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52.伊織の怒り
「えっ…でも、そんなことしたら…」
不破の囁いた言葉に、伊織は少し戸惑ったように驚いた顔をした。
「でも、お姫様は璃玖君に消えて欲しいんでしょ?だったらそれぐらいしないとー」
後ろから伊織を抱きしめたままの不破は、伊織の色素の薄いさらさらの髪に顔をうずめた。
そして、まるで感触を味わうように、そのまま伊織の耳や首筋に啄むようなキスを、何度も落としていった。
「んっ…それもそうなんですけど…」
間近で感じる甘い吐息と、溶けそうに潤んだ瞳の大人びた伊織の表情に、璃玖はいたたまれなくなり、顔を背けた。
そんな璃玖の様子を、まるで自分のほうが格上だと嘲笑うように、伊織は口角を上げ、さらに見せつけるように、不破の首に伊織は手を回す。
すると、不破は楽しそうに、今度は伊織に回された腕を舌先でじっとりと舐め上げた。
「珍しいね、お姫様がこんなこと許すなんて。実は見られていると興奮するタイプだったの?」
伊織の細い腰に回していた腕の力を、不破は緩めると、伊織のTシャツの裾から指先をゆっくりと忍ばせようとする。
だが、その指先は、すぐに伊織の指が重ねられ、それ以上侵入しないように抑えつけられてしまう。
「まだ駄目ですよ。もう少し、僕に尽くしてくれないと。それに、僕は見られて興奮する趣味はないです」
「残念。また、お預けですか」
わざとらしく深い溜め息をついた不破は、伊織から身体を離すと、入口のドアを指さした。
「とりあえず、お姫様はこの部屋の鍵、閉めてきたら?今、誰かに入ってこられたら、色々とまずいんじゃないの?」
「そういえば、なんで鍵かけなかったんですか…もうっ」
不貞腐れた様子の伊織は、不破が指さした入口ドアに向かっていった。
すると、伊織がこちらを見ていない瞬間を待ちわびていたように、不破は机に座ったままの璃玖に顔を近づけ、耳元で囁いた。
「ねぇ璃玖君、一樹のことはね…お姫様が知らないだけで、呼び出しているのは本当なんだよ」
「えっ…」
(そんな…だって…。じゃあ、一樹は…)
安堵に胸を撫で下ろしたことが急に嘘だと伝えられ、璃玖の鼓動は途端に速さを増し、息が詰まりそうになる。
不破はドアに向かう伊織の姿を横目で確認しながら、そのまま小声で囁くように璃玖に話し続ける。
「だからさぁ…一樹を助けたければ、このまま俺のすることに何も抵抗しないでね。すぐに終わるから、さ」
「あなたの言うことは信用できません…」
「そんなこと言っていいのかなー。こーれ、見覚えあるんじゃない?」
そう言った不破は、ジャージのポケットから璃玖も見覚えのある機種のスマホを、指先で摘み出し、ちらりと見せた。
「なんで、あなたが…」
それは間違いなく一樹のものだった。
「わかってくれたかな?それじゃあ、黙っててね。すぐに終わるから」
にっこりと笑った不破は、璃玖の両手首をそれぞれ掴むと、自身の肩に腕を乗せさせた。
「一体何を…」
不破が何かを企んでいるのは明らかで、身の危険を感じた璃玖は、不破から離れようと身体を離れさせようとする。
すると、まるで悪戯を思いついた子供のような笑みを一瞬浮かべた不破は、璃玖に顔を近づけると、そのまま、あっという間に唇を重ねてきた。
(えっ…)
意味が分からず、目を見開いたままの璃玖だったが、不破の肩に腕を置いていたせいで、まるで自分から引き寄せ、キスをせがんだような形になってしまった。
「ねぇ、不破さん。ここの鍵って壊れて…なっ!」
ドアの鍵が掛からず苦戦していた伊織が、諦めて璃玖たちへと振り向くと、璃玖と不破が唇を重ねている光景に驚き、言葉が出なくなってしまう。
だが、すぐに我を取り戻した伊織は、まるで鬼のような形相で、唇を重ねた二人に近づくと、不破を掴んで璃玖から引き離した。
そして、驚いた表情のままで固まった璃玖の頬を、さきほど叩いた時とは比べ物にならないくらい、伊織は力いっぱい平手で叩いた。
平手とは思えないあまりの勢いに、璃玖は机に手をつこうとしたが、そのままバランスを崩し、机から落ちそうになる。
だが、咄嗟に机の縁を掴み、浮いていた足を床につけたおかげで、床に直撃して落ちることは免れたが、バランスを崩していたせいもあって、かかとから着地出来ず、足甲の外側で全体重を支えてしまった。
「痛っ…」
叩かれた頬の痛みより、遥かに上回る足首の痛みに耐えられず、璃玖はそのまま床に倒れこんでしまう。
足首を押さえ、苦痛に顔を歪ませる璃玖に、怒りで全く気付かない様子の伊織は、烈火の如く感情を露わにする。
