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アボカドとメガネ──3
食材を切る音を静かに出す。火の音が大きく聞こえるのは俺達が黙っているからだ。熟れたアボカドは強く握ると潰れそうで、種を切らないように縦に一周切り込みを入れ、捻って二つに分ける。真ん中の茶色の種を取って、鮮やかな黄色から緑のグラデーションの果肉をスプーンで適当な大きさに掬っていく。このまま山葵醤油でもつけて食べてもいいが、もうひと手間かけよう。
「……まだ、こたえたくない、っていうのが俺の、今です」
自分でも思う変な言い方は上手く伝わるだろうか。するとトールさんは俺の背後から離れて、シンクの縁に寄り掛かった。裏表のように俺と彼は交差するように隣合い、ビールを飲んだので俺もビールを飲んで、炭酸の刺激を緩める息を吐く。
「それは『答え』? それとも『応え』?」
空に指を泳がせ文字を書くトールさんに目を合わせ、そうだ、と頷いた。そのどちらの意味でもある『こたえ』を俺は迷っている。
一週間、時間はあった。いい大人が慎重に考えすぎだと思う奴もいるだろう。いや、流されたとはいえ自分からも体を重ねてしまった手前、わるい大人かもしれない。いいもわるいも、半分くらいの面倒もあった。例えば、眼鏡をコンタクトに変えろと言われるくらいの。
俺は、俺を変えられるのを恐れている。
横目で彼を窺うと、彼はビールの縁を噛みながら前を、俺の後ろを真っ直ぐに見ていた。
「……ふーん?」
そしてトールさんは予想外の返事を発した。ちょうど熱されたフライパンにアボカドを入れた時で、じゅわ、と立てた音の大きさと同じくらいだった。
「な……なんっすか。せっかく真面目に──」
俺の言葉は遮られた。理由はトールさんが俺に無理矢理キスしてきたからだ。首のねじれなんかもお構いなしに、やや強引に、腹を空かせた獣のようにむさぼってくる。
眼鏡と眼鏡がぶつかろうとも。
「──うん、それでいいよ。今はね」
舌舐めずりをして離れるトールさんは笑っている。食えない顔の、今は俺しか見せないであろう真の顔でだ。
「……むかつくなぁ、あんた」
「よくご存じで」
「まだよく知らねぇっすよ」
俺が知っているのは年上で眼鏡で出版社の編集をしている男で、どうしてか俺に興味があるという事だけ。
「だね。だから話をしよう」
他愛のない話も他愛のある話も、君と俺がいれば恋の話になる。
トールさんは何面もの仮面を持つ。カッコつけたりカワイコぶったりなど茶化すようにどれの仮面も本来の顔の上に被せる。真面目に、眼鏡を通して俺を見る。
「きっと朝までかかる」
これも予想外で、泊まっていく気だったのかとリビングに戻るトールさんの背中を見ながらフライパンを振るのだった。
────
カーテンの隙間から差し込む朝だか昼だかの光で目が覚めた俺は、うつ伏せの顔をそのまま枕に埋める。布団の感触と昨日と今日の間の記憶から全裸だと気づいた。寝室のドアは開けっ放しで、そういえばテーブルに平らげた皿やビール缶を置いたままだったなと思い出す。床には服が散らかっているだろう、と眼鏡を手探りで探していた時、声が飛んできた。一人には十分のサイズのベッドに、手を伸ばしても当たらなかった人だ。
「起きた?」
少し乾いた声は彼も起きたばかりなのだろう。
トールさんはキッチンで何かしらやっていたのか、ボクサーパンツにシャツを羽織った格好で肌寒い腕を擦るように組んでいる。いい肴だとは思わないが、情事後の朝には似合いの姿に見えた。しかしその雰囲気には乗らない。
「……くそ野郎が」
「寝起きから元気いいねぇ」
「違ぇわ! また無茶苦茶しやがっ、て……っ」
俺は腰辺り全体の痛みにまた枕に顔を押し付けて耐える。
「ごめんごめん。お詫びに珈琲淹れたから許してね」
二度続けて言う謝罪は嘘だと聞くが、珈琲は飲みたいし俺も喉が渇いている。ゆっくりと腰を庇いながら体を起こし、はい、と渡されたカップを手に取った。じんわりと温かさが手のひらに広がり、ふぅ、と吹いた珈琲の香りが鼻を刺激する。
あの後色々話をした。俺の事の過去や最近──ヘースケとの事だったり、トールさんの今の話だったり、それこそ当たり障りない事から障る事も少しだけ。少しずつ、ゆっくり知れた気がする。あまり話したがらない俺の話で、彼も少しだけでも知ってくれただろうか。まだ見せていない俺がいても許してくれるだろうか。
珈琲の湯気の向こう、トールさんを薄目に見る。
「ん? 惚れた?」
寝起きから嘘っぽく冗談っぽく早速飛ばしてくるのに付き合うのは大変だ。無視するのは読まれていたか彼は、おはよ、と言ってベッドの足元へと腰掛けた。微かに揺れる波紋のような振動が俺の目をさらに覚ます。
また今日が始まった。この人と出会ってからの数日目が。また迷い、考える。これから、俺に加わったクスノキトールという男とのこの先を。
俺は珈琲を啜る。
「……まっずぅ」
【アボカドとメガネ──終わり】
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