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68.璃玖と伊織
「いつから、気付いていたの?呼び出したのは一樹じゃないって」
「なんとなく、メールが届いた時から…。一樹が僕に会おうって言うとは、思えなかったから」
「なにそれ。意味が分からないんだけど」
「分からなくていいよ。僕と一樹の問題だから」
伊織が嘲笑うように言ったのに対し、璃玖は決して動じず冷静に答えた。
その璃玖の態度に、伊織は益々目を吊り上げた。
「へー…。神山はずいぶん生意気なこと言うようになったんだね。前は、僕に睨まれただけで、ビクビクしていたのにね!」
伊織は声を荒げると、璃玖の座っていたパイプ椅子の脚を思いっきり蹴飛ばした。
蹴飛ばされたパイプ椅子はバランスを崩し、身体を結びつけられていた璃玖は、パイプ椅子と一緒に横転し、身体を床に強く打ち付けた。
「痛っ…」
手を固定されているため受け身をとることが出来なかった璃玖は、肩からコンクリートの床に打ち付けてしまった。
璃玖は痛みで声も出ないまま顔をしかめるが、伊織はまるで虫けらを見るような冷ややかな目で、璃玖のことを見下した。
「Ω風情が調子に乗るなよ」
床に横たわったまま痛みで動けない璃玖の前髪を、伊織は掴み上げ、先ほどのように無理やり顔を自分に向かせた。
「一樹に聞いたよ。神山って、本当にΩなんだってね…」
(一樹…に…?)
璃玖は身体に残る痛みで、まだ声を出すことが出来ず、うっすらと開けた目で伊織を見つめた。
「聖さんは知っているのかなー?神山がΩだってこと。もし知らなかったら」
「知って…るよ…」
璃玖は息を弾ませながら痛みを我慢して、必死に話を続けようとする。
「聖さんは…それで…も僕の…ことを…」
「選んだって?ふざけるなよ。やっぱり、聖さんを誑かしているから、僕じゃなくてお前が選ばれたんだろ?この、汚いΩが…」
「選ばれ…るって…何に…?」
「しらばっくれないでくれる?お前、一樹とデビューするんだろ?」
「…えっ?僕と…一樹が…デビュー…?」
伊織の言っている意味が分からず、璃玖は思わず伊織に聞き返してしまう。
「打合せ済み…か。そうやって、初めて聞きましたーみたいに、みんなの前で演技するんだろ?」
「ちょっと…待って…伊織…君。何を…言って…」
「ふんっ…」
投げ捨てるように璃玖の掴んでいた前髪から手を離した伊織は、立ち上がり、璃玖の前に置かれていたもう一つのパイプ椅子に足を組んで腰かけた。
璃玖はいったん呼吸を整えようと、思いっきり息を吸いこんでから吐き出すと、身体を捩じって上半身を起き上がらせようとした。
だが、後ろ手で繋がれた手錠と足がパイプ椅子と固定されているため、これ以上身動きをとることが出来ず、顔だけを上げて伊織を見上げた。
「待って、伊織君。何か誤解を…」
「どうせ、僕がこの二年間を無駄に過ごすのを、聖さんと一緒になって笑っていたんだろ?お前から見て、僕はさぞ滑稽だったろうね。全部、あの時の仕返しのつもり?」
「ま、待って、伊織君!それは誤解だよ!僕はデビューの話なんか知らない。それに、聖さんがデビューさせようとしているのは、伊織君と一樹だよ」
「今更いいよ、そんな嘘つかなくて。どうせ、僕が動画を撮って脅したことを、聖さんに話したんでしょ?」
目は笑っておらず、口元だけ冷ややかに笑う伊織に、璃玖は必死に首を横に振って伊織に違うと訴えかけた。
「聖さんはあの時の…あの動画の詳しいことは何も知らない。動画の内容は、社長が聖さんに送って知られちゃったけど…。誰に撮られたとか、僕は一切話してない」
「じゃあ、なんで僕じゃなくて、お前なんだよ!!」
悲痛に叫ぶように言いながらパイプ椅子から立ち上がった伊織の目は、今にも涙が零れそうなほど潤んでいた。
「伊織君…」
「一樹のレベルに合わせてダンス出来るのは僕だけだ!僕が一樹を一番引き立てられる!一樹の隣に相応しいのは僕だけなんだ。昔からそうなのに…。どうしてみんな…お前ばっかり…」
伊織は零れそうになる涙を堪えるように、上を向いて目を瞑った。
「伊織…君…」
いつも自信に溢れていて、決して弱さを見せなかった伊織の見たことのない姿に、璃玖は動揺してしまう。
だが、伊織はすぐに我を取り戻したかのように、涙がおさまった目で璃玖をまた睨みつけた。
「どうせ、一樹みたいにΩだってバラして、聖さんにも憐れんでもらったんでしょ?それとも、やっぱり不破さんの時みたいに迫ったわけ?一樹も聖さんもαだもんね」
「あの時の…不破さんのことは誤解なんだ。勝手に肩に手を回すようにされて…。そうしたら、あっという間にキスされて…」
「そんな話、僕が信じると思う?」
「でも、伊織君だって、聖さんはΩだからって憐れんだり、差別するような人じゃないって知っているでしょ?もちろん一樹も…」
