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57.一樹の涙

「璃玖!おいってば、璃玖!」 一樹は倉庫の冷たいコンクリートの床で意識を失っている璃玖に駆け寄ると、床に膝をついて必死に声をかけた。 だが、璃玖の唇は青ざめ、一樹の呼びかけに身体はピクリとも反応しなかった。 「り…く…」 璃玖の頬を一樹は包むように両手で触れると、さきほど抱きしめた時より冷たくなっているように一樹には感じられた。 顔にはほとんど傷はなかったが、打撲のせいで腕の所々が赤く変色しており、璃玖の肌は白いため余計に痛々しく感じられた。 「おいおい、一体なにが…」 物音と、一樹の璃玖の名前を叫ぶ声を聞いた一人のスタッフが一樹に近寄ると、意識を失って力なく横たわっている璃玖の姿が目に入り、すぐに顔色を変えた。 「救急車…。お、おい!誰か救急車を呼んでくれ!怪我人だ!」 叫んだスタッフの声に、倉庫内に残っていた数人のスタッフが一樹達の元に集まると、目の前の璃玖の姿に驚き、一人のスタッフが慌てて救急搬送の電話をかけた。 「お、俺、聖さんを呼んできます!」 そんな中、もう一人のスタッフが聖を呼ぶため走り去っていた。 「救急車、あと数分で到着するそうです」 「そっか…。それなら聖さんが到着するまで静かにしているしかないな…。こんなことが明るみに出れば…。ああ、でも…」 「そんなこと言っている場合ですか?!なんか、応急処置とかしたほうが、いいんじゃないですか?」 「そんなこと俺に出来るかよ…。あー、もう…」 自分の二の腕を擦り続け落ち着かない様子で右往左往したり、その場にしゃがみこんだりと、対処に戸惑うスタッフ達は、声を荒げて言い合いを始めた。 そんな中、一樹は静かに璃玖に声をかけ続けていた。 「璃玖…璃玖…。お願いだから、目を開けてくれ…」 すぐそばでやりとりをされているスタッフ同士の会話は、一樹には何メートルも離れた場所で行われているかのように遠くに聞こえていた。 それはまるで、今この場所には、自分と璃玖の二人だけしかいないかのように一樹に錯覚させた。 (璃玖、教えてくれ…。あの時、俺になんて言いかけたんだよ…) 璃玖が階段へ向かって落ちる瞬間、何かを伝えようと璃玖が口ずさんだように一樹には見えた。 ふと、一樹は視界の片隅に、片方だけ転がった璃玖の靴を見つけた。 そのまま、何気なく一樹は璃玖の足元を見ると、右足首付近が左足とは比べものにならないくらい膨れ、腫れ上がっていることに気が付いた。 (俺が…俺が璃玖を…) 一樹は自分のせいでこんな状態にしただけでなく、足にケガまでさせてしまったと思い込むと、璃玖の肩を掴んで軽く揺すり始めた。 「璃玖、ごめん。ごめん、俺…」 「お、おい。やめろって…。動かさないほうが…」 一人のスタッフが制止させようと一樹の肩を掴むが、まるで気づいていないかのように、一樹は璃玖の肩を揺すり続けた。 「璃玖!頼むから、目を開けてくれよ!」 「おい!いいかげんにしろ!!」 見かねたスタッフが一樹を後ろから羽交い締めにすると、璃玖から無理やり引き離した。 「離せ!璃玖、璃玖!」 「大人しくしろって!」 暴れる一樹をなんとか押さえつけていると、聖と隼人が慌てた顔で走って駆けつけた。 「一体何が?怪我人が出たって聞いたけど…。璃玖…く…ん」 「璃玖!」 詳細を聞かされていなかった聖と隼人は、コンクリートの床に横たわる璃玖の姿を見て、驚きのあまり、二人とも息が止まりそうになる。 