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53.話せない

「痛っ…」 (でも、早く…早く一樹のところに行かないと…) 右足首に体重をかけないようにして、璃玖は倉庫へと繋がる階段を一段一段、慎重に降りて行く。 だが、どんなに慎重に降りても、時折振動が右足首に伝わってしまうと、頭まで走り抜けるような激痛が璃玖を何度も襲った。 それでも、一樹のもとに辿り着きたい一心で、痛みに耐え続け、なんとか最後の段差を降りきることが出来た。 外に近いのか、少しひんやりとした空気を感じる空間に、倉庫へと続くと思われる重厚な扉を見つけると、璃玖は扉に近づき、体重を目一杯かけて扉を開けた。 すると、不破が話していたものと思われる大きな造りのセットが、すぐに目に入った。 璃玖が辺りを見渡すと、一斉に昼休みを取っているのか、時折遠くから話し声が聞こえはするものの、スタッフも、不破の仲間と思われる人物も見当たらなかった。 「きっと、このセット…だよね」 目の前のセットには、不破の言っていた通り、急勾配の階段があり、璃玖は上を見上げると、最上段は踊り場のような作りになっているように見えた。 だが、大小様々な照明やスピーカーが備え付けられており、それらが邪魔して、璃玖の位置からは一樹の姿を確認することが出来なかった。 (こんな、高さのあるセットから落ちていたら…) 一樹が落ちる姿を想像してしまい、璃玖はブルっと身震いをした。 (とりあえず、一樹がいるかどうか確認しないと…) 不破の仲間が上にいるかもしれないと不安が過ぎったが、璃玖は覚悟を決めて、音を立てないよう、静かに階段を上り始めた。 階段には手すりがついていたため、手すりを握る手に力を込め、出来るだけ腕の力で上ろうとした。 だが、下りと違い、どうしても右足首に体重をかけなくてはならず、璃玖はそのたびに、奥歯を噛み締め、痛みに耐えた。 (こんなに痛いなんて、もしかして折れているのかな…。でも…、でも、そんなことより…!) 璃玖は、一樹の無事を確認したい一心で、ほとんど気力だけでなんとか階段を上りきった。 (いた…!) 階段を上りきったところは、広めの踊り場のようになっていて、そこには脱いだパーカーを丸めて枕代わりにして、仰向けに横になっている一樹がいた。 (よかった…。無事、だったんだ…) 一樹が無事だった安堵からか、それとも体力を使い果たしてしまったからなのか、璃玖は足に力が入らなくなってしまい、床に膝と手をついてしまう。 「はぁー…はぁー…」 顔を上げ、一樹に声をかけようとするが、乱れた呼吸が邪魔をして声にならず、璃玖は力を振り絞り、四つん這いのまま一樹に近づいていった。 (一樹…!一樹…!) なんとか一樹のもとに辿り着き、璃玖は一樹の顔を覗き込むと、一樹は怪我もなく、ただ、寝息を立てて寝ているだけだった。 (よかっ…た…) 璃玖は胸をなでおろすと、脈打つ鼓動と呼吸を整えつつ、一樹の顔をそっと見つめた。 久々に間近で見る一樹の顔に、落ち着きを取り戻し始めていた璃玖の鼓動は、また次第に早くなった。 (一樹…) 心の中で一樹の名前を呟くと、璃玖は吸い込まれるように、自分の唇を一樹の唇に重ね、そっと目を閉じた。 (一樹…一樹…) 無意識のうちに、璃玖は一樹の名前を心の中で何度も、何度も呟いた。 すると、まだきちんと伝えられていない、一樹を好きだという気持ちが、急に抑えが効かないように、璃玖の中から溢れ出そうになる。 (一樹が好きなのに…。こんなに、一樹のことが好きなのに…。一緒にいたいのに…) 伊織が送信した動画を社長が確認すれば、おそらく弁解も出来ずに研修生を解雇になるだろうと、璃玖自身も理解していた。 そのため、今、いくら隣にいたいと、どんなに願っても、それはもう叶うことはないと分かっている璃玖は、必死に溢れ出そうになる気持ちを抑え込んだ。 (いつ…き…) ふと、璃玖の目から一粒の涙が零れ落ちた。 その涙は、一樹の頬へ落ち、そのまま静かに、ゆっくりと一樹の頬をつたっていった。 (さよなら、一樹…) 落ち着きを取り戻した璃玖は、見下ろす形になっていた一樹から、名残惜しそうにゆっくりと、重ねていた唇を離した。 すると、後頭部が何かで急に押さえつけられ、璃玖はそれ以上、一樹から顔を離すことが出来なくなると、すぐさま一樹の顔を近づいてきて、あっという間に唇が重ねられた。 