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70.発情期誘発剤

璃玖が顔を背け目を瞑ったのは、ハンディカメラの液晶画面に映し出されたのが、二年前、あの出来事があった控室で撮影されたものだと気付いたからだった。 一樹を助けるためだったとはいえ、不破に要求された屈辱的な言葉と恰好が璃玖の脳裏に思い出され、璃玖はそのまま耐えるように唇を強く噛んだ。 だが、目を瞑ったままの璃玖の耳に聴こえてきたのは伊織と不破の会話だった。 『本当にここ、誰も来ないんですか?』 『大丈夫、大丈夫。ちゃんと確かめたって』 (えっ…?) 状況が理解出来ず璃玖は瞑っていた目を開けると、液晶画面に映し出されていたのは、伊織に撮影された動画とは全くの別物だった。 『じゃあ、僕はこのカーテンの中に隠れているんで、ちゃんと神山を連れて、そこの机に座らせてくださいね』 『はいはい』 (これは、僕が来る前の…) 「ほら、声までばっちりだって言ったでしょ」 不破は満足気にニヤニヤしながら、ハンディカメラの停止ボタンを押した。 「…。やって…くれましたね…」 伊織の立っている場所からは映像を確認することは出来なかったが、音声だけでどんなものが映されいるか理解した伊織は、慌てることなく、ただ笑みを浮かべた。 だが、後ろ手で手錠で繋がれた伊織の手には拳が作られ、手のひらに爪痕が残りそうなほど、強く握られていた。 「音声だけでも録れたらラッキーって思っていたけど、角度もバッチリで助かったよ」 不破は話ながらゆっくり歩き出すと、璃玖の座るパイプ椅子の背後に立った。 そして、背凭れに片手を置き、反対の手で璃玖の髪を数本の束の状態にして軽く指でつまみ上げると、そのまま悪戯をするように指に絡めた。 「璃玖君って、本当に綺麗な黒髪だよね。顔はお姫様が好みなんだけど、髪は断然璃玖君の方がそそられるよね」 まるで伊織に見せつけるかのように、不破は自分の指に絡めた璃玖の髪に顔を近づけた。 そのまま璃玖の髪に唇を落とした不破は、そっと璃玖の耳元で囁いた。 「このまま璃玖君が抵抗したり逃げようとすれば、お姫様を目の前ですぐに犯しちゃうから。だから、大人しくしていてね」 ゲームを楽しむかのように笑みを込めながら言う不破に、璃玖は恐怖で鳥肌が立った。 (玄関はたしかに鍵が閉められていた…。今、手を拘束されたままの伊織君が逃げても、きっと追いつかれるだけだ…) 璃玖には今すぐこの状況を打破できる案が浮かばず、今は仕方なく、不破の言葉に従うしかなかった。 不破は口づけた璃玖の髪から、そのまま唇を滑らせると、今度は璃玖のうなじに啄むような音をさせながら唇を当てた。 その音と感触に璃玖は背筋に冷たいものが走ったが、首筋に感じる不破の吐息に、あることを思いだした。 (そういえば、一樹も聖さんも…二人とも様子がおかしくなった時、僕の首筋に顔を近づけていた…) 突然一抹の不安がよぎった璃玖は、慌てて首を振って、不破が首筋から顔を離すように抵抗した。 「ほらほら、暴れないで…」 そんな璃玖の抵抗を抑えるように、不破は璃玖の耳たぶを軽く噛んだ。 「ひっ…!」 思わず声を上げてしまい一瞬動きを止めた璃玖の反応に満足したのか、不破は璃玖から顔を離した。 「そんなに嫌がらなくてもいいのに」 わざと大きな溜め息をついてみせた不破は、一樹や聖のように冷静さをなくすこともなく、いたって普通のように璃玖には見えた。 (あれ…?この人もαなのに、一樹や聖さんみたいにならない…。どうして…?) 璃玖は一樹と聖との出来事の記憶を辿ってみる。 (一樹のは抑制剤をまだ飲んでいなかったことが原因だと思っていたけど、ちゃんと飲んでいても、聖さんの様子が一瞬おかしくなった時があった…。でも、考えてみれば隼人さんもαで僕の髪を触るときに首筋に顔を近づけていた。じゃあ…) 抑制剤が効いていて、隼人も不破も何も変化がなかったと考えると、聖が何か特別だったと考えるのが自然な答えであったが、璃玖がそんな考えを巡らせていると、伊織がわざとらしく鼻で笑った。 「フッ。結局、不破さんも最初から神山が狙いですか。最初から、僕を嵌めるつもりだったんですね」 「違う、違う。勘違いしないで。俺の本命は、お姫様だよ。この動画はあくまでも俺の身を守るための保険。でもまあ、今お姫様がここから逃げたら、こーれ、どうするかは…分かるよね?」 「っく…」 ハンディカメラを指さした不破に伊織は何も言えず、ただ我慢するように唇を強く噛んだ。 「そうそう、そのまま大人しくしててね。しっかし、お姫様は自分の身を守るばっかりだね。璃玖君なんて、一樹を助けるために大怪我までしたっていうのにね」 不破は、伊織が先ほどまで座らされていたパイプ椅子に、ドスッと音を立てて腰かけた。 「一樹を…助ける…?」 「あれ?知らないの?二年前、コンサートの時に階段がついた結構な高さのセットがあったでしょ?あそこから璃玖君、一樹の代わりに落ちたんだよ」 「代わり…?なんですか…それ…」 伊織は初めて耳にする様子で、驚いた顔をした。 「あーあ。なーんにも知らないんだね、お姫様は…。璃玖君を呼び出すための嘘に聞こえたと思うけど、一樹を呼び出しているって話、あれ、本当だったんだよ」 「一樹を…?