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友達さんと担当さん──3
──何もわかる、わからないの前の問題だった。とりあえず落ち着こうとするが、トールさんはこの調子である。
「あっはっはっはっはっはっはっ!」
爆笑しているのだ。
状況を説明しよう。俺は今、トールさんの上に倒れ込んでしまっている。どこかの漫画のような展開に驚いているわけだが、下にいるトールさんはそんなのお構いなしにまだ笑いが止まらないでいる。ぎりぎりで床に手をついて耐えているというのにそろそろ苛ついてきた。ついでに打った膝も痛い。
「はーっ、ごめんごめん。まさか自分の足に躓 くなんてねぇ」
ここはトールさんのアパートの一室で、まだ玄関先だ。靴を脱いで上がったところの廊下でそうなったのだが、上着を掴まれた俺も支えきれなくて巻き添えを食らったのだ。まだ笑いが止まらないトールさんは髪も眼鏡も乱れていて、顔も──淫らに見えた。薄っすら影になっているせいの見え方か、酔っているせいの目の下の赤らみも、笑ったせいの涙が滲む目も──ぐらっときた自分がいた。
「……大丈夫っすか? 酔っ払いさん」
平静は装えてるか、今度は上擦らなかった。
「ああ、大丈夫大丈夫。ユーキ君は?」
おっと、くん付け。それとあまり大丈夫ではない──。
「──ユーキ君」
聞こえた瞬間、思考は途切れた。トールさんが俺の顔に、頬に手を添えたからだ。冷たいと感じるのはきっと俺が熱いせいだ。そして手を滑らせ、頭を撫でてきた。
「……はい?」
「んー、失恋お疲れ様と思って」
ああ、そう……そういう事。
「頑張りましたねぇ、ほんと」
馬鹿にしてるのか、とひねくれた俺は反応するが、トールさんは優しかった。子供をあやすような柔らかい手付きは、大人の気恥ずかしさも溶かしていく。こんなの自分らしくないと耐えたが、数秒で絆 された。
「──ふっ、重た」
俺は支えていた腕の力を抜いて、トールさんに被さる。酒の匂いと煙草の匂いがした。
「よーしよしよし」
トールさんは動物を構うかのように俺の背中をさする。少し骨ばった鎖骨に顎が当たって痛い。
俺は静かに泣いていた。ほんの少しだけ、人の温さを感じてしまったせいだ。おそらくトールさんはこのために部屋に誘ったのだと思う。本音を、本心を隠し続けてきた俺を出させるために。居酒屋で俺はそんな弱い顔を見せてしまっていたのだろうか。それとも見透かされたのだろうか。
「……むかつくなぁ、あんた」
「そうですか? よく言われますけどぉ」
「何っだよ、それ」
「ほんとですもん。だって──」
と、トールさんは足を動かして膝を立てた。起き上がりたいのかと頭を上げると首の後ろに手を回され、顔が近づいて眼鏡と眼鏡が軽く当たり音が鳴った。
「──俺、狡 いですから」
俺? え?
そのまま肩に手を回されたと思ったら、ごろん、と逆になって今度は俺がトールさんを見上げる形になり、トールさんは俺を見下ろす。
「……へ?」
なんだこれはと頭の整理がつかずに間抜けな声が出てしまった。
「あ、その顔たまんねぇ」
何言ってるのか、その口調も初めてで戸惑う。ただただ至近距離で影を落とされ、見つめられ、どこを見ていいかわからず目を逸らした。
「あの、トールさん? やっぱり酔って──」
「──酔ってるからこそ、なんだけどなぁ。まさかこういう展開を期待しなかったわけじゃねぇよな?」
言い返せなかった。期待していたし、まだしている自分がいる。しかしこの豹変に驚いているのが一番の理由だ。ともかく俺は片手で顔を覆って隠した。見透かされまくりで嫌になる。わかりやすい顔でもしているのだろうか。
「──なぁんてな」
「……はぁ?」
「おー、残念そうな声。光栄だね」
卑 しく笑うトールさんは逆光のせいか迫力があった。怯 みたくないが、今度は何をするかの防衛本能が目を逸らせない。
これは、やばい……。
「さて──こっからは本気でいく」
また、ずいっと上半身が覆いかぶさり影を落とす。その影の中で互いの目がぶつかっていた。眼鏡があって助かったと思った。これ以上の距離は危険だ。食われそうな、匂いが強すぎる。
「男が部屋に呼ぶなんて一つだろ?」
「……そう、ですね」
否定出来ない。のこのこ乗ったのは俺だ。
「言っとくけど誰にでもしねぇぞ?」
「……そう、なんですか」
「ふっ、まぁ信じなくていい。ついでにノンケ」
当たり障りなくそのままを答えていたが、それには驚いた。口の変わりに目が大きく見開くほどの衝撃だ。それに話した中でトールさんは俺側ではないとも思っていた。こういうのは勘というやつだろうか、どうしてかわかるものなのだが見抜けなかった。
「それでもこの感じ──うん、衝動。ユーキ君と同じ。わかるか?」
そう聞くトールさんの目は鋭く光った。本気で言っている。
俺は今、本気で口説かれている。
リビドーにも似た、求めるもの。
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