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62.璃玖の決意

天沢は黙って頷くと、璃玖を軽く支えるようにしながらリビングに移動させ、ソファーに座らせた。 「今、温かいお茶を淹れますね」 「あっ…。僕、天沢さんのミルクティーが久々に飲みたい…って我儘言ってもいいですか?」 「もちろんですよ。喜んで」 お願いしにくそうに言う璃玖に対して、嬉しそうに、にっこりと笑った天沢は、そのままキッチンに向かいエプロンをつけると、ミルクティーを作り始めた。 そんな天沢を見つめていた璃玖だったが、ふと、天沢の後ろ姿を目にしたとき、天沢のうなじに、番の証の噛み跡があることを思い出した。 (番…か…。一樹となれたら…僕は、幸せだったのかな…) そんなことを考えた璃玖は、ソファーの背もたれに体重を預けると、軽く上を向き、目を瞑った。 (たった一か月くらいだったのに、本当に色々あったな…) ここを出てからの話を天沢にするため、璃玖は今までの出来事を遡るように思い出していった。 「璃玖様、やはりお疲れなのでは…?」 いつのまにか、ティーカップと焼き菓子を載せたお盆を持った天沢が、心配そうな表情を浮かべてソファーの横に立っていた。 「大丈夫ですよ」 天沢を安心させるように笑みを浮かべた璃玖に、天沢はまだ心配そうな表情のまま絨毯に膝をつくと、ソファーの前のローテーブルに運んできたものを並べた。 「いただきます」 目の前に置かれたカップを手に取った璃玖は、ミルクティーから、どこか柑橘の爽やかさを感じる心地よい香りがすることに気付き、思わず安堵の吐息を漏らした。 「いい香りですね。僕、好きです」 「気に入っていただけて何よりです。この茶葉の香り、実は璃玖様にぴったりだと思い、選んでおいたものなんです」 璃玖の落ち着いた表情に少し安心した様子の天沢は、空いたお盆を片手に立ち上がろうとするが、璃玖は急いでカップをソーサーに戻し、呼び止めるように天沢のエプロンを掴んだ。 「天沢さん、僕の隣に座ってくれますか?」 「お隣にですか?ですが…」 「出来れば…近くで話したくて…」 天沢は一瞬、立場を考え困った顔をしたが、璃玖が思いつめたような表情をしていたため、ゆっくりと頷いた。 「わかりました」 「ありがとうございます」 まるで、安心したように天沢のエプロンを掴んでいた手が離されると、天沢は璃玖のすぐ隣に腰を下ろした。 璃玖はもう一度ティーカップを手に取ると、そのティーカップは、先月頃ここを訪れた時に出してくれた、椿の花が描かれたものであることに気付いた。 天沢が覚えていてくれたのだと、妙に嬉しくなった璃玖は、少し笑いながら、ティーカップに口をつけた。 「おいしいです。そういえば、おしゃれなテラスがあるカフェに連れて行ってもらっって、ミルクティー飲んだんですけど…。やっぱり、天沢さんのが一番おいしいですね」 「そう言っていただけると嬉しいです。それに、これから毎日、璃玖様に飲んでいただけると思うと、なんだか秘書をしていた時を思い出します」 「…。そうですよね。これから、毎日飲めるんですよね」 何気なく天沢に言われた『毎日』という言葉に、璃玖は改めて、この部屋でこれからずっと過ごしていくのだと、実感が沸いてきた。 両親と離れ、ここで一人で暮らしていくことは、寂しくないと言えば嘘になるが、璃玖は自分の決めたことを思い出すと、持っていたティーカップをゆっくりと机に置かれたソーサーへと戻した。 「やはり、お寂しいですよね?」 璃玖の表情が変わったことに気付いた天沢は、心配そうに声をかける。 「大丈夫ですよ。もう、決めたんです。僕は一人で生きていくって」 「お一人…ですか?」 「はい。それを決めたので、ここに来たんです」 「それは…。いえ、失礼しました」 天沢は何かを言いかけるが、首を振って璃玖の顔を見つめなおした。 すると、璃玖は目を軽く瞑り、それから数秒後、ゆっくりと目を開けると、一呼吸置き、どこか遠くを見つめた。 「家に戻ってから、本当に色々あったんです…。長くなるんですが、聞いてくれますか?」 「…。もちろんです」 頷いてくれた天沢に、璃玖は一樹にも聖にも話さなかった今までの出来事を、思ったこと、感じたこと合わせて、包み隠さず話していった。 