なんでそんな…」 「なんでって、璃玖君に言うこと聞いてもらうためだよ。俺にとって、璃玖君はすごく邪魔な存在だったからねー。でも、一樹のおかげであの日の璃玖君はなんでもいうこと聞いてくれたから、すごく助かっちゃった」 「じゃあ…まさか神山とキスしていたのは…」 「もちろん、お姫様を騙すため。何も知らないで真っ赤になって怒ったお姫様、今思い出しても、最高に笑えるよね」 「…」 本当に騙されていたのは自分で、不破のいいように利用させられていたことを知った伊織は、ただ茫然と立ち尽くすことしかできなかった。 「でもさ、ちょっと疑問だったんだよね。どうして璃玖君があんなところから落ちたの?まさか一樹に落とされたとか?」 「違います!僕が勝手に…バランスを崩しただけです」 「バランス…?ああ、お姫様に叩かれたとき、足ひねっていたみたいだったもんね。それでかー、納得」 「なにそれ…。本当なの、神山…?」 伊織は璃玖を見つめると、璃玖は首を振った。 「違う。あれは伊織君のせいじゃない。僕がいけないんだ」 「いいじゃん、璃玖君。はっきり言ってあげなよ。お姫様が怪我させたせいで、落ちたんだって。倉庫にいた奴に聞いたよー。意識不明で救急車で運ばれたんでしょ?」 不破はパイプ椅子から立ち上がって、璃玖にゆっくりと近づいて行った。 「違います!落ちたのは僕の不注意で、誰のせいでもない!僕が勝手に落ちただけです」 近づいてくる不破の目を逸らすことなく見つめながら、璃玖ははっきりと言い切った。 「神山…」 「あらら。こんな状況でも人を庇っちゃうんだね。璃玖君は本当にいい子だねー…。でもさ、そういう偽善なところ、本当は吐き気がしそうなんだよね。Ωのくせにさー」 璃玖の顎を、不破は片手で掴んで自分に向かせると、璃玖に冷ややかに笑いかけた。 「Ωの璃玖君はこれを見ても、まだそんな甘いこと言っていられるのかなー」 不破はポケットから何かを取り出すと、璃玖の顔の前に差し出した。 「これ、なんだかわかる?」 それは、薬剤が事前にセットされた状態の小さな簡易注射器だった。 璃玖には正体が分からなかったが、伊織は明らかに緊張した表情に変わり、唇を震わせた。 「ま、まさか…それ…」 「あれ?お姫様は知っているみたいだね。もしかして、これ、使ったことあるとか?」 「そんなわけ…。どうやってそんなもの…」 「俺、顔は広いんだよね。けど、さすがにタダでってわけにはいかなくてねー。おかげで使った様子を撮ってこいなんて言われたから、こんなめんどくさい準備までする羽目になっちゃったわけ」 璃玖は話についていけずにいると、その表情に不破が気づき、璃玖に笑いかける。 「璃玖君には、これがなんだかわからないみたいだね」 冷ややかに笑みを浮かべる不破は、針のキャップは外さずに、注射器を璃玖の首元に押し当てた。 「これはね…どんなΩも、自分の本性を曝け出しちゃうお薬なんだよ」 (Ωが…) 含みのある言葉に、璃玖は天沢から祖母のつばきのことを聞いた話を思い出し、胸がざわついた。 「まさか…発情期…誘発剤…」 璃玖が出した答えに満足したのか、にっこりと笑った不破に、璃玖は思わず息を吞んだ。 発情期誘発剤は、Ωの発情期を本人の意思関係なく無理やり誘発させられるため、違法薬物に指定され販売及び使用が禁止されている。 ただ、存在こそしているものの、同じ違法薬物の麻薬とは比べ物にならないほど入手が困難だと言われており、使用例も少なく、そのため事件に繋がることも少なかった。 そんな入手困難なものをどうやって不破が手に入れたのかは謎だったが、不破の自信に溢れた様子から、目の前の発情期誘発剤は間違いなく本物だと璃玖には思えた。 「お姫様は知らなかったと思うけど、俺って、Ωの拒絶反応を楽しみながらじゃないと、興奮しないんだよねー。不思議じゃなかった?自分に一度も手を出してこない男なんて。あ、それとも自分がうまくあしらっていたって勘違いしていたかな?」 不破の言葉に、伊織は顔が青ざめた。 「どうせすぐに一樹と番になるだろうって思っていたのに、いつまでたってもならないから待ちくたびれちゃった。だからもう妥協して、上の部屋にいるアイツをお姫様の番にしちゃって、俺がおいしくいただこうと思ってね」 「ばかな…。じゃあ、まさか、僕と一樹を番にしたくて、神山が邪魔だった…っていうんですか…。だから僕に動画を社長に…」 「ご名答」 「…!ふざけるな!僕は絶対に、あんたを許さない!!」 我慢の限界と言わんばかりに、伊織は怒りを露わにした。 「許すもなにも、やったのは全部お姫様でしょ。自業自得だよ」 不破は喋りながら注射器のキャップを外すと、伊織に見せつけるように天にかざした。 「お姫様も抑制剤飲んでいると思うけど、これさえあれば抑制剤飲んでいるΩでも、たちまち発情しちゃうよ。本能のままにαを求めるしか能がない化けの皮を、剥がしちゃおうね」 天にかざしていた注射器を、不破はゆっくりと、璃玖の首元に針を押し当てた。 「さあ、お姫様…。どうする?俺の言う通りに、さっさと番をもってくれる?それとも…璃玖君を自分の代わりに差し出しちゃう?」

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