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54.終わりにしよう
「ご、ごめん。なんだかわからないけど、止まら…なくて。明日のことで緊張しているのかな…ハハッ。涙腺が壊れちゃったみたい」
本当の涙の理由は、璃玖の心が一樹の優しさに押し潰されて、限界を迎えたからだった。
だが、璃玖は一樹に心配をかけないよう、必死に笑って誤魔化そうとした。
しかし、そんな璃玖の気持ちに反して、溢れるように零れ落ちる涙は、一向に収まる気配はなかった。
「俺、璃玖のこと泣かせてばかりだよな…。本当にごめん…」
一樹は、自分が原因で璃玖を泣かせてしまっていると思い、その罪悪感から、涙を零す璃玖を抱きしめることが出来なかった。
そのため、一樹は唇を噛み締めると、並んで座って握っていた璃玖の手を、代わりに痛いぐらい強く握りしめた。
「違う…。違うんだ…。これは、そんなんじゃ…」
璃玖は首を横に何度も振って、一樹が原因ではないと強く否定した。
(最後に…一樹に、こんな顔をさせたいわけじゃにないのに…)
ふと、会うのはこれが最後かもしれないと考えてしまった璃玖は、もう一度、顔に笑みを作って涙の理由を誤魔化そうとするが、どうしても一樹の顔を真面に見ることは出来なかった。
(もう、これ以上一緒にはいられない。その可能性はどこかで覚悟していたはずなのに…。どうして、どうしてあの時以上に、今、こんなにも辛いんだろう…)
自分がΩで、抑制剤が効かない体質である可能性を知った時以上に、今の璃玖には一樹と一緒にいられないことが耐え難くなっていた。
(僕がβであれば、こんな事には…。そうしたら…)
今そんなことを考えても仕方がないと璃玖自身も頭では分かっていたが、受け入れ難い現実から逃げるよう、叶いもしない未来をつい浮かべてしまう。
だが、現実は待ってくれるわけでも、起こってしまった事を消すことも出来ず、タイムリミットは刻一刻と近づいていることは間違いなかった。
いくら多忙な社長でも、送信された動画を確認するのにそれほど時間がかかるはずもなく、ポケットにしまってある璃玖のスマホに、いつ、スターチャートから連絡が入ってもおかしくない状態だった。
(せめて、明日のステージが終わるまで…。なんて無理か…。たとえ、一緒に歌えなくても、一樹と同じステージに立って、同じ風景を一度は見たかったな…。でも、いい加減、僕が…。僕自身が覚悟を決めなきゃ…)
決心した璃玖は、一樹に握られていた手を自ら抜き取ると、その手で自分の涙を拭った。
そして、目を瞑って上を向き、無理やり涙を止めると、深く深呼吸をしてから、先ほどは見ることの出来なかった一樹の顔を、今度は真っ直ぐ見つめ、もう一度笑顔を作って話を切り出した。
「ごめん…。ありがとう一樹。でも、僕のことはもういいから」
「…え?」
「前にも話したでしょ。僕と番になるとか、一緒にデビューしようとか。そういうの全部…もう、終わりにしよ」
璃玖の思ってもみなかった言葉に、一樹は一瞬、我を忘れてしまうが、すぐに病院で同じようなやりとりをしたことを思い出す。
「終わりって…。病院での話は、なんというか、売り言葉に買い言葉と言うか…。俺が伊織とデビューするとか、伊織の言葉を信じたからだろ?あれは俺が悪かったんだ…。だから…」
一樹は必死に言葉を続けようとするが、璃玖はゆっくりと首を横に振った。
「違うんだ。終わりっていうのは、僕が…。僕が、スターチャートを辞めるからなんだ。だから、ごめん。もう、一樹とは…一緒にいられない」
「…!スターチャートを…辞める…?璃玖、何言って…」
突然の璃玖の言葉に、呼吸をするのを一瞬忘れてしまうほど驚いた一樹は、慌てて璃玖の肩を手で掴んだ。
「ちょ、ちょっと待ってって…。璃玖、嘘だろ?そんなの…。だって、そんな…俺…」
「突然ごめん。でも、一樹のせいでも、誰かのせいでもないから。なんか、急に明日の出番とか決まっちゃって、ここ数日、個別レッスンとか受けたんだ。それが、すごいスパルタでさ…。もう、うんざりしちゃって。この先、これ以上大変になるなんて、僕には耐えられないって、今回でよく分かったんだ」