一樹に告白されたこと。 発情期が抑えられないことを一樹に話し、将来、番になろうと約束したこと。 そのためにデビューを目指したこと。 聖と出会い、曲作りを頼まれたこと。 隼人を紹介され、ポスター撮影をしたこと。 聖が託された、書きかけの歌詞のこと。 相良と榛名が、運命の番だったこと。 一樹に誤解されたこと。 伊織に誤解されたこと。 動画を撮影されたこと。 一樹から離れようと決め、嘘をついたこと。 階段から落ちて、病院で目が覚めたこと。 そして、何も言わず、一樹が聖のツアーに伊織と旅立ってしまったこと。 順序立てて整理しながら話すせいか、不思議と第三者視点のように客観的に出来事を捉えられ、璃玖は感情を出すことなく、淡々と天沢に伝えられた。 「ねえ、天沢さん。一樹は何も言わずに行ってしまいましたが、それって、僕のこと、きっと諦めてくれたからですよね。だって、Ωの僕より、伊織君とのほうがうまくいくだろうし、僕がいなくても…。だから…」 「璃玖様!」 璃玖の言葉は、急に天沢によって遮られた。 それは、天沢が立ち上がり、璃玖をまるで包み込むように抱きしめたからだった。 「なぜ…。何故、璃玖様ばかり、そんな辛い思いをされないといけなかったんですか…。お願いですから、どうか、私の前だけでは強がらないでください。璃玖様は、私の想像では計り知れないぐらい、お辛かったはずです…」 「天沢…さん…」 「泣いても、大丈夫なんですよ…」 「天沢さん…!」 天沢の優しい声と、服越しでも伝わってくるぬくもりに、思わず璃玖は天沢に言われるがまま、涙が溢れそうになる。 だが、璃玖は我慢するように奥歯を軽く噛み締めると、首をゆっくりと振って、天沢から顔を離した。 「璃玖様…」 天沢からそっと顔を離した璃玖は、天沢を安心させるように顔を上げ、優しく笑った。 「大丈夫ですよ。もう、どんなことがあっても泣かないって決めたんです。強くなるって。一人で生きていくために」 (そう、強くならなきゃいけないんだ…) 「…。璃玖様が言う『一人で生きていく』というのは、番を作られないということですか?」 天沢の問いかけに、璃玖はゆっくりと頷いた。 すると、天沢は思いつめた顔で絨毯に両膝をつくと、ソファーに座り膝の上に置かれていた璃玖の手を、先ほど抱きしめた時と同じように、包み込むように握った。 「天沢…さん?」 「璃玖様…。正直、私は後悔しています」 「えっ…?」 「浩二郎様は、璃玖様に抑制剤が効かない可能性を事前に知ってもらい、もし発情期が抑えられない時、無理に番を作って抑制しなくても、Ωとしての人生を、少しでも楽に過ごせるようにとのお考えで、璃玖様にこの部屋を残されました」 まるで懺悔をするように俯き気味で話す天沢が握る手から、璃玖は微かな震えを感じた。 「でも…。私が、言いつけを守らず、つばき様の出来事を話してしまったがばっかりに、抑制剤が効かない不安ばかりをあたえ、璃玖様を追い詰めてしまった…」 「それは違います!天沢さんがすべてを話してくれて、その上で、一樹と話すように言ってくれなかったら…。僕はきっとあの時、すべてを放り出していました。僕にとって、あの時の話は希望になったんです」 「璃玖様…」 「きっと…。羨ましかったんだと思います。お祖父様とお祖母様、そして天沢さん。番がいて、幸せに過ごしていて…」 天沢が握ってくれていた手を、今度は璃玖から強く握り返した。 「僕も、いつかそうなれたらなって、頭の片隅にあったかもしれません。抑制剤が効かない不安がなかったといえば、嘘になります。でも、番が欲しかったわけじゃありません。欲しかったのは一樹自身なんです。αの一樹ではなく、隣に並んでいたい、支えたいと思った一樹なんです」 「璃玖様…」 「ねえ、天沢さん。僕、一樹への気持ち、忘れたり、抑え込むんじゃなくて、残しておきたいって思ったんです」 「でも…それでは璃玖様は…」 「だから、一人で生きていこうって決めたんです。僕に出来ることをして、一樹を支えながら生きていこうって」 笑った璃玖は、それから、病院で目が覚めてから聖と話した内容を話し始めた。

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