「いいかげんにしなよ!そんなに男が欲しいの?それとも、誰かのものに手を出さないと満足しないの?」
「ちが…」
否定しようとするが、璃玖の前に不破が立ちはだかると、伊織に見えないよう後ろ手で、璃玖に手を振った。
それは、まるで黙っていろと言っているようで、一樹を人質にとられている璃玖は、これ以上何も喋ることが出来なかった。
「ごめん、ごめん。俺がちょっと油断しちゃっただけだから、そんなに怒んないでよー。ね、お姫様」
「…。不破さんなら、さっき撮った動画、誰が送ったかわからないように送信できますか?」
伊織は冷ややかな表情で、不破に自分のスマホを差し出した。
「簡単だよー。俺、そういうの得意なんだよねー。でも、送り先は?」
スマホを受け取った不破は、璃玖の前から退き、近くに置いてあったパイプ椅子に座り、楽しそうに操作を始める。
「さっき教えてくれたじゃないですか、事務所にって。アドレスに社長が入っているんで、どうぞ、好きに送っちゃってください」
(社長…。もし、そんなことしたら…)
足首に脈打つような鈍い痛みを感じながらも、璃玖は慌てて二人を止めようと立ち上がろうとする。
「ちょっと待って、伊織君」
「うるさい!」
伊織は立ち上がろうとしていた璃玖の胸ぐらを掴み、そのまま勢いよく床に押し倒すと璃玖のお腹の上に跨った。
そして、璃玖の頭上でまとめるように手首を片手で掴み、反対の手で璃玖の口を抑えつけた。
「んーんっ!」
「犯されないだけ、ありがたいと思いなよ」
冷たい目で吐き捨てるように言う伊織に、璃玖は背筋に冷たいものが流れたが、それでも足首の痛みを我慢して、必死に手足をバタつかせ、抵抗した。
だが、細身ながらも、一樹とダンスの腕前が一緒の体力を持つ伊織に璃玖が力で敵うはずもなく、案の定、伊織の身体はびくともしなかった。
「なんだか、その構図そそられるねー。このまま三人で、とかどう?」
伊織のスマホを操作しながら、にやけた顔で不破は璃玖と伊織を見つめるが、伊織は鋭い目で不破を睨みつける。
「変なこと言ってないで、はやくやっちゃってください」
「はいはい。でも、社長に直接って、本当にお姫様は容赦ないねー。それに、よく、社長のアドレスなんて知っているよね」
「うちの事務所の方針なんですよ。社長が全員の連絡先知っているんで、同じように研修生も登録させられているんです。まさか、こんな形で役に立つ日が来るとは、思いませんでしたけど」
「なるほどねー。うん、これで準備オッケー。あとは送信ボタン押せば完了ー」
不破はパイプ椅子から立ち上がり、伊織にスマホを差し出すと、伊織は璃玖の口を抑えていた手を離し、スマホを受け取った。
「待って、伊織君!」
璃玖は必死に伊織の腕を掴んで懇願しようとする。
だが、その腕は、すぐに伊織に払いのけられた。
「神山…。お前のやったことは絶対に許さない…。二度と、僕の前に現れないでね」
「待って伊織君、話を…!」
「はい、送信っと」
満面の笑みを浮かべる伊織は、璃玖の顔の前に送信完了の画面を見せつけた。
(終わった…。もう一樹の隣には…立てない…)
突きつけられた現実に、璃玖はすぐには受け止められず、そのまま全身の力が抜けてしまう。
「もう行きましょ、不破さん。貴重な休憩時間が終わっちゃいますよ」
放心状態の璃玖を尻目に、伊織はまるで何事もなかったかのように璃玖の上から退くと、そのままスタスタと、入口ドアに向かって行ってしまう。
「おー怖っ。やっぱりお姫様を怒らせちゃだめだね。それじゃあ璃玖君、キス、ご馳走様。…楽しかったよ。ついでにこれ、一樹に返しておいてよ」
上体を起き上がらせることも出来ない璃玖の顔の横に、不破は一樹のスマホを床に置いた。
「一樹の奴、リハーサルの舞台袖までそれ持っていっていたから、盗むのは簡単だったよ。まるで、誰かからの連絡を待っていた様子だったね」
(きっと…僕からの連絡を待っていてくれていたんだ…。なのに…)
璃玖は目頭に熱いものを感じ、隠すように目を腕で覆った。
「ごめんね、璃玖君。俺にとっても、君は邪魔な存在だったんだ。番のいるΩだったら、考えてあげなくもなかったけどねー。残念。あと、倉庫はこの部屋を出て、左の突きあたりの階段を降りたところだから。一樹によろしく」
そう言い残して、伊織を追うように、不破も部屋を後にしていった。
「一樹…」
足首に熱と痛みを感じつつ、璃玖はただ、一樹の名前を呟くことしか出来なかった。
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