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第6話

返事を聞く前に背を向けて座ると、身動きしない陸奥の逡巡が背中に伝わってきた。 ほどなく、キシッと桶の軋む小さな音がした。敷布の(きぬ)擦れと、床板の音。陸奥が戸惑いながら身体を起こした気配がする。 彼がどんな顔で桶に跨がっているのか、俺は振り向いて見たい衝動にじっと耐えた。待つ身には長く感じられるしばしの()のあと、蚊の鳴くような声がした。 「できません…… 厠に、行かせてください…… 」 「恥ずかしがるな、女じゃあるまいし。生け垣に立ち小便したことの一度や二度、ないわけでもないだろう?」 「お許しください、このようなところに、出せません…… どうにも、出ないのです。お許しください…… 」 「じゃあいい。出ないものは仕方がないからな。ただし、治療はできない。さっさと浴衣を着ろ。明日の朝、麓まで送ってやる」 「先生…… ?」 振り向くと、両手で手桶を握り布団の上に膝立ちになった陸奥が、眉根を寄せて不安そうにこちらを見ていた。 「グズグズするな。はりを使っていないからな、按摩は奉仕にしておいてやる。金はいらないから、着物を着てその封筒をさっさとしまえ」 用意した道具を片付けようとする俺の作務衣の袖を、陸奥がそっと握った。 「先生…… 先生、すみません。もう一度、機会をください…… 」 「無理をすることはない」 「お願いします!おっしゃるとおりにしますから!お願いします…… っ!」 裾を握っていた手を布団につき、陸奥は深々と頭を下げた。 形の良いつむじを横目で見ながら、俺はふと、伏せたその顔が見たいと思った。必死になって頼み込む彼の顔が見たい。能面のように美しい顔が歪むところが見たい。 そんな人非人まがいの欲望に気づかれることを恐れ、俺は手を止めてそこに胡座をかいた。 「ニ分だけ待つ」 そう言って向けた背中に、コクリとわずかな喉の音がした。 身じろぎするき衣擦れ。床の軋み。 陸奥が深く呼吸を整えている。 全ての雑音が雪に吸い取られたような静かな和室で、自分の息さえ殺すほどにそばだてていた俺の耳に。 間もなく、木桶を水が打つトトトト…… という音が聞こえた。 体に無駄な力が入っていると施術しにくい。 厠に行かせれば体が冷えてしまう。 彼に伝えたその理由は嘘ではないし、他意があるとすれば、始めのうちに「全てに従う」ということを分からせておいたほうがいい、それだけだった。 それなのに、なぜか俺は粟立つような興奮を覚えた。 迅る心臓が押し出した血液が、身体の中心に集まるように流れていく。 その雑念を散らそうと、俺は水音が収まるや否や勢いよく立ち上がり、陸奥の手から木桶を奪うと窓を開けて中身ごとそれを外に放り投げた。 温かい液体が、雪の上に落ちてくっきりとその跡を残す。湯気を立てるそれを見ないように、俺はすぐさま窓を閉めた。 振り向くと、布団の上にへたり込んだ陸奥は、恥辱に身体を震わせながら項垂(うなだ)れている。

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