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第3話
ティアは次に目を開けたとき、白壁の小さな部屋の小さなベッドの上にいた。
泥だらけだったはずの手足は清められ、服もさっぱりとした木綿の夜着に変わっている。誰がこんなことを……そう思っていると、部屋の扉が静かに開いた。
「良かった。目を覚ましましたね」
ティアが逃げ込んだ教会の司祭のようだ。金色の神に琥珀の瞳が美しい。眩しいほどの美貌に見とれていると、首に掛けられたロザリオが窓からの光を返す。
「まずは水を」
ティアは渡されたカップの中身をゆっくりと干した。じわじわと身体に染み入った水が、弱ったティアの気持ちを膨らませてくれる。
そうだ。子供のためにしっかりと生きなくては。
「あの……ここは」
「ここはカトリック教会です。安心して身体が癒えるまでゆっくり休んで行くといい」
ルチアーノと名乗った司祭はそう言うと、口元に微笑みをたたえた。愛しみという感情に触れたのは何年振りだろうか。
「立てるようなら食堂に行きましょう」
導かれるままに立ち上がりその後ろに続くと、ルチアーノの立派な体躯に気づく。肩幅のあるバランスのよい身体は祭服を身に着けていてもよく分かった。
そう大きくない教会は、ティアが子供の頃に通っていた教会を思い出させた。明るい光の差し込む作りの食堂でスープとパンの食事を与えられる。
「訳を……お聞きにはならないのですか?」
途中で靴を失くしたティアは裸足で、何度も転んだために服は汚れ、裂けていた。普通の状態でないことは一目で分かったはずだ。人々を救うことが教会の役割だったとして、ティアの抱える事情をそのまま受け入れてくれるはずがない。
「話したくなったらいつでもどうぞ。告解室を訪れれば神が話をお聞きになるでしょう」
ルチアーノの穏やかな声にティアは迷いを捨てた。
貴族の子を宿せば、その身は一時的に貴族と同等となるほどに厚遇が与えられる。
けれど、貴族の子を抱いて逃げれば、即ち誘拐犯となる。例えそれがティアの体と切り離せないのだとしても、変わらない。
屋敷を抜け出すということは貴族の子を攫う大罪を犯すことだと理解し、それでも屋敷にはいられないと覚悟したはずだった。
けれど慣れない夜道を走るうちに、心は揺らいでいた。
本当に自分ひとりで子を産めるだろうか。育てられるだろうか。
自分がΩだということを隠し通せるものだろうか……
今ならまだ許されるかもしれないと、夜道を引き返そうという考えすら浮かんだ。けれど、屋敷のαたちの血走った目や暗く沈んだ表情を思い出し、それだけは出来ないと足を前へ前へ進めてきた。
その迷いを捨て去るために神に罪を告げよう。
ティアは告解室に入り、神に全てを打ち明けた。
「神はきっと貴方をお守りになるでしょう」
聞こえてきた声にティアはほっと胸を撫でおろした。
過去と決別し、屋敷に戻るという選択は消えた。許されるならもう一晩ここに留まり、明日には町へ出よう。子が育つまでの間に出来るだけお金を貯めて、新しい暮らしを始めなければならない。
「明日、ミサの手伝いをお願いできないでしょうか」
夜になりまた食堂で向かい合ったティアにルチアーノが言った。
「……はい」
ベッドを借り、食事を与えられた礼になるのならとティアは頷く。金も知恵もなにも持たないティアに返せるとしたら、その身をもって返せるものだけだ。
ティアは教会のため、ルチアーのために働いた。それは一日だけのことではなかった。ルチアーの頼みを聞くうち、教会への滞在は伸びていく。
そうして終に、ティアは教会の小さな部屋で出産を迎えた。
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