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アボカドとメガネ──1
「──げ」
俺と目が合ったそいつは、にっこり──いや、にやりと口角を上げて早歩きでこっちに向かって来る。逃げようにも街の片隅に追いやられた喫煙所で、火を点けたばかりの煙草も惜しく動けない俺はたじろぐ。そうしたところで察してくれる相手ではない事はもう俺は知っている。
「いやいやいやいや、偶然ですねぇ、柳井 さん」
柳井は俺の名前で、他に一服している人ではなさそうでさすがに諦めた。しかもこの口調は外用、仕事用のそれだ。
しかし眼鏡の奥にある目はそうではない。二面性を持つ男は、先日俺と色々あった奴だ。
「……どうも、楠木 さん」
楠木透 さんという奴はひょんな事から知り合い、さらに知ってしまった奴である。
「どうも。外回りでしたか?」
俺は一般的なサラリーマンというやつで、楠木さんは俺の旧友である小説家──ヘースケの担当をしている。
「そうです。今日は直帰なのでこのまま──」
──しまった。自ら情報を与えてしまうとは何たる不覚。ほら見ろ、また一段階口角が上がった。しかも煙草に火を点けている。
「それはそれは。僕も今日は上がったんです」
……いや、まだかわせる。
「お疲れ様です。飲みに行きたいとこなんですが、食料がやばい感じなんで──」
「──それはそれは」
またも楠木さんはそう言いながら俺の肩に手を置いた。その手は一週間くらいぶりの、手で。
「手伝いましょう」
捕まえたと言わんばかりの手は緩く。
「ですが僕は料理はからっきしなので食べる方で」
楠木さん──トールさんは逃がさないと決めた笑顔を放った。負けたとは決して認めないが、もう他の言い訳が見つからない俺は、はぁ、と一つため息を吐く。煙草の煙は大きく、そして消えた。
「……じゃあ……どうぞ」
「はい。ではお酒を買いに行きましょう。これはもちろん僕が奢りますよ──ユーキ君」
二人同時に灰皿の穴に煙草を落とす。俺は心の中で、彼は言葉で切り替わった。助かります、と切れ目と間を怖がり会話を続ける。夕暮れの雑多な街はそれを少しばかり助けてくれた。トールさんは終始微笑み、おそらく固いであろう表情の俺の隣を歩く。
俺は一週間ほど前、この人と、寝た。
────
「──おー、ここがユーキ君の部屋ですかぁ。僕の部屋より少し狭いかな?」
マンションの三階、角部屋。缶ビールとつまみを買った袋を持った俺は先に靴を脱いで部屋に上がる。
「あんまじろじろ見ないでください。はい、ただいま」
「え?」
「あ?」
振り返るとトールさんは、きょとん、とした顔で片方の靴の踵に指をかけたまま止まっていた。
「……ふっ、おかえり?」
ああ、そこか、と一度天井を見上げる。
「俺ん家、割と厳しかったんです。家に誰もいなくても言う癖ついてんすよ」
「ふーん、良い癖だね。じゃあ俺も──」
──僕、から、俺、になった。トールさんは外では僕、内では俺になる。距離の関係か、二面の姿を持たなければならない何かが彼にあるかはまだわからない。
「──ただいま」
ただ、茶化さず倣って言う彼は、良い、と思った。だからか、つい応えてしまった。
「……おかえり?」
「んーっ、いいねぇ。久しぶりに言われた!」
はしゃぐ笑いは少し苦手だ。つまり、俺はトールさんの上機嫌が少し苦手だ。何を言われるか、されるか検討がつかないせいだと思う。主導権を取られるのはどうも性に合わない。
「おかえり。ユーキ君」
ほら見ろ、調子に乗ってやがる。しかし言われて嫌な気はしない。俺は眼鏡を軽く上げて、玄関とキッチンが一続きになっている狭い廊下を進む。いつまでも玄関先でごちゃごちゃしていても仕方がないし、何より寒い。扉を開けてすぐ見えるリビングの暖房のスイッチを入れた。
「わー、結構色々入ってるんだねぇ」
と、トールさんはリビングに入る前に廊下にある冷蔵庫の前を屈んでいた。
「ちょ、勝手に──」
「──ビールとか入れとかなきゃでしょ?」
それはそうだが、と何回目かのため息をつく。
……どういうつもりなんだ? 人ん家来ても変わらないっつーか、図太いっつーか。
そう考えながらネクタイを外した時、もうソファーに移動していたトールさんと目が合った。
「……何すか?」
「んーん、家に人がいるっていいなーって思ってさ」
「ふっ、何すかそれ」
「内緒ー」
また一つ彼の不思議が見えた。何か特別な事なのかと思ったが、トールさんは先にビールを持って少し掲げる。内緒の理由はプルタブの、かしゅっ、という心地良い音に消されてしまった。
「お先にいただきます。いい肴もあるし」
つまみはまだ袋の中で何をと思ったが視線の先は、俺。
「いいねぇ、ボクサーパンツにはだけた白シャツ。靴下を残してるのもまた好ポイント」
スーツだと堅苦しいし変に皺を作りたくなく、家に着いたらすぐに脱ぐので彼が見るという事に全く気づかなかった。
「……隣で着替えます。覗かねぇでくださいよ?」
「約束は出来ないかな?」
「帰れ」
「ちぇー、約束しまーす」
何が、ちぇー、だ。カワイコぶんな、おっさんの癖に!
と、俺はやや煩くドアを閉めてさっさと靴下も脱いだのだった。
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