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60.これから…

頬に優しく触れる手の感触に覚えがある気がして、璃玖は重たく感じられる瞼を、ゆっくりと開けた。 「いつ…き…」 「よかった…。やっと目を覚ましたんだね…」 璃玖の視界が、視点が定まらずぼやける中、安堵の笑みで顔を覗き込んできたのは、一樹ではなかった。 「聖さん…」 「その様子だと、ここにいるのが僕じゃ、残念だったかな?」 「残念…?」 まだ、頭がぼんやりしており、聖の言葉の意味がすぐに理解出来なかった璃玖だったが、目の前にいたのが一樹ではなく、聖だったことに落胆したことを意味していたのだと気が付いた。 すると、まるで霧が晴れたように璃玖の頭がはっきりしてくると、自分が病院と思われるベットに横になっていて、何故こうなったのか、次第に思い出されていった。 (僕、足にケガをしていて、それでバランスを崩して…) 璃玖が最後の記憶として思い出せたのは、ゆっくりと姿が遠くなっていきながらも、手を必死に伸ばしてくれた一樹の姿だった。 「一樹に…謝らないと…」 階段へと落ちていく瞬間、璃玖は自分がどうなってしまうのかということより、一樹が自分のせいだと責めてしまわないかと心配していたことを思い出すと、居てもたってもいられなくなった。 慌てて璃玖は上体を起こそうとするが、鉛のように重い身体を、ほんの少し動かすだけで激痛が走り抜け、とても動かせる状態ではなかった。 「ダメだよ。まだ安静にしていないと」 聖は璃玖の頬に添えていた手で璃玖の肩に触れると、起き上がるのを止めるように璃玖の身体をそっと押し、浮きかけた身体をベットへと戻した。 「あんな高いところから落ちて、骨折もしていないなんて奇跡だと思うけど、全身打撲だらけなんだから」 「でも、一樹に…。一樹に伝えないと…」 動けないことはわかっていても、璃玖の中では一樹に自分のことで罪悪感を与えてしまったかもしれないという不安と焦りでいっぱいだった。 「大丈夫。一樹君なら、ちゃんと事故だって理解してくれたよ。誰も…もちろん璃玖君も一樹君を責めたりしないって。だから、璃玖君は安心して大丈夫だよ」 聖は璃玖を落ち着かせるため、ゆっくり言い聞かせるように話すと、璃玖の前髪を掻き上げるように優しく撫で上げた。 「聖さん…」 璃玖はまだ不安そうな顔で聖を見つめるが、聖は安心させるように優しく微笑み、撫でていた手を離していった。 「大丈夫。璃玖君は自分で落ちたんでしょ?それに、璃玖君がケガをしたことは、居合わせた数人のスタッフと隼人、マネージャーぐらいしか知らないし、誰も一樹君のせいだとは思っていないから安心していいよ」 「じゃあ、一樹は…。一樹は誰にも責められないんですね。…よかった…」 安堵の溜め息をつく璃玖に、聖は今度は呆れたような表情を浮かべた。 「ったく。一樹君のことを心配するのは分かるけど、目を覚まさなかった璃玖君を、僕がどれだけ心配したか、分かってくれているのかな?」 「えっ!そんなに僕、眠っていたんですか?え、あれ、コンサートは…?」 記憶がすっぽり抜け落ちたように、落ちた瞬間から時間の感覚もない璃玖は、自分がどれだけ眠ってしまっていたのか、全く分からなかった。 璃玖は動かさせない身体の代わりに、目をキョロキョロさせて時計を探すが、個室の病室には時計は設置されていなかった。 だが、視界に入った病室の窓に目を向けると、薄いカーテンから差し込むのは月明りで、日が落ちて時間がかなり経過していることがうかがえた。 「今日、無事終わったよ。