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63.新たなスタート
「璃玖様!」
「あっ、ごめんなさい、天沢さん。ちょっと考え事を…」
「もう…。私がどれだけ心配しているか、ご理解いただけているのでしょうか…。寝不足なんて、せっかくの璃玖様の綺麗なお顔が台無しですよ」
一人でこのマンションの部屋に住むようになって二年がたった璃玖は、身長はあまり伸びなかったが、顔はますます、写真に残っていた祖母のつばきに似ていった。
あどけなさを感じさせていた丸みをもった顔の輪郭はなくなったが、目の大きさのせいか、どこか幼さを残しつつも、中性的で雰囲気のある整った顔に成長していた。
手に持っていた買い物袋を足元に置いた天沢は、パソコンの前に座っていた璃玖の目元に指先で触れると、軽く皮膚を引っ張り、瞼の裏側の色を確認した。
「ほら、貧血気味ですよ。健康であることが、抑制剤の効能がですね…」
小言を言い始めた天沢に、逃げるように椅子から立ち上がった璃玖は、天沢の足元に置かれた買い物袋を手に取った。
「僕より、天沢さんのほうがよっぽど綺麗ですよ。それに天沢さんの笑顔は癒されますし。番さんが羨ましいです」
「璃玖様!揶揄わないでください!」
怒りつつも、何かを思い出したかのようにどこか照れた様子から、璃玖は天沢の番も同じようなことを天沢に言っているのだと容易に想像がついた。
(ああ、好きな人…。しかも、番とずっと一緒にいられるのって、やっぱり幸せなんだろうな…)
そんな考えが頭を過ぎり、璃玖は気持ちを覆い隠すように笑みを浮かべた。
「本当に天沢さんって可愛いですよね。じゃあこれ、キッチンまで運びますね」
璃玖は手に取った買い物袋を持って、天沢の脇を足早にすり抜けると、表情の変化に気付かれないよう、キッチンへと向かった。
(毎回のことだけど、曲作り中は一樹のことばかり考えるせいか、終わった時のこの虚無感は…反動なんだろうな…。一樹の声…聞きたいな…)
二年前、数日入院をしていた璃玖の元を、一樹は尋ねることも連絡もないまま、伊織と聖のツアーに付いて行ってしまった。
最後に見送ることも出来なかった璃玖は、それから一樹に一切連絡をとっておらず、これからも決して会わないと決めていた。
それは、黙って出発したということは、一樹も諦めて、璃玖とは今後会わないと決めたからだろうと思う反面、運命を変えてみせる、好きにさせてみせると言っていた一樹の言葉を、期待で待っている自分が今でもいたからだった。
(一樹…)
心の中で名前を呼ぶだけで、会わない時間が長くなればなるほど、胸の締め付けは強くなるばかりだった。
『璃玖君が一樹君への気持ちを曲にしたものを、僕に歌わせて欲しい』
病院で聖に提案されたことは、曲作りをすることだった。
急に言われた聖からの提案に、璃玖は迷いながらも頷いて返事をした。
その時の璃玖には、一樹への想いを抑えつけていくことしか考えつかなかったが、聖の提案によって、想い続けても許されるものだと思えたからだった。
ただ、伊織が撮影した動画がある以上、璃玖が表立って活動するわけにもいかず、璃玖は覆面で聖に曲を提供することにした。
研修生は辞めることになったが、璃玖がΩだと伝えても聖による社長への説得のおかげで、璃玖はスターチャートのソングライターとして、そのまま在籍を許された。
そのため、璃玖が覆面で聖に曲を作っていると知っているのは、聖以外では、天沢とスターチャートの社長だけだった。
「天沢さん、ここに置きますね。それにしても今日はいつもより、買い物の量が少ないんですね」
冷蔵庫の横に買い物袋を置いた璃玖は、買い込まれた食材の量に違和感を覚えた。
天沢は、璃玖のために作り置きや下ごしらえをまとめて行ってくれるため、一度の買い物で結構な量の食材を買い込んでくるのが日課だったが、今日の量は、それの半分ほどしかなかったからだった。
「えっ、ええ。今日は…その…雨が、雨が降っていたので」
「あ、本当だ。気づきませんでした。すみません、それなのに買い物してくださって。それに、寒かったですよね」
曲作りに使っている部屋は窓がなく防音が施してあったため、璃玖は外で雨が降っていることに全く気がつかなかった。
そのまま雨の具合を確認するためリビングの窓に向かった璃玖は、カーテンを開けると、分厚い雲が空を覆い、朝とは思えないほど薄暗く、大粒の雨が降っていた。
(雨…。一樹が僕の家に尋ねてきた時も、こんな雨が…)
窓ガラスに璃玖は指先をそっと触れさせると、触れた指先から次第に体温が奪われるように冷たくなっていく感覚に、昔の記憶が呼び覚まされるようだった。
(バスルームで触れた一樹の唇も、これくらい冷たくて…)
「璃玖…様?」
買ってきた食材を冷蔵庫に仕舞う手を止めた天沢に、心配した声で声をかけられた璃玖は、ハッとして、何事もなかったかのように笑顔で天沢に振り返った。
「天沢さん。今日は、久々にゆっくりと天沢さんとご飯が食べたいなー。和食とか」
窓ガラスに触れていた指先を離し、カーテンを閉めなおした璃玖は、天沢の料理をする姿がよく見える特等席のダイニングテーブルの端の席についた。