「お前に一樹の何がわかるんだよ…。僕の方が一樹とずっといたのに、なんでお前なんかに奪われなきゃ…。お前は一樹を好きだといいながら、αの一樹を利用しようとしたんだろ?発情期を抑制出来ないなんて嘘ついて、番になる約束なんかして…。一樹の優しさにつけ込むなんて、そんなの絶対に許さない!」
「…」
「何?言い返すこともできないの?」
「…。たしかに、僕は二年前、一樹を利用しようとした…」
伊織は璃玖のその返事を待っていたかのように、嬉しそうに笑った。
「ほらね、やっぱりお前は汚いΩなんだよ!だから」
「でも!!」
璃玖は伊織の言葉を遮るように大声をあげた。
そして伊織に伝わるよう、璃玖はそのまま大声で訴え続けた。
「それは一樹が好きで、一樹のそばに、ずっといたかったからだ!αとか、Ωとか関係ない!ただ、一樹の隣にいたかったからだ!!」
「うるさいっ!黙れ!!」
伊織は自分が座っていたパイプ椅子を持ち上げると、横たわる璃玖に向かって投げつけた。
投げられた椅子は、璃玖にぶつかりはしなかったものの、地下室には、パイプ椅子がコンクリートの床にぶつかった、けたたましい金属音が響き渡った。
その音に驚いた璃玖は、思わず目を瞑る。
その隙に、伊織は璃玖の上に馬乗りになると、璃玖の白くて細い首に手を伸ばし、力を込めた。
「アッ…くっ…」
(息…が…)
「どうせ、αの一樹に本能で惹かれただけだろ!!ほら、さっさと認めろよ!一樹のことなんか好きじゃないって!利用しただけだって!」
伊織は璃玖の首から片手を離すと、ポケットからスマホを取り出した。
そして璃玖の顔にスマホの画面を押し付けるようにしながらあの時の動画を再生し、見せつけた。
「ほら!覚えているだろ、この動画!!あの時は、社長に送っただけだけど、今度はこれをネットに配信しちゃうよ。そんなの困るだろ?だから、さっさと言いなよ。そうしたら、ここから解放してあげるよ」
璃玖は伊織に首を絞められながら、息も絶え絶えになりつつ、首を動かせるだけ横に振った。
「絶対に…言わ…ない…」
「は?なんだって?」
「僕は…。一樹への…気持ちだけは…絶対に嘘は…つかないって決め…たんだ…。何が…あっても…もう、この気持ちだけは…絶対に否定しないって…決め…たんだ」
「ふざけるな!お前は一樹の隣にふさわしくない!!頼むからさっさと言ってよ…。お前がいると…僕は…僕は…」
言葉に詰まった伊織は、璃玖の首に回した手の力を緩めると、涙を零し始めた。
「お前さえ…いなければ…」
璃玖の頬に零れ落ちてくる伊織の涙は、璃玖を見つめる冷たい目とは裏腹に、優しく、温かいものに。璃玖には感じられた。
「けほっ…伊織…く…ん…」
涙を零しながら璃玖を睨みつける伊織の目の奥底に、璃玖は伊織の別の感情が垣間見えた気がした。
(やっぱり伊織君は…)
璃玖は呼吸を整えると、そんな真剣にもう一度、まっすぐと見つめた。
「ねえ、伊織君。僕がここに来た理由は…。伊織君ともう一度、話したかったからなんだ」
「僕は…お前と話すことなんて、何も…」
「ううん。ちゃんと聞いて欲しい。僕はこの二年間、ずっと曲を作り続けてきたんだ。それは…僕が一樹と伊織君のデビュー曲を作りたかったから」
「曲…?」
「聖さんに頼んでいたんだ。僕がきちんと実力をつけたら、二人のデビュー曲を担当させて欲しいって」
「曲って…。まさか、聖さんの曲を作っているΩって…」
「僕だよ…」
「ま、まさか…。じゃあΩが作ったっていうのは本当で…。しかも、お前が作ったっていうの…?嘘でしょ…」
伊織は信じられないといった顔で、首を何度も横に振った。
「僕は…曲を作ることで、一樹を支えようって決めたんだ。だから、一樹とデビューする伊織君に、僕自身を認めて欲しかったんだ。それで今日、ここに来たんだ」
「何だよそれ…。認めるって…何をだよ…。僕が認めなくたって、お前の曲は…」
「僕は、伊織君に認めて欲しかったんだ。僕はずっと、Ωであることを逃げ道にしていた。実力がないことをΩってことを言い訳にしていた。一樹に釣り合わないし、伊織君にも敵わないって…。きっと、そういう気持ちが伊織君には分かってしまっていたんだど思う。だから、そんな僕が、伊織君の場所を奪ってまで、一樹のそばにいようとするなんて、許せなかったんだと思う」
「…」
「僕が…伊織君を苦しめていたんだと思う。本当にごめん…」
「かみ…やま…」
伊織が呆然としていると、階段を下りてくる足音が地下室に響き渡った。
「ねー、ねー。そろそろ、俺も混ざってもいいかな?」
「不破さん…」
伊織は慌てて目から涙を拭うと、璃玖の上から退き、立ち上がった。
「不破さん。まだ話の途中なので…」
「あれ、お姫様泣いちゃってたの?璃玖君に俺の楽しみとられちゃったのかな?」
「何を言って…」
苛立った顔で不破の方を向いた伊織は、さらに顔をしかめた。
「なんですか、それ…」
「ああ、これ?」
不破は伊織と璃玖にハンディカメラのレンズを向けながら、ゆっくりと近づいていった。
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