だが、聖はすぐに璃玖に近づき、傍らに膝をつくと、横たわる璃玖の口元に耳を近づけ、呼吸を確認した。 「呼吸は安定しているみたいだ…。脈は…」 璃玖が呼吸をしていることを確認し安心すると、今度はそっと璃玖の首元に手を当てた。 「璃玖に触るな!俺が、俺が助けるんだ!」 聖が璃玖に触れるのを見た一樹は、スタッフに羽交い絞めにされながらも暴れながら叫んだ。 しかし、聖はまるで聞こえていないかのように一樹の声を無視して、璃玖の状態を確認した。 「おい、救急車は?」 隼人が近くにいたスタッフに声をかける。 「はい!もう、呼んであります!もうすぐ到着するそうです」 「じゃあ、お前。表で待ってろ。ここまで、すぐに誘導出来るように」 「わ、わかりました!」 隼人に指差されたスタッフは、慌てて外へ走り出していった。 「誰か、何が起こったのか見た人は?」 自分が着ていたパーカーを脱ぎ、聖は璃玖の身体がこれ以上冷えないようにかけると、聖は振り向き、残ったスタッフを見回した。 だが、スタッフは一同に、聖の問いかけに首を横に振った。 「それが…。俺たちが辿り着いた時にはもうこんな状態で…。きっと、その階段から落ちたのかと…」 「階段って、まさか…」 聖と隼人はすぐ傍のセットの階段を見上げると、互いに表情を曇らせてから璃玖に視線を戻す。 そして、隼人は聖の隣にしゃがみ、耳打ちをした。 「あんなところからって…。なあ聖、璃玖は大丈夫なのか…?」 「わからない…。でも、出血もないし、頭を強く打っているかもしれないから変に動かす方が危険だ。足もこんなに腫れていると折れている可能性はあるけど、冷やしていいか判断がつかない。すぐ救急車が到着するっていうなら、僕たちに出来ることは待つことだけだね…」 「足…。あー、まじかよ…。くそ…」 聖に言われるまで気がつかなかった璃玖の足の状態を隼人は確認すると、そのまま悔しそうに頭を抱えてしまった。 「璃玖!璃玖!!」 「いいかげんにしろって」 聖と隼人の後ろで、しきりに璃玖の名前を叫ぶ一樹に、聖は重たい溜め息をつくと、スッと立ち上がった。 「お、おい、ひじ…り…」 聖を呼び止めようとした隼人だったが、イラつきを隠していない初めて見る聖の表情に、思わず呼び止めるのを止めてしまった。 聖はそのまま、スタッフに羽交い絞めにされて暴れる一樹に黙ったまま近づくと、一樹の胸ぐらを掴み、自分の顔に引き寄せた。 「一樹君、少し黙っていてくれるかな。何もできない君は、騒ぐだけで邪魔なだけなんだよね」 瞳の奥で静かな怒りを感じる聖の鋭い眼光に、目の合った一樹は思わず息を飲むと、スッと力が抜けるように膝から崩れた。 「救急車、到着しました!」 外に走っていったスタッフと一緒に、ストレッチャーを押してきた救急隊員が三人ほど到着すると、すぐに救急隊員は璃玖の状態を確かめ始めた。 「どなたか、状況の分かる方は?」 他の救急隊員が璃玖の身体を頑丈な器具に固定して担架に乗せている間に、別の救急隊員が聖たちに向けて声をかける。 「あ、あの!」 「しっ!お前は黙ってろ」 「えっ…」 一樹は慌てて立ち上がり、救急隊員に何があったのか話そうとするが、その口は隼人の手によって遮られてしまった。 「俺たちが駆けつけた時には、もうこんな状態で…。きっと、その階段から落ちたんだと…」 一樹の代わりに、最初に異変に気付いて駆け寄ってきたスタッフが、救急隊員にセットを指差して伝えた。 「こんな急な階段から…。わかりました」 救急隊員も聖や隼人と同じように怪訝そうな顔で階段を見上げると、手に持っていたバインダーにメモをしていった。 