ここ数日のレッスンは、本当はどれも次第に自分の力、実力になっていくことが実感出来、むしろ嫌だと思ったことは一度たりともなかった。
だが、撮影された動画と経緯に、間接的に一樹が関係していることを決して悟られたくなかった璃玖は、まるで冗談を言うように作り笑いを浮かべて、出来るだけ明るい声のトーンで本当の理由に全く関係ない嘘をついた。
そんな嘘を、一樹は見破ったかのようにショックを受けた表情から一気に真剣な表情に変わると、肩を掴んだ手に力が込められ、璃玖の目を真っ直ぐ見つめた。
「璃玖…。半年前、レッスンに来なかった理由を電話で聞いた時も、そうやって何か取り繕うように明るく言っていたよな。璃玖は…嘘をつくとき、そうやって笑って誤魔化そうとするのな」
「違う…。嘘なんかじゃ…」
図星をつかれ璃玖は慌てそうになるが、それでも必死に冷静さを装って、一樹から目を逸らさず見つめた。
「俺が原因なら、ちゃんと教えて欲しい。俺が璃玖をそこまで追い詰めたのか?」
「違うってば!」
璃玖が見つめる一樹の目や、掴まれた肩に込められる力から、一樹の自責の念が感じられた。
そんな一樹の目を見るのは、璃玖には耐えられず、つい声を張り上げて否定してしまう。
「なあ、璃玖。この半年間、どれだけ璃玖が頑張ってきたかは、誰でもない、俺が一番よく知っている。そんな璃玖が、さっき言っていた理由なんかで辞めるなんて、誰が信じるんだよ…」
一樹は、璃玖の肩を掴んだまま深く項垂れた。
「それは…」
そのまま璃玖は咄嗟に言葉が思いつかず、黙り込んでしまう。
すると、まるで何か心当たりがついたかのように、一樹は急に璃玖に向かって顔を上げた。
「…!もしかして、俺が聖さんのツアーについていくって話で気を使っているとか?それなら安心しろよ。俺は璃玖を置いて行ったりしないから」
そう言った一樹は笑みを浮かべていたが、今度は璃玖がショックを受けた顔をした。
「えっ…。行かないって…?」
「当たり前だろ?璃玖のそばを離れたくないし、ついていったら、璃玖の発情期に間に合わないかもしれないだろ」
「…」
聖から一樹がこの後のツアーに参加するかもしれないと聞いた時、一樹なら必ず参加を選ぶと、璃玖は疑わなかった。
だからこそ、聖が恋人になろうと言ったことや、明日のステージへの参加を強く拒否することが出来なかったのに、今、目の前にいる一樹は、自分のために行かないと言っていることに璃玖は呆然とした。
一樹は聖との出来事を何も知らないのだから、当たり前であると璃玖も頭では分かっていたが、思ってもみなかった一樹の選択に、璃玖は裏切られたような気持ちになった。
「璃玖…?」
てっきり璃玖は喜ぶと思っていた一樹は、璃玖があまりに反応がないため不思議に思い声をかけると、璃玖は黙って掴まれていた肩から一樹の手を掴み、そっと外した。
「ねぇ、一樹…。それで僕が喜ぶと、本気で思って言っているの?」
「えっ?」
喜ぶどころか、怒ったようにも見える璃玖の様子に一樹は戸惑ってしまう。
「いや、だって、一緒にいられたほうがいいだろ。だいたい、聖さんについていかなくても、俺のダンスと璃玖の作った歌があれば大丈夫だって」
「大丈夫って…。一樹は、何も分かっていない!だって、僕がΩじゃなければ、一樹と出会ってなければ、きっと喜んで聖さんについて行っていたよね?」
「それは…。でも、今そんな話してもしょうがないだろ。俺にとって、優先すべきは璃玖なんだから」
(ああ、やっぱり僕は、一樹の邪魔しか出来ないんだ…)
ずっと聖のファンで、聖の話をする時に目を輝かせていた一樹が、聖のツアーに参加出来るというチャンスを自分のせいで棒に振ろうとしていると知った璃玖は、改めて決心をした。
(このままじゃ僕が一樹をダメにしてしまう。もう…本当に、終わりにしよう)
璃玖は、どこかで一樹に嫌われたくないと思っていた自分を律し、無意識に避けるようにしていた嘘の内容を思いついた。
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