璃玖君が歌ってくれなかったのは残念だったけど、一樹君はしっかり、バックダンサーとして頑張ってくれたよ」 「そう…だったんですね…」 璃玖は一樹が不破の妨害もなく、無事ステージに立ってくれたことに胸をなでおろすと、自分が聖との約束を果たせなかったことに気が付いた。 「でも、それじゃあ僕は、聖さんとの約束を守れなかったってことですよね?」 「約束?ああ、璃玖君がステージに立つってことのこと?」 「そうです…。だって、それが一樹をツアーに連れて行く条件でしたよね?」 「あれ、そんなこと言ったっけ?」 「聖さん!」 とぼけるように首を傾げる聖に、璃玖は眉間に皺を寄せる。 「ごめん、ごめん。あれは璃玖君にステージに立って欲しかったから、ついね」 軽く笑いながら、聖はベットの脇に置いてあった椅子を引き寄せ座ると、璃玖の顔の近くで頬杖をつき、皺を寄せたままの璃玖の眉間に人差し指で触れた。 「大丈夫。一樹君は僕のツアーについてきてもらうよ。事務所と、本人の了解はもうとってあるから」 そう言った聖は、璃玖の眉間に触れていた人差し指を、そのまま璃玖の鼻筋をなぞるように指先を滑らせた。 「璃玖君は、本当に一樹君が…大事なんだね」 璃玖の鼻筋をなぞった指先は、今度は璃玖の唇の輪郭を形を確かめるように触れてきた。 「聖さん…」 「僕が璃玖君と一緒にいたいって話は、覚えていてくれているのかな?」 笑みを浮かべた聖は、椅子から立ち上がると、璃玖の顔の横に手をつき、顔を近づけた。 「えっ…」 「今、璃玖君にキスをしたら、抵抗されないのかな…?」 吸い込まれそうな聖の瞳に、璃玖は前に感じた感覚が思い出され、聖から目を離すことが出来なくなった。 (この感覚…) 初めて聖と出会った時に感じた、まるで逆らえないような、何かに飲み込まれそうになる感覚と、聖の運転する車に乗車した時の、熱が集中するような感覚によく似ていた。 「ねえ、璃玖君?僕じゃダメなのかな?一樹君じゃなきゃダメなの?」 唇が重なるあと数センチのところで、聖は顔を近づけるのを止めると、今度は少しだけ顔を離し、璃玖の目を覗き込むようにして見つめた。 「璃玖君?」 反応を示さない璃玖に、聖は心配そうな声で名前を呼ぶ。 「ご、ごめんなさい、聖さん」 ハッと我を取り戻した璃玖は、首を必死に何度も振った。 「僕は…」 (一樹のことが…) その言葉の続きを言いかけるが、璃玖は口を噤んだ。 一樹への気持ちは封印して、思い出だけで生きていこうと決意したことにも関わらず、気持ちを口に出してしまうと、いとも簡単にその決意は崩れ、溢れ出しそうになってしまったからだった。 そんな、何かを我慢するような璃玖の辛そうな表情に、何かを悟った聖は深い溜め息をついた。 聖はそのまま、璃玖に近づけていた顔を離し、椅子にもう一度座り直すと、腕組みをして璃玖を見つめた。 「はぁー…。そんなに一樹君のことが好きなのに、どうして璃玖君は一樹君から離れようとしたの?」 「えっ…?」 「一樹君から、璃玖君は僕と運命の番だから一緒にいることを選ぶって。だからスターチャートを辞めるって、そう聞かせれたけど…。やっぱり、僕を選んだから、ついた嘘じゃないんだね」 一樹についた嘘が、聖に知られていると思っていなかった璃玖は、思わず慌てふためいてしまう。 「え!あ、ごめんなさい…。僕…」 「運命の番の話を嘘に使ったことなら、別に気にしないでいいよ。それに、一樹君には話を合わせてから安心してくれて構わない。でも…。なんでそんな嘘をついたかは、僕に教えてくれるかな?」 「それは…」 璃玖は答えに困り、咄嗟に聖から目をそらしてしまう。 