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71.転がった注射器

「僕…は…」 伊織は不破に求められた答えを出せるはずもなく、足の力が抜けたように跪いてしまった。 そんな伊織の様子を薄気味悪い笑みを浮かべた不破が満足そうに見つめているのを、璃玖は横目で確認した。 (今なら…) 注射器の針を首に押し付けているため、不破は自分が動かないと油断していると踏んだ璃玖は、当てられている針も気にせず、不破に思いっきり体当たりをした。 「なっ…!」 針の先が首をかすめ、璃玖の首に一瞬痛みが走ったが、璃玖は気にすることなく不破にそのまま体重をかけた。 突然のことで対処できなかった不破は、受け身をとりつつも床に倒れ、璃玖は不破に覆い被さる形になった。 不破が手に持っていた注射器は、割れることはなかったものの、コンクリートの床を音を立てながら転がっていった。 「伊織君逃げて!」 「神山…」 璃玖の突然の行動に動揺した伊織は、思わず立ち上がるが、璃玖の言う通りここから逃げ出していいのか迷い、困惑していた。 「早く!」 「…!」 伊織は璃玖の声に促されるように、璃玖に向かって強く一度頷くと、慌てて階段を駆け上がって行った。 「くそっ」 階段を駆け上がって行く音が聞こえ安堵した璃玖を、不破は舌打ちをしながら胸ぐらを掴み、そのまま床に投げ飛ばした。 「っ!」 璃玖はコンクリートの床に頬を擦りつけるようにしながら、うつぶせの状態で転がった。 擦れたせいで感じる頬の痛みと熱さを我慢しながら璃玖は顔を持ち上げると、すぐ目の前に発情期誘発剤の注射器があることに気付き、なんとか確保しようと、慌てて身体を起き上がらせようとした。 だが、不破はその動きを抑えつけるように、璃玖のこめかみ辺りを靴のまま足で踏みつけ、璃玖の顔を床に押し付けた。 「無駄な手間を…増やしてくれたね。どうせあの手じゃ、お姫様一人じゃ鍵を開けられないから、この家の中を逃げ回るしかないのにさー」 怒りを込めるように、徐々に足先に体重をかける不破によって、璃玖は頬骨に痛みを感じるほど顔半分を床に押し付けられた。 「まさか、璃玖君に邪魔をされるとは思わなかったよ。無駄なのにさー。やっぱりΩはバカなんだろうねー」 不破は璃玖から足を退かすと、しゃがみこみ、璃玖の後ろ髪を掴んだ。 そして、髪を引っ張った勢いで璃玖の上半身を無理やり起き上がらせると、今度は仰向けになるように放り投げた。 「っ…」 後ろ手で固定されたままの手を璃玖は床に打ち付けると、不破は璃玖のお腹の上に乗っかり、馬乗りになった。 「今すぐこの口に喉の奥まで吐くまで突っ込むのと、後ろに慣らさずに突っ込んで、泣いて懇願してもやめてあげないの、璃玖君はどっちが好みかなー?」 璃玖の顎を掴み、口を強引に開けさせて楽しそうに笑う不破に、本当の恐怖を感じた璃玖は、全身に震えが走り、そのまま不破から目が離せなくなった。 「ああ、その目は両方だね。欲張りだなー璃玖君は。でもまあ、先にお姫様を捕まえてこないといけないから、璃玖君もちょっとの間、気を失っていてもらおうかなー」 さらに笑みを浮かべた不破は、璃玖の顎を掴みながら、反対の手の指先で璃玖の鎖骨あたりに触れ、ゆっくりと下に滑らせると、みぞおち辺りで拳を作った。 「みぞおち、殴られたことなんてないでしょ?ここってね、内臓を直接殴られたような感覚で、息が止まっちゃうんだよ。激痛で気を失っちゃうから、目を覚ましたら、俺と楽しもうねー」 (殴られる…!!) 振り上げられた不破の拳を見て、璃玖は衝撃に耐えようと身体に力が入り、思わず目を強く瞑った。 「璃玖っ!」 (えっ…) 名前を呼ばれ、璃玖は一瞬、聞き間違いか空耳かと自分の耳を疑った。 それは、幾度となくその声を聞きたいと願い、願う度に溢れだしそうな気持ちを曲に変えていった、ここにいるはずもない声が聞こえたからだった。 璃玖は慌てて目を開け、声のする方に首を傾けた。 「いつ…き…」 璃玖が見つめた先には、少し大人びた雰囲気になった一樹が、息を切らせながら階段を下りた先に立っていた。 (ほん…もの…) 一樹の姿を見た途端、璃玖の中で何かが弾けたかのように目から涙が溢れ出そうとし、視界を曇らせた。 