「それでは、どなたか付き添いの出来る方はいらっしゃいませんか?」 「それなら俺が!」 「一樹君!」 救急隊員の申し出に一樹が名乗り出るが、聖は大声で怒鳴るように一樹の名前を叫んだ。 聖の、らしくない大声に驚き、一瞬時間が止まったかのように辺りは静まり返ったが、聖は気にしない様子で隼人の肩を叩いた。 「悪い、お前にしか頼めないんだ」 「わかってるよ。責任もって璃玖を病院まで送り届けりゃいいんだろ?」 「ああ、任せるよ。あとでマネージャーを向かわせるから、そうしたら交代で戻ってきてくれ」 「あいよ」 「何か変化があれば、すぐに連絡を。あと、璃玖君の親御さんに連絡してアレルギーや持病を確認してくれ。連絡先はすぐに送るから」 「お前は…大丈夫なのか?」 「…何が?」 聖は何食わぬ顔で隼人を見つめるが、隼人は「いや…」と言って首をゆっくりと横に振った時、璃玖の傍にいた救急隊員が大声を上げた。 「患者が意識を取り戻したようです!」 「璃玖!!」 一樹は一目散にストレッチャーに乗せられた璃玖に駆け寄る。 「璃玖、璃玖!!」 必死に名前を呼ぶ一樹の呼びかけに、璃玖は目を開くことはなかったが、何かをうわ言のように言おうとしており、微かに口元が動いていた。 一樹は璃玖に顔を近づけるが、息を吐きだしているような音しか聞こえず、何を言っているのか聞き取ることが出来なかった。 「璃玖!璃玖、俺…」 一樹は璃玖に声が届くように何度も何度も名前を呼ぶと、次第に今にも消えてしまいそうなか細い声で「ごめんね、一樹…」と璃玖が呟いた。 「璃玖…」 こんな状態でも一樹を気遣う璃玖の優しさに、一樹の目からは涙が溢れ、その粒が璃玖の頬を濡らした。 一樹が零した涙に璃玖が気付いたのかわからないまま、璃玖はまた意識を失ってしまい、そのまま動かなくなってしまった。 「すみません。急ぎますので!」 璃玖を乗せたストレッチャーは、そのまま大急ぎで外で待つ救急車へと向かって運ばれていった。 聖と隼人はアイコンタクトをすると、隼人は救急隊員の後を追いかけていった。 「俺…俺…。うわー!!」 一樹は涙が止まらないまま、崩れるようにコンクリートの床に膝と手をつき四つん這いになると、自分が璃玖にしてしまったことへの罪の重さを改めて認識して、思わず叫んでしまった。 そんな一樹に、スタッフは誰も声をかけることが出来なかった。 だが、聖はゆっくりと一樹に近づくと、一樹と同じように膝をつき、一樹の肩に手を置いて耳元でそっと囁いた。 「ここは目立つ。璃玖君をこれ以上苦しめたくないなら、僕に黙ってついてきて」 「聖…さん…」 一樹が顔を上げると、聖は一樹を安心させるかのように笑っていた。 「これは事故だ。誰のせいでもない。わかったね?」 聖が一樹の肩をもう一度軽く叩き立ち上がると、スタッフに向けて手を二回ほど叩いた。 「さあ、切り替えていくよ。本番は明日だ。悪いんだけど、リハの再開は諸事情で三十分後に変更するよう、みんなに伝達してくれるかな。あと、今あったことは他言無用。わかるね?」 「はいっ!」 スタッフ達は聖の指示に従い、それぞれの持ち場に戻っていった。 「聖さん…。俺…」 「場所を変えるよ。君に大事な話がある…」 そう言って聖は踵を返し歩き出してしまった。 一樹は一瞬躊躇してしまったが、立ち上がり、聖の後ろを黙ってついていった。

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