聖に、不破や伊織との出来事を話してしまうのは簡単だった。 だが、今話したところで、自分がスターチャートをクビになることは変わらず、動画のことを聖にも知られたくないと考えた璃玖は、何を話していいかわからず、言葉に詰まったまま黙ってしまった。 「やっぱり、これが関係しているのかな?」 一瞬、聖は表情を曇らせると、上着のポケットからスマホを取り出した。 (まさか…) 嫌な予感がし、璃玖の胸の鼓動が緊張で次第に早くなっていった。 「これについて、僕に説明してくれるかな?」 璃玖の嫌な予感は的中し、聖が見せてきたスマホの画面には、伊織に撮影された、あの時の動画が映し出されていた。 「それは…」 脅されたとはいえ、服を捲って肌を自ら曝け出し、自分のことをΩだと言っている動画の存在を聖に知られたことに、璃玖はショックを受け、顔色が見る見る青ざめていった。 「辞めたいからってわざわざ璃玖君自身で撮って、しかも、社長に誰が送ったか分からないようにして送信した、なんて言わないよね?」 「…」 「合成…ではないよね?やっぱり、璃玖君が辞めるって言ったことと、この動画は関係あるのかな?それに一樹君に、僕たちが運命の番だって話したことと…」 「ごめんなさい、聖さん!何も…何も、話せないんです。だからこれ以上は…」 「璃玖君…」 「ごめんなさい。ごめんなさい、聖さん…」 璃玖はこれ以上追及しないように、聖にただ、お願いすることしか出来なかった。 もし、何故こんなことになったのかを聖に知られてしまえば、事の発端に聖が関係していたことに聖も傷ついてしまうと璃玖は考え、本当のことは、聖にはとても言えなかった。 「僕が…。僕がΩで…そのことを隠して、みんなを騙していたのがいけなかったんです…。だから…」 「璃玖君…」 「僕がΩだから…」 璃玖は今にも泣きそうな声で、同じ言葉を何度も繰り返した。 「璃玖君…」 「聖さんがホテルの部屋に戻ってこなくなったのも、僕がΩだって気づいたからですよね?僕がΩで危険だから…」 「それは違う。璃玖君から離れていたのは、僕の勝手な都合だよ」 「いいんです…。僕なんか…。やっぱりΩなんて存在しちゃ…」 「璃玖君!!」 聖は大声で璃玖の名前を呼び、璃玖の両頬を両手で軽く叩くと、そのままその手で璃玖の頬を包み込み、璃玖の目を真っ直ぐ見つめた。 「そんなことを口に出してはいけない。璃玖君は何も悪くないんだから…」 「聖…さん…」 璃玖の目を見つめる聖の目は、憐れむでも、同情でもなく、璃玖の苦しみを理解したうえで、心配しているように璃玖には感じられた。 「ねえ、璃玖君。Ωであることは何も悪くないんだよ。Ωに対して責める権利も、蔑む権利も、傷つけるようなことをしても許される権利なんて、誰にもない!」 はっきりと言い切る聖の言葉と、見つめてくる温かい目、頬に伝わる聖の手の体温に、璃玖は胸につかえていた氷のようなものが、ゆっくりと溶かされていくような気持ちになり、溶けたものが代わりに涙になって零れそうになった。 「聖さん…僕…」 「ねえ、璃玖君。璃玖君がそんな考え方をしていたら、璃玖君を好きな人たちはどうしたらいい?それに、他のΩの人たちも、そうやって自分のこと卑下しないと生きてちゃいけないの?」 「…!」 聖に言われ、璃玖は自分が口に出そうとしていた言葉の重大さに気が付き、思わず息をのんだ。 (いけない…。こんな気持ちを持っては…。だって、それを最初に教えてくれたのは…一樹なんだから…) 璃玖の頬を包んでいた手を聖は離すと、璃玖の頭をまるで壊れ物に触れるように、優しく、数回撫でた。 璃玖は、聖の手の感触による安心感と同時に、呼吸を整えるように、ゆっくりと息を吸い込み、吐き出した。 