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49.罠

「ほら、さっさと入って」 「…」 「もう一度言わないと分からないかなー?さっさと入って」 男は部屋の扉を開けて、璃玖を中に入るよう促した。 観客席から璃玖が男に連れてこられた場所は、誰もいない控え室だった。 明かりのついていた部屋の中には、中央に長机が四つ集めて配置されていて、入り口から見て右部分は、着替え用のものと思われるカーテンが引かれ、部屋が区切られていた。 その他には、パイプ椅子やスタンドミラーが配置されているぐらいで、特に目立った物もなく、荷物が置かれていないことを考えると、今日は使用しないのか、または予備のようだった。 (この人に、言われるがままついてきちゃったけど…。これってすごく危険…だよね…。でも、さっきの顔…。この人なら、冗談じゃなく、本当に一樹にケガをさせそうで…) 璃玖は、先ほど口内に指を入れられた時の男の顔を思い出し、鳥肌が立つ。 璃玖の苦しむ顔を見ながら、口元は笑いながらも、冷たい目をしていて、それは狂気のようなものに璃玖には感じられた。 「そんなに警戒しなくても、ただ、お話するだけだよ。ほら、俺の休憩時間終わっちゃうから、早く入って」 男は、時間がないことをアピールするように、わざとらしく璃玖に腕時計の文字盤を指先で叩いて見せた。 (この廊下、さっきから見ているとスタッフの人の行き来も多いみたいだし…。部屋の中から大声を出せば、誰かしら助けに来てくれるはず…。それならここは…) 決心した璃玖は、唇を噛み締めて、無言で部屋に入っていった。 「お、いい子、いい子」 そのまま、部屋の中央まで璃玖は歩いていき、振り向くと、男は入り口付近の壁に寄りかかり、璃玖に向かって満面な笑みを浮かべていた。 「ほら、安心して。鍵はかけてないから」 男はドアノブを指差すと、鍵がかかっていないことを璃玖に見せつけた。 (逃げるのは自由…てことかな…。でも、それじゃあ一樹が…) 不安と恐怖で、璃玖の胸の鼓動は早くなり、手の指先は冷たくなっていた。 次第に、つま先で立っているかのように不安定に感じる足元は、震えそうになっていることが原因だと気が付くと、璃玖は決して男に悟られまいと、足に力を込めた。 そして一呼吸置き、男を睨みつけると、虚勢を張って、平然な態度を装った。 「それで…何が望みなんですか?」 「別に俺は、君とゆっくり…楽しくお喋りしたいって思っただけだよ」 「ゆっくりって…。それなら、コーヒーでも買ってきましょうか?でもさっき、時間がないって言ってましたよね?」 「いいねー、その強気な態度。やっぱり、そうじゃなくっちゃ。まあ、俺はゆっくり話したいんだけど、本当に時間がないんだよね。なんていったって、このままだと君の愛しの一樹君が、突き落とされる時間になっちゃうからね」 男は笑みを浮かべたまま表情は変えずに、璃玖の耳を疑うことを淡々と言った。 「突き…落とされ…る…?」 信じられない男の発言に、璃玖は取り乱してしまいそうになるが、男に隙を見せてはいけないと、必死に動揺を隠した。 「ちょっと待ってください、そんなこと出来るわけ…。僕を揶揄っているんですよね?それに愛しのって…。僕と一樹はそういう…」 「いいよ今更、誤魔化さなくって。一樹のために聖さんに取り入って、一樹をバックダンサーに抜擢させてあげるなんて、君って本当に健気なんだね」 (取り入る?一樹のため…?一体、この人は何を言って…) 訳が分からない男の話に、璃玖は頭の中が混乱して、言葉が出なくなってしまう。 「まあ、実力だけじゃやっていけない世界だけど、真面目にやっている僕たちは、おもしろくないんだよね…。そんなわけで、君の名前で一樹をある場所に呼び出してあるんだ」 「僕の名前で?」 