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59.取引

「俺が璃玖のために出来ること…」 こんなにも自分のことを大切に思ってくれている璃玖のために、今、自分がとるべき行動は何なのかと一樹は考えた。 一樹が思いつくのは、璃玖の望みを、ただ叶えてやることだけだった。 でもそれは、一樹自身が璃玖のことを諦めるということ意味していた。 璃玖がスターチャートを辞めて、アイドルではなく、聖のために曲を作り、聖と番になりたいと望むのであれば、璃玖のことを諦めなければいけないと一樹は頭では分かってはいた。 だが、璃玖が一瞬見せた、辛そうで泣きそうな表情の理由が分からない以上、一樹はまだ決心がつかなかった。 「おまたせ。ごめんね、一樹君」 「璃玖に、璃玖に何かあったんですか?」 聖がスマホを片手に控室に戻ってくると、一樹は慌てて椅子から立ち上がる。 「違う、違う。社長からだったから、出ないわけにもいかなくてね」 「社長って…。もしかして璃玖が辞めるって話のことですか?」 「えっ…?誰が辞めるって?」 聖は、まるで初めて聞いたかのように驚いた顔すると、一樹に思わず聞き返した。 「誰って、璃玖がですよ。えっ…。聖さん、璃玖から何も聞いていないんですか?」 てっきり、話し合った結果の結論だと思い込んでいた一樹は、何も聞かされていない様子の聖の反応に驚いてしまう。 「ちょっと…。その話、詳しく聞かせてもらおうかな」 聖は応接セットの机を挟んだ一樹の向かい側に座り、手にもっていたスマホを乱暴に机に置いた。 少し怒った様子にも見える聖の態度に戸惑いつつも、一樹も聖の前に座りなおした。 「それで…。璃玖君が自分で辞めるって言っていたの?」 「そうですよ…。聖さんと…運命の番だからってアイツ…」 「運命の番って…。璃玖君が、璃玖君が本当に一樹君にそう話したの?」 疑うように何度も尋ねてくる聖の態度に、二人が運命の番であることを隠していて、璃玖が一樹に話したことを疑っているのでは思った一樹は、苛立ちと悔しさを覚え、床を睨むようにし、俯き気味に答えた。 「璃玖自身がはっきりと…そう言いましたよ。聖さんと運命の番だから、俺じゃなくて聖さんを選ぶって。だから、事務所も辞めるって…」 「璃玖君が…。なるほど、そういうことか…」 何かを一人で納得して、聖は考え込むように腕を組んで背もたれに体重を預けると、そのまま黙ってしまった。 「聖…さん?」 「あ、ああ。ごめんね、辞めるなんて璃玖君が決意しているなんて、僕は聞いていなかったから、ちょっと驚いてね…。それで…一樹君はどうするの?」 「どうするって、何をですか?」 「僕と璃玖君が運命の番だって聞いて、どうしようって思ったの?璃玖君のこと諦めるの?」 「それは…」 答えに迷っていた一樹だったが、聖の顔を見ると、聖は真剣な表情で一樹を見つめていた。 てっきり、運命に逆らえるわけがないと、聖に笑われていると思っていた一樹は、聖の真剣な表情を見て、今の自分の気持ちを素直に話そうと決意した。 「最初聞いたときは諦めようと思いました。運命の番の力は、俺も知っているので…」 「それは…。一樹君の周りにもいたのかな?運命の番に出会った人が」 「え、ええ…。昔、お世話になった人が…」 少し言いづらそうに話す一樹の様子に、それ以上踏み込んではいけないと悟った聖は、話を元に戻した。 「それで、一樹君は璃玖君のことは諦められたの?」 聖の問いかけに、一樹は黙ったまま、ゆっくりと首を横に振った。 「聖さんにこんなこと話すのもあれなんですけど…。正直、どうしたらいいか俺自身、分からないんです」 「分からない?自分の気持ちなのに?」 「はい…。