突然の一樹の登場に不破も驚き、振りかざしていた拳を思わず止めた。 「璃玖から離れろ!」 頭に血が上っている一樹は、不破に殴りかかろうと前傾姿勢で走り出そうとした。 「待った、一樹君!」 慌てて階段を駆け下り、一樹を制止するために腕を掴んだのは聖だった。 「聖さん、離してください!コイツ璃玖に…!!」 「分かったから落ち着きなさい。一樹君が殴ったら、今までのことがすべて水の泡だよ」 「っく…!」 聖の諭すような言葉によって、一樹は我慢するように唇を噛み締めながら踏み込んでいた足をひっこめたが、手は強く握りしめられたままだった。 聖は深く溜め息をつくと、掴んでいた一樹の腕からゆっくりと手を離した。 「聖…さん…」 一樹だけではなく、まさかの聖の登場に、不破は思わず聖の名前を呟くと、冷静を装いつつ、振り上げていた拳を下げた。 「あ、あれ、聖さん。どうしたんですか、今日はこんなところに。見学は受付ていないはずなんですけどー」 冗談を言うように笑う不破に、聖は璃玖が見たこともない冷たい表情で、不破を睨みつけた。 「…。くだらない冗談はいらないよ。さっさと、璃玖君の上から退いてもらおうか?」 聖の冷ややかな目に威圧され、思わずゴクリと息を呑み込んだ不破だったが、ゆっくりと自然に、璃玖の口を手で押さえた。 「やだなぁ、聖さん。俺、璃玖君にお願いされて、こんなことしているんですよ。こういう無理やりのプレイが好きらしくて、さすがΩですよね。せっかくなんで、混ざります?」 不破の誘いに、聖は眉間に皺をよせるが、怒りを鎮めるように息を吸い込むと、改めて不破を睨みつけた。 「もう一度、言わないと分からないのかな?その汚い身体と手、さっさと璃玖君から退かせって言ってるんだよ」 「もう、そんなに怒らないでくださいよ。だいたい、どうやって中に入ったんですか?」 肩をすくめた不破は、まだ余裕の笑みを浮かべていた。 「簡単だよ。上にいる彼に、開けてもらったんだ」 「彼って…。一体どういうことですか?アイツが裏切ったってことですか?」 思ってもみなかった聖の答えに、さすがの不破も表情から笑みが消えた。 「裏切ったもなにも、君に協力するフリを最初からしてもらっていただけだよ」 「そんな…。だっていつから…。聖さん、冗談もいい加減に…」 にわかには信じがたいといった様子だったが、不破はそれでも平静を装うように、また笑みを浮かべた。 そんな不破に対して、聖はポケットからスマホを取り出すと、二年前、社長から転送されてきた璃玖の動画を、再生はせずに画面に表示させた。 「この二年間、こんなこと璃玖君にしたこと分かっていて、僕が何故黙っていたか、不破君には分かるかな?」 「…。一体何の話か、俺には見当もつかないです。何かまずいことでも、映っているんですか?」 不破は白を切るが、璃玖の口を押える手はさらに力が込められ、璃玖には不破の動揺が明らかに感じ取れた。 「まぁ、そうやってしらばっくれるだろうと思っていたよ。だから今まで黙って泳がせておいたんだ。どうせ、動画を消させたところで、なんの意味もないからね。けど、そのハンディカメラのデータは、いただこうかな」 聖は部屋の中央にセットされたハンディカメラを指さすと、にっこりと笑った。 聖のその笑みから、不破は何かを悟ったように、璃玖の口を押さえていた手を離した。 「どこまで、知っているんですか…?」 「全部だよ。君たちを黙らせるために、証拠と現場を押さえる必要があったからね。でも、まさか証拠を自分で残しているとは思わなかったよ」 「じゃあ、全部、聖さんの計画の内だったってわけですか…。さすがというか、なんというか…。そんなにこのΩが大事なんですかね」 深い溜め息をつき、落胆したように肩を落とした不破は、ポケットにしまっていた手錠の鍵を黙って取り出した。 そして、璃玖を支えながら一緒に立ち上がると、今度は璃玖の背後にしゃがみこんだ。 「不破さん…」 「今、外してあげるよ」 不破は璃玖の手錠の鍵穴に、鍵を差し込んだ。 「なんてね…」 「えっ…」 ボソッと璃玖だけに聞こえる声で呟いた不破は、璃玖の手錠を片方だけ外した。

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