ふと、璃玖は一樹から届いた『会いたい』というメッセージが頭に浮かび、一樹は疑いもせずに呼び出された場所に向かってしまうのではと、胸中が騒めいた。 「明日のステージで使うセットが倉庫に搬入され終わっているんだけど、もう、見た?」 「見て…ないです…」 ここ数日、聖と顔も言葉も交わさなかった璃玖は、自分がどんな風に歌うのか、聖のコンサートの演出や構成さえ全く知らなかった。 「なんだ、知らないのか。それは、残念。そのセットって、急勾配の階段作りになっているんだよね」 「階段…。まさか、そこに一樹を…」 璃玖は、ゴクリと唾を飲み込んだ。 「そうそう。結構高さのあるセットだからさー。落ちたら…まあ、運動神経はいいから、命は大丈夫だろうけど、かすり傷ぐらいじゃすまないだろうねー。運悪く、アキレス腱なんて切ったら…。今後、踊れなくなるかもね」 (一樹が…踊れなくなる…) その言葉を聞いた途端、璃玖の身体から、スッと血の気の引く感覚がした。 「そんな…嘘…ですよね?いくらなんでもそんな…。だいたい、僕は聖さんに取り入ったっていうのも誤解ですし、それに一樹に本当にそんなことして、許されるわけ…」 信じられないというように璃玖は首を振るが、男はさらに笑みを浮かべ、肩を竦めた。 「一樹が踊る曲ってさぁ、元々聖さんがソロでやるはずだったんだよね。それが、そんな理由でしゃしゃり出てきた奴に踊られるのってさぁ…。面白く思わない奴は、多いんだよね。しかも、一樹が降板すれば、自分にチャンスが巡ってくるかもしれないからねー。だから、足を滑らせてましたって、何人も証言すれば…」 「黒を白に変えられるってわけですか…」 「ご名答。さあ、残り時間はあと五分。嘘だと思うなら、一樹に電話をかけてみなよ。きっと、もう繋がらないから。あの倉庫は壁が厚くて、電波悪いからね。もちろん、俺の話が嘘なら、一樹も休憩中だから、電話は繋がるはずだけど」 璃玖は急いでパーカーのポケットからスマホを取り出すと、震える指先で必死に操作して、一樹に電話をかけた。 (嘘だよね、一樹…。お願いだから繋がって…!) しかし、璃玖の叫びは届かないかのように、電話はコール音もならず、すぐにかけなおし依頼のアナウンスが流れるだけだった。 「いつ…き…」 (僕のせいで…一樹が…) 璃玖は、自分が招いた誤解のせいで一樹が怪我をしてしまうと思った瞬間、目の前が暗くなるような感覚に陥り、足元がふらついてしまうと、横にあった長机に思わず手をつき、なんとか倒れずに済んだ。 (一樹に…知らせないと!) ここから全力で走っても、場所も知らない倉庫まで五分という時間で辿り着けるとは思えなかったが、それでも何もしないよりはまだいいと思った璃玖は、すぐに走り出そうとする。 だが、即座に男が入口のドアの前に立ちはだかり、行く手を阻まれてしまった。 「そこを退いてくださいっ!」 璃玖は男の服に掴みかかり必死に退かそうとするが、体格差は歴然で、男はびくともしなかった。 そのまま、璃玖は諦めずに何度も男の服を全力で引っ張ったりしたが、ただ時間が過ぎていくだけだった。 「ほら、もうすぐ時間だよ」 涼し気で楽しそうに笑う男の言葉に、璃玖は刻一刻と迫るタイムリミットとともに追い詰められると、膝から力が抜け、崩れるように跪くと、男を見上げるようにして懇願した。 「お願いですから、退いてください…。僕は何をされても構いません。でも、一樹だけは…」 すると、男は今までで一番不敵な笑みを浮かべると、璃玖の顎を掴んで、まっすぐ目を見つめた。 「本当にいい顔するよね、君って…。なんだか思い出して、我慢がきかなくなりそうだよ…。それじゃあ、可愛い君に免じて、救済措置をあげようかな」 「救済…措置…?」 男は、璃玖の顎から手を放し、自分のスマホをポケットから取り出し、何やら操作し終わると、座り込んだままの璃玖に画面を見せた。

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