考えたくなかったことを言い当てられてしまい、璃玖は明らかに動揺してしまう。
「どう?そうじゃないって、璃玖君には言い切れる?」
「それは…」
違うと大きな声で言い切りたかったが、璃玖には曲作り以外に一樹に返せるものがなく、むしろ、Ωの自分の存在が一樹の足手まといでしかないと、また思ってしまっていた。
璃玖は頭を抱えるようにして、パイプ椅子に座りなおした。
「ねえ、璃玖君。一樹君と伊織君には今後の僕のツアーに付き合ってもらおうって考えているんだ。この意味、璃玖君ならわかるよね?」
「聖さんのツアーに…」
聖のツアーに参加し続けるということは、それは一樹が聖の間近でダンスを学べるチャンスであることに違いなかった。
そのため、璃玖には選択肢は残されていなかった。
璃玖は、目の前に立つ聖を見上げると、聖はいつものように微笑んでいた。
「やっぱり璃玖君は賢いね」
「聖さんは…いつから僕を騙していたんですか…?」
「最初に言ったよね。僕は欲張りなんだ。欲しいものはすべて手にしたいんだ」
「…。わかりました。一樹のこと、よろしくお願いします」
「言っておくけど、璃玖君にも頑張ってもらうよ」
「えっ?」
「まずは週末、僕のコンサートの舞台に立ってもらうよ。さっき完成した曲でね」
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