「ゆっくりお食事できるということは、お仕事は無事、終えられたんですか?」
「はい。これからチェックが入って、少し修正があるかもしれないんですが、とりあえずは」
「それは、お疲れ様です。それでは、おいしいものを作らないと!」
璃玖にガッツポーズをしてみせた天沢に、璃玖は思わず笑いが零れてしまう。
「天沢さんの料理は、いつでもおいしいですよ」
「そういっていただけると、嬉しいです。それに、お仕事終えられたということは、また璃玖様の新曲が聴けるわけですよね。しかし、私はいつか、聖様ではなく、璃玖様ご自身が歌われているのを聴いてみたいです」
「そんな、僕の歌なんて…。聖さんが歌ってくれるからこそ…」
「いえ、璃玖様の作られる曲は、すばらしいです。きっと、璃玖様が作られていると知らなくても、私は好きになっていましたよ」
「天沢さん…」
「正直私は、Ωだということを公表することは反対でした。この世界は、まだΩには厳しい目を向けますから…。傷つく必要のないところで、璃玖様が傷つかれるのではないかと心配で…。けれど璃玖様は、どんな誹謗中傷にも屈せず、きちんとご自身の力で、今のご自身の居場所を作られました。私は、そんな璃玖様を尊敬しております」
璃玖が曲を作ることが決まり、聖から唯一提示された条件は、璃玖だということは隠しても、Ωが作ったということと、そして聖自身はαだということを公表することに了承するというものだった。
何故、そのような条件を聖が出したのかは璃玖には分からなかったが、人気絶頂の聖が、あえてそんなことを公表して発表した璃玖の初めての曲は、世間に様々な衝撃を与えた。
覆面ということもあり、Ωということは嘘であるや、αである聖の話題作りに利用したと、様々な憶測や非難もあった。
それでも聖は、根気強く、璃玖の曲を次々に歌い続けたおかげで、璃玖の作る曲は確実に世間に認められていき、今では聖以外からも仕事の依頼が届くほどだった。
そして、そんな聖の活動のおかげで、第二次性の性差別撤廃が更に見直され、今まで、ヒートが引き起こされるのはΩの責任という風潮が、α側も対策をとるべきだという考えに世の中が変わりつつあった。
「そんな…褒めてもらえる、綺麗なものじゃないですよ。例えΩだって公表していても、僕だということは隠したままですしね。そんなんじゃ…」
「いえ、璃玖様はすごいです!璃玖様の作る曲は、強くもあり、受け止めていただける優しさを、私は感じます。璃玖様の曲に、働きに、勇気づけられた方もたくさんいますよ」
「本当…ですか?」
「ええ。私は、同じΩとして、璃玖様を誇りに思います」
「天沢さん…」
Ωということを公表していても、覆面で行っていることに後ろめたさをずっと感じていた璃玖は、天沢の言葉に気持ちが救われたような気がして、思わず涙がこみあげそうになってしまう。
「いけませんね。私としたことが、主人を空腹でお待たせしては。さて、何にしましょうか」
天沢は璃玖に気を使ってか、璃玖に背を向け冷蔵庫に向かうと、食材を確認しだした。
(ありがとうございます、天沢さん)
言葉にしてしまうと、本当に涙が零れそうになってしまいそうで、璃玖は心の中で天沢にお礼の言葉を告げた。
「そういえば、聖さんにテレビをつけておくように言われてたんだった」
璃玖は慌ててダイニングテーブルに置いてあったリモコンを手に持つと、テレビをつけ、聖に言われていたチャンネルに合わせるが、いつもと変わらない朝の情報番組だった。
「聖様が写るんですか?」
「どうなんでしょう?詳しいことは何も言ってくれなくて」
天沢がキッチンに立つと聞こえてくる心地よいリズムの物音を、璃玖は片耳で聴きながら、なんとなくテレビの画面を見つめていた。
すると、コーナーが切り替わり、画面にはスタジオと中継が繋がった聖が映し出された。
「これって生…?っということは、さっき話していたのは本番前ってこと?本当に聖さんって…」
璃玖は、聖の緊張しない性格が羨ましく思いつつ、リモコンをもう一度手に持つと、音量を上げた。
『聖さんは明日の公演が終えられると、ツアーの最終公演のために、いよいよこちらに戻られるご予定なんですよね?』
『ええ。ただ、その前に。実はテレビの前の皆様にお伝えしたいことがありまして』
『それは…!もしかして、ご結婚ですか?!』
『いえいえ。実は私、聖は、来月のコンサートをもって、音楽活動を休止することにいたしました』
「えっ?!」
聖の急な発表に、全く聞かされていなかった璃玖は驚き、思わず椅子から立ち上がってしまう。
『それは引退っということでしょうか?』
『いえ、これは僕の勝手なんですが、音楽活動以上に挑戦したいことがありまして。ただ、僕が活動を休止する前に、皆様には最初で最後ですが、僕がプロデュースするアイドルユニットをお披露目したいと思っています』
(聖さんがプロデュース…。そっか、一樹と伊織君、こっちに戻ってきたらデビューが決まったんだ。それなら…)
璃玖は、聖の話の途中だったが、椅子に座りなおすと、握っていたリモコンでテレビの電源をオフにした。
「璃玖様…」
「天沢さん。とうとう僕の夢、叶える時がきたみたいです」
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