「んっ…」 後頭部を押さえつけているのが一樹の手によってだと気づいた時には、さきほど璃玖がした唇を添えるような優しい口づけとは違い、まるでお互いの存在を確かめるように、強く、激しいものに変わっていた。 (一樹…) 頭では駄目だとわかっていても、口を開くよう催促するように唇を舐めてくる一樹の舌に、璃玖は逆らうことが出来ず、少しだけ口を開いた。 そのチャンスを待っていたかのように、一樹の舌がすぐに差し入れられると、そのまま璃玖の舌を絡み取った。 息が上がり、それでもまだ激しくなる口づけに、璃玖は腰のあたりに甘い疼きを感じながら、一樹に与えられる快感に、ただただ溺れそうになっていく。 「ふっ…んぁ…」 (…だめだ…このままじゃ…) このまま溺れてしまうと、もう這い上がることが出来なくなると、次第に冷静さを取り戻した璃玖は、終わりを告げるように、一樹の舌を軽く噛んだ。 すると、一樹は名残惜しそうに、時間をかけて璃玖の口内から舌を抜いた。 そのまま少し唇が離れたが、まるでお互い離れ難いように、どちらからともなく、すぐに唇が重なった。 そしてまた離れると重なるという行為を、何度も何度も繰り返した。 (もう…終わりにしないと…) 璃玖は本当に最後にしようと、一樹の唇に啄むような口づけをすると、終了の合図と感じ取ったのか、一樹はゆっくりと、名残惜しそうに唇を離していった。 一樹の顔が離れていったことを感じ、璃玖が目を開くと、自分のことをまっすぐ見上げる一樹と目が合った。 見つめてくる一樹は何も言わず、ただ、いつものように笑いかけてくれた。 「いつ…き…」 その笑顔を見た途端、璃玖の中から、喜びや悲しみ、後悔や愛おしさ、本当に様々な感情がこみあげ、自然と涙が溢れそうになる。 「璃玖…泣かないで…」 一樹は、優しく包み込むように璃玖の頬に手を添え、今にも璃玖の目から零れ落ちそうな涙を、反対の手の指先で、そっと拭った。 「一樹…」 本当は叫ぶように何度でも呼びたい一樹の名前を、璃玖は感情を抑えるように小さく呟くと、頬に添えられた一樹の手に、自分の手を重ねた。 「不思議だな…。なんだか、久々に会った気がする…」 「本当…だね…」 璃玖が笑いかけると、一樹は上体を起き上がらせ、璃玖の横に並んで座った。 璃玖も足を庇うように座りなおした。 「聖さんに内緒でここに来るって聞いてさ…。ずっと、待っていたんだ。でも正直、もう、来ないかと思った…」 「そっか…。ごめんね、遅くなって」 こんなところに呼び出したのは、本当は自分ではないと言うわけにもいかず、璃玖は一樹に話しを合わせた。 「俺、あんな…璃玖を傷つけるようなことして…。許されるとは思っていない。でも…」 「待って、一樹。あれは僕が悪いんだ。僕が誤解を招くことをしたから…。だから…もう、いいんだ…。もう…」 (そう…。もう、いいんだ。だって…) 璃玖はそれ以上何も言えず、思わず顔を俯かせてしまう。 「もう、本当に…いいんだ…」 顔を俯かせたまま、璃玖は首を横に振った。 「いいって…。なあ、璃玖。俺はちゃんと、璃玖と話がしたい。話して欲しい。聖さんと何があったとか、曲を作る話とか…全部…」 「それは…」 また黙ってしまう璃玖の横顔を黙って見つめていた一樹は、床に置かれていた璃玖の手に、自分の手を重ねると、そっと握った。 「ごめん…。璃玖はきっと、言え…ないんだよな…。なにか事情があるからなんだろ?」 「…」 璃玖はもう、頷くことも否定することも出来ず、ただ、黙ることしか出来なかった。 「わかったよ。じゃあ、これ以上の詮索はしない。なにがあっても、俺は璃玖を信じるし、璃玖の味方だから」 一樹はいつものように、璃玖に笑いかけた。 「一樹…」 何も話さない、話す勇気もない璃玖を、まるで半年前の即興のレッスンの時のように、背中を優しく押してくれる一樹が、そこにはいた。 (僕は…どうして、こんなにも優しい一樹から、たくさんのものを貰っているのに、なんで何一つ返せないんだろ…。一樹のために曲を作りたかった…。一樹と同じものが見たかった…) 「璃玖…!」 一樹が驚いた声を上げたのは、璃玖の目から、まるで決壊したダムのように、取り留めもなく、涙が溢れたためだった。

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