璃玖が望むのであれば、俺は璃玖のこと、諦めるべきだとも思うんです。でもさっきは…。璃玖に諦めないって伝えました。二年後、発情期を迎える時に、もう一度告白させてくれって。今は聖さんのものでも、俺は諦めないって…。それを璃玖に話したら、言い合いになって…」 「それで璃玖君が階段から足を滑らせたって訳か…。なるほどね」 璃玖が階段から落ちた理由がやっと分かると、聖は溜め息をついて足を組んだ。 「聖さん…。聖さんは、本当に…本当に璃玖が好きなんですか?運命とか、そんなこと全部抜きにして、ちゃんと璃玖自身が好きなんですか?」 一樹は聖の目をまっすぐ見て答えを求めるが、見つめ返す聖の目は、今までになく真剣だった。 「…好きだよ。素直で、表情がクルクル変わるところも、人のことばかり気遣うところも、実は負けず嫌いなところも全部ね。だからこそ、璃玖君から生まれてくる曲も…ね」 真剣に話す聖を見て、自分と同じぐらい璃玖に対して本気なんだと一樹も分かると、安心したからなのか、はたまた敵わないと思ったのか、自然と肩の力が抜けた。 「そう…ですか…」 「でも、一樹君は、僕と璃玖君が運命でも諦めないんでしょ?」 「…。さっきも言った通り、正直わからないです。璃玖が…。本当に聖さんと番になることを望むなら、俺は身を引くしかないですから…」 「望むなら…か…。どうして、君たちの運命は似ているんだろうね…」 「えっ?」 聖の言った言葉の意味が分からず、一樹は思わず聞き返してしまう。 「いや、こっちの話…。でもまあ、一樹君にはそろそろ、璃玖君のことは本気で諦めてもらわないと困るんだよね」 聖は机に置いていたスマホを手に取り操作すると、一樹に画面を差し出した。 「これを見てくれるかな」 「なんですか…これ?」 画面には、机に座った璃玖を、少し離れた場所から撮影されたようなものが映っていた。 「再生してみて」 聖に言われ、一樹は差し出されたスマホ画面の再生ボタンを押すと、まるで隠し撮りされているかのような映像には、璃玖が服を捲り、自分をΩだと言って誰かに向かって犯してくださいと言っているものだった。 思いもよらなかった映像の中身に、一樹は言葉を失い、息を飲んだ。 「なんですか、これ…。盗撮…?まさか、聖さんがわざわざこんなもの璃玖に隠れて撮ったんですか?!」 聖のスマホに手を伸ばし、一樹は慌ててスマホを奪おうとするが、その手は聖に避けられてしまった。 聖は勝ち誇ったように口元にスマホをあてて、不敵な笑みを一樹に向けた。 「本当にさぁ、璃玖君って可愛いよね。ポスターも、この動画も、すごく扇情的だと思わない?」 「ふざけないでください!」 一樹は声を荒げ聖を睨みつけるが、聖は全く気にしていない様子で、一樹に見せつけるようにもう一度動画を再生をした。 「ねえ、一樹君。取引をしよう」 「はっ?何を言って…」 「この動画、世間に公表されたら璃玖君はどうなっちゃうと思う?」 笑みを浮かべながら話す聖の目は真剣で、一樹は冗談ではなく本気だと思い、サッと血の気が引いてしまう。 「何を言っているんですか?そんな、そんなことしたら璃玖は…」 こんな映像が公表されれば、璃玖がΩだと知れ渡るだけでなく、下衆な憶測や中傷を璃玖がされることは容易に想像がついた。 そんな状況は、一樹にはとても耐えきれなかった。 「聖さんは一体、何を考えているんですか?」 聖も一樹と同じように璃玖のことを思っているのであれば、そんなことをして璃玖を傷つけることは望んでいるはずもなく、聖の考えが分からない一樹は困惑してしまう。 「簡単だよ。璃玖君を手に入れたいんだ。本当の意味…番になるまでは、もう少し時間がかかる。でも、それまでに君は…一樹君は邪魔な存在なんだよね」 先ほどの笑みを変わらず浮かべながら楽しそうに話す聖に、一樹は若干、狂気的なものを感じ、顔をひきつらせた。 