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72.選択
璃玖に嵌められていた手錠が片方外された瞬間、不破は床に転がったままになっていた注射器をすばやく手に取ると、背後から璃玖の首に腕を回し、締め付けるようにきつく固定した。
「璃玖…!!」
一樹は思わず璃玖の名前を叫び、足を一歩踏み出した。
「おっと、それ以上こっちに近づかないでくれるかなー。近づいたら…分かるよね?」
一樹の動きに気付いた不破は、まるで見せつけるように、璃玖の首に回している腕に、さらに力を込めた。
「っ…」
喉に食い込んでくる痛みと息苦しさに、璃玖は顔を歪ませたが、自由になった手で不破の腕を外そうと必死に掴んだ。
だが、璃玖を締め付ける不破の腕は、璃玖の力ではびくともしなかった。
「Ωを自由にしていいのはαの特権なのに、どうして分かってもらえないのかなー。ねえ、璃玖君?」
不破は先ほど手にした発情期誘発剤の注射器の針を、もう一度璃玖の首に押し当てた。
「ここは、璃玖君の存在価値を示すべきなんだと思うんだよねー。好きでもない奴に触られて、感じて、動物みたいに求めることしか出来ない、所詮αの性欲処理っていう存在価値をさー」
「ふざけるな!」
一樹は肩を震わせ、大声で叫んだ。
(一樹…)
「璃玖は、お前が好き勝手して許される存在じゃない!」
睨みつけてくる一樹に、不破は冷ややかに嘲笑った。
「綺麗ごと言うなよ。どうせ、お前も璃玖君がΩだから惹かれたんだろ?それはαの本能なんだよ。お前だって、このΩをめちゃくちゃに犯したくて、たまらないんだろ?」
「ちがう!俺は璃玖だから好きになったんだ。Ωだとか関係ない!!」
(一樹…!)
一樹の言葉に璃玖の胸は痛いほど締め付けられると、泣かないと決めてからずっと我慢していた涙が、そっと一粒、零れ落ちた。
その涙に気が付いた聖は、深く目を閉じた後、改めて不破を睨みつけた。
「不破君…。今ここで、璃玖君を開放するなら僕は君を咎めない。仕事も続けてもらって構わない。でも、もしそれ以上璃玖君に何かしたら…一生後悔することになるよ」
「この状況で、よくそんなこと俺に言えますね。…さすが、トップアーティスト様は違いますねー」
不破は少し興奮したように早口になると、璃玖の首に注射器の針の先端をさらに押し付けた。
「この薬を打ち込めば、この汚いΩは発情。そうすればこの部屋にいる全員がヒート。今から、楽しい乱交パーティーが開催されますよ!一体誰が番になるのか、楽しみですね!」
「そんなことしてみろ!俺は絶対にあんたを許さない!」
「許さない?笑わせるなよ。じゃあ、このΩのために一樹は何が出来るんだよ?こんなΩのためにさー。例えば…お前の未来、代わりに差し出せるとでも?」
「不破…さ…ん。何を言って…やめ…」
璃玖は息も絶え絶えになりながら、抑えつけられているため動かせない首を、必死に横に振ろうとした。
「璃玖のためなら…なんだって出来ますよ」
一樹は迷うことなく、真剣な顔で不破の目をまっすぐ見つめた。
「へー…。じゃあ、その顔に派手な傷つくって、アイドルとしてデビュー出来なくなるとか、どう?」
「なに…を…言って…」
「簡単ですよ。そんなことでいいんですね」
不破の提案に、一樹は軽く笑って答えた。
「…やめっ…一樹…」
一樹の態度から本気だと分かった璃玖は、慌ててやめるよう叫ぼうとした。
だが、喉を押さえられているため大きな声を出せず、その声は一樹には届くことはなかった。
「やめ…て…いつ…き」
呼吸が苦しくなりつつも、璃玖はそれでも諦めずに何度も叫び続けた。
「でも、ここに傷をつくれそうなものはないので、その注射器の針で、思いっきりやってもらっていいですか?」
「待っ…て、一樹…」
「ああ、いいよ。じゃあ、こっちにおいでよ。大好きな璃玖君の前で、一思いにやってあげるよ」
「分かりました」
頷いた一樹は、真剣な顔だった。
「やだ…。やだ一樹…来ないで」
璃玖の声が届いていて聴こえないフリをしているのか、それとも全く届いていないのか、璃玖には分からなかったが、一樹に届かない叫び声とともに、璃玖の目からは涙が溢れ続け、止まらなくなっていた。
「あーあ。大好きな一樹君の夢を奪っちゃうんだね。やっぱりΩはαにとって毒なんだよ。わかる?」
不破は璃玖にだけ聞こえる声で、璃玖を絶望に陥れるように、そっと璃玖の耳元で囁いた。
(一樹…)
璃玖はもう、心の中で一樹の名前を叫ぶことしかできなかった。
一樹は一呼吸おいて、一歩、また一歩と不破と璃玖にゆっくりと近づこうとする。
「…ストップ」
だが、そんな一樹の肩を、聖は力いっぱい掴んで止めた。
「本当に君は、璃玖君のことになると…」
聖は呆れたように、深い溜め息をついた。
「聖さん、邪魔しない…」
一樹は聖の手を振り払いながら言いかけると、一樹の肩を掴んでいた手を離した聖は、代わりに一樹の頬を軽く叩いた。