「聖さん、ごめんなさい。僕…」 「わかってくれたかな?」 「はい…」 璃玖はゆっくりと頷いた。 「ふふっ。なんだか今日は、璃玖君を謝らせてばかりだね」 「そんな…。僕が勝手に謝っているだけです。でも…ありがとうございます。僕は…大事なことを忘れていたみたいです」 気持ちが落ち着いた璃玖は、聖ににっこりと笑いかけた。 「やっぱり璃玖君には…ずっと、そうやって笑っていて欲しいな…」 そう言った聖は、もう一度スマホを手に取った。 「璃玖君。僕は、君を守りたいんだ」 「守り…たい…?」 「そう。まず、この動画はね。社長から送られてきたんだ。でもね、社長には璃玖君が僕に向かって言ったものを、僕が勝手に隠し撮りしたやつだって言っておいたんだ」 「えっ…?」 「個人的に撮影したものを、誤って流出させちゃったってね。おかげで、少し騒がしくなるかもしれないって伝えておいた」 「どうして、そんな嘘を…。ダメです。だって…」 璃玖は必死に首を横に振るが、聖もゆっくりと首を横に振った。 「だっては…なしって約束しただろ?璃玖君、僕がこの動画について何も予想出来ていないと思っている?大方、何があったのかぐらい予想はついているんだよ」 「それなら…それなら余計、聖さんをこれ以上巻き込むわけには…」 「違うよ。僕が勝手にやったことだ。璃玖君は気にする必要はない。といっても、社長はカンカンだから、ちょっと冷却期間が必要なのと…」 言葉を続けようとする聖に躊躇いがみられ、璃玖も、聖が何を言おうとしているのか予想はついた。 「僕がΩかもしれないってことが…問題になっているんですね」 「…正直に言うとね。第二次性…Ωかどうかは機密事項だから、事実かどうかは調べようもない。璃玖君が違うと言い張れば、それまでだ。でも、璃玖君がこれから目指すものは、おそらく違うんじゃないかなって、僕は思うんだ」 「僕が目指すもの…?」 「そう。だから僕を信じて、全部、任せてくれないかな?」 「うん。それじゃあ、詳しい話はまたあとでしよう。とりあえず、璃玖君が目を覚ましたことを、ナースステ―ションに報告してくるね」 聖は璃玖の病室を後にすると、すぐ近くのナースステーションには向かわず、薄暗い廊下を進んでいった。 すると、明かりのついた部屋に辿り着くと、そこは待合室で、大人数で座れる大きなソファーでは、一樹が膝の上に肘をついて頭を抱えるように座っていた。 「璃玖君、目を覚ましたよ」 一樹の隣に腰かけた聖は、ソファーの背もたれに体重を預けた。 「よかった…」 心から安堵し、天井を仰ぐように見つめた一樹は、そのまま何かを決意したようにスッとソファーから立ち上がり、聖に背を向けた。 「璃玖君に会っていかないの?」 「…。目を覚ましてくれたなら、もう…いいです。俺は、このまま璃玖には会わずに、璃玖の前から消えます」 聖に背を向けていたため、、一樹がどんな表情をしているかは聖には分からなかったが、一樹の手は拳が強く握られていた。 「そう。じゃあ、璃玖君には僕から話しておくよ」 「…ありがとうございます。俺…。必ずデビューしてみせます。だから…璃玖のこと、守ってください」 一樹は聖に深く頭を下げてお辞儀をすると、そのまま聖と目も合わせないまま、待合室を出て、薄暗い廊下へと足早に向かっていった。 「本当に君たちは…」 一樹の背中を、呆れたように見つめながら呟いた聖は、軽く伸びをしてソファーから立ち上がり、一樹と同じように待合室を後にした。

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