「どうして、わざわざこんなことまで…。だって、運命の番なんだから、俺なんて…」 「簡単だよ。全部、欲しいからだよ」 「全部…ですか?」 「そう。璃玖君の身体だけじゃなく、心もね…」 そう言って聖は立ち上がると、先ほどスマホを取り出したカバンから書類を何枚かとペンを取り出し、席に戻ってきて、同じように座った。 「一樹君と伊織君、二人には明日の本番が終わり次第、僕のツアーについてきてもらう。だから、ここにサインをしてもらえるかな?」 聖は手に持っていた書類とペンを机に置き、一樹に差し出した。 「急に何を言って…。今、そんな話をしている場合じゃないですよね!」 勝手に話を進めようとする聖に、一樹は怒りを覚え、椅子から勢いよく立ち上がった。 「熱くなるのは勝手だけど、一樹君に拒否権はないよ。だいたいこれは、事務所命令でもあるんだよ」 「事務所命令…?」 「そう。さっき、社長から電話がかかってきたのは、この件だよ。事務所の方針として、一樹君と伊織君は二人でデビューさせる方向で纏まったから、僕に面倒を見てくれってさ」 「そんなの…。そんなの、嫌です!だって俺は…。俺は、璃玖とデビューがしたいんです。それに今、ここを発ったら…」 「まあ、もしかしたら璃玖君は数日ぐらい目を覚まさないかもしれないから、挨拶も出来ないまま出発かもね。でも、そんな状況になったのって、一樹君のせいだよね?」 聖のその一言に、一樹は肩をビクッと肩を震わせた。 「それは…」 「璃玖君のことは大丈夫。僕が責任を持つから。だから一樹君が…やることはわかるよね?」 「それは…。脅迫ですか?」 「違うよ。これは取引だ。璃玖君を諦めてもらうための…ね」 「俺が諦めれば、さっきの動画も公表しないでくれますか?」 「ああ、もちろん」 「聖さんについていけば、いいんですか…?」 「そう。そうすれば、約束はちゃんと守るよ」 「…。わかりました…」 一樹は椅子に座り直し、聖に差し出された書類にサインをすると、ペンを投げ捨てるように軽く放り投げた。 「これでいいんですか?」 「うん。一樹君が行くって言うなら伊織君も行くって言うだろうし、手間が省けて助かったよ」 一樹がサインした書類を聖は受け取ると、いつもの満面の笑みを浮かべて椅子から立ち上がり、まるで一仕事終えたように伸びをした。 そんな聖の様子に、一樹はずっと憧れてきた聖に裏切られた気持ちでいっぱいになった。 「俺…。聖さんにずっと憧れて、この世界に入ろうと思ったんですけど…。残念です…」 「それは悪いことをしたね。でも、僕は昔から欲しいものは必ず手に入れる。それだけで生きているから」 「…」 「じゃあ、リハーサルに戻ろうか。璃玖君のことは気にせず、いや、気にする必要がない…かな」 一樹に背を向け、部屋を出ようと歩き出そうとする聖に、一樹は声をかけて呼び止めた。 「…聖さん。最後に一つだけ聞いてもいいですか?」 「ん、なんだい?」 呼び止められ、足を止めた聖は、顔だけ一樹に振り向いてみせた。 「聖さんの本当に欲しいものってなんですか?璃玖自身ですか?それとも璃玖の作る歌ですか?」 一樹の問いかけに少し考えるように黙った聖だったが、一樹に向けた顔を元に戻し、入口のドアを見つめるにして答えた。 「…どちらでもないよ。僕の本当に欲しいものを手にするのは、もう少し先の予定だからね」 そう言い捨てて、聖は一樹がサインした書類を手に持ち、先に控室を出て行ってしまった。 「これでよかったのかな…。璃玖…」 一樹は目の前にして、もう名前を呼ぶことかの出来ないであろう璃玖の名前を、静かに呟いた。

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