訳も分からず頬を叩かれた一樹は、思わず叩かれた頬に自分の手を当てた。
「まだ君は、璃玖君の気持ちを考えられないようだね」
「えっ…」
ふと、冷静になった一樹は、振り向いて璃玖の顔を見る。
すると、さきほどまで視界に入っていたはずなのに、不思議と気付くことの出来なかった璃玖の大粒の涙に、一樹はやっと気が付くことが出来た。
「俺…」
「聖さん、邪魔しないでくださいよ。せっかくいいところなのに」
不破は苛立ったように、つま先で床を叩いた。
そんな不破の様子に、聖は不敵に笑って答えた。
「邪魔?邪魔なんかしていないよ。そもそも、一樹君がそんなことする必要はないから、止めただけだよ。だって、不破君の思い通りにはならないんだから」
聖の余裕を感じる言葉に、つま先で床を叩くのを止めた不破は、自分の唇を湿らすように舌で舐めると、大声で叫びだした。
「聖さんってば、俺の話ちゃんと聞いてました?こーれ、発情期誘発剤なんですよ。聖さんもαだったら、今、これを使ったら、どうなるかぐらい分かりますよねー?同罪ですよ、同罪」
「まあ、その薬が本物なら分かるけどね」
「本物に決まっているじゃないですか。だって」
言葉を続けようとする不破を前に、聖は今度は腕を組んで余裕の笑みを浮かべた。
「ねえ、不破君。その薬、どうやって手に入れた?大金を積めば手に入るって品物じゃないよね?だから、対価はお金じゃなかったんじゃない?」
聖の言葉に、不破は急に焦り、顔色を変えた。
「何を言って…」
「例えばさー…。薬を使ったところを、一部始終隠し撮りするようにって、言われたんじゃない?」
「なんでそれを…。俺は誰にも…。まさか…」
「本当にバカだよね。自分で証拠になる映像を今まさに撮っているんだから。そのハンディカメラ以外にも、この部屋に、カメラをセットしてあるんだろ?上にいる彼に頼んでさ。でも、さっき言ったよね。彼への根回しはとっくに済ませてあるんだよ。まだ気づかないのかな?」
「じゃ、じゃあ…。俺に、この薬を持ちかけてきたのは…」
「僕が仕組んだお芝居。君が今の状況に痺れを切らしている上に、伊織君がデビューすると知って焦るのは分かっていたからね。本当に、単純で助かったよ」
「ふっ…あっはっは!」
地下室中に響き渡るほど、不破は大声で笑いだした。
「さすが聖さんですね。全部、聖さんの計画通りだったってわけですか」
「君たちに邪魔された、二年前の仕返しだよ」
「あー…。まさか璃玖君のために、聖さんがそこまでするなんて。ほんと予想外ですよ。実は番だったとか、運命の相手なんてオチ、ないですよね?」
「あいにく、君と誰かさんと違って、僕は人のものに手を出す趣味は持ち合わせてないね」
「あー、そうですか」
肩を竦めた不破は、璃玖の首に押し付けていた針をゆっくりと離した。
「それで?俺をどうしますか?警察にでも突き出しますか?どうせ、映像が残っているなら恐喝、暴行、なんでも訴えられるんじゃないんですか?」
「それは君次第だよ。金輪際、伊織君も含めて、ここにいる全員の目の前に二度と現れないと約束するなら…何もしないよ。君もまだ、目指すものがあるだろ?」
「はぁー…。あなたがお優しいアイドル様で助かりましたよ」
不破は注射器を強く握りしめると、そのまま振り上げ、思いっきり床に叩きつけた。
床に叩きつけられた注射器は、今度は転がることなく音を立てて粉々に割れ、中に入っていた液体はコンクリートの床を濡らした。
その様子を見届けた不破は、璃玖に回していた腕を離すと、璃玖は足に力が入らず、そのまま座り込んでしまった。
「バイバイ、璃玖君。ゲームオーバーみたいだ」
座り込んだままの璃玖に屈みながら耳元で囁いた不破は、手錠の鍵を床に落とすと、階段に向かって歩き出した。
「璃玖!」
一樹は璃玖の名前を叫びながら、不破と入れ替わるように璃玖に慌てて駆け寄った。
「一樹…」
まだ立ち上がることの出来ない璃玖は、顔を上げると、目の前には心配そうに顔を覗き込む一樹が立っていた。
「璃玖…」
「バカっ!」
そんな一樹の頬を、璃玖は平手で叩いた。
「璃玖…」
「バカ!馬鹿一樹!!なんだよ、さっきの!僕はあんなことされて助けられて、喜ぶと思ったの?」
「それは…」
「一樹は…バカだ…」
璃玖の目からまた涙が溢れてくると、一樹は居てもたってもいられず、自分も膝をついて、璃玖を包み込むように強く、強く抱きしめた。
「璃玖…!璃玖…!」
痛いほど抱きしめられながら名前を呼ばれると、璃玖の視界はさらに涙でぼやけ始めた。
「今度はゆっくり…ちゃんと話して、落ち着いたら、上に上がっておいで」
聖はそれだけ言い残して、抱き合う二人に背を向けると、階段を静かに上がっていった。
「一樹…」
肌に感じる一樹の体温が懐かしく、璃玖の胸は今までにないほど締め付けられ、もう泣かないと決めたはずの目からは、温かい涙が溢れ続け、一樹の胸を濡らした。
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