21 / 62
ラテとエスプレッソ──1
こういう事は早い方がいいと誰かが言っていた気がする。俺もその方がいいと思うが、なかなか行動に移せないというのも知っている。過去の清算なんて大げさな言い方はしたくない。もやもやとした、文字通りもやのようなもので胸が気持ち悪いからというのが一番の理由。
……寒いし、限界。
俺──柳井結希 は、また一歩足を進めた。行先は、日向平介の家である。
────
せっかくの休日の日曜は天気予報外れの雨が降っている。骨が一本曲がっている閉じたビニール傘からは雫が、しとしと、と濡れていないコンクリートの玄関に模様をつけた。そして俺はインターホンを押すか押すまいか、と人差し指を伸ばしては曲げを繰り返している。
いつも通り、というわけにはいかない。やり逃げのような事をしでかした後、日が開いてしまった。しかし俺が悪いのは事実だ。
大人になると謝る事が難しくなる。一方的にに俺が荒らし、散らかしたのもわかっているくせにだ。八つ当たりとも言えようか。ヘースケには、謝らない、とラインした。そう、ヘースケにだけ。
ヘースケが雇っている家政夫に、俺は会いに来たのだ。
「……っ」
意を決した俺は声にならない呻きを一つ零して、インターホンを押した。ぴんぽーん、と電子音が鳴り、外の雨の音に混ざって家の中の音がした。
『はい、お待たせしま──え』
ヘースケじゃない事はわかっていた。あいつはインターホンが鳴ろうと面倒臭がって居留守を装う。または編集から逃げるためにあえて出ない。それから家政夫が驚いたのは、モニターに玄関先の俺の姿が映っていたからだろう。カメラがあると思われる個所を一瞬だけ睨み、視線を外す。
「……いきなり来て、すまん」
『い、いえ。あの、ヘース──日向は外出しておりますが──』
「──違う、今日はお前に用が、あって」
『えっ!?』
いちいち反応するのが鬱陶しくなってきた。ぎこちなく、緊張し合っているのはお互いが感じている。
『わ、わかりました。どうぞ、お入り下さい……』
第一関門突破というところか。ふぅ、と一息ついてすぐ、がちゃり、と鍵が開けられた。
「……こ、こんにちは。あの……顔、凄いですけど……」
どうやら表情は上手く作れていなかったようで、おそらくここか、と眉間の皺を左右に指で伸ばす。目付きも酷いものだろうが、これは通常仕様なところもあるのでゆっくりの瞬き一つで誤魔化した。
背中ではさらに降り出した雨が煩くなってきた。
「……寒いから中に入れてくれると有難いんだが」
組んだ腕のまま肩を震わす俺を見る家政夫は、慌てた様子で玄関を通してくれた。入って分かる見違える景色、もとい玄関や廊下が明るく見える。リビングも見違えていて、なんだこの草、もとい観葉植物やサボテンらが雨の窓を彩り、散らかりのちの字もないほどすっきりした空間がそこにあった。ぴかぴか、きらきらのマークがそこら中に飛んでいるかのよう。
以前のヘースケの家はこのように綺麗ではなかった。整理整頓も掃除も興味がないの範囲を超えるほどの一言で言えば駄目な家だった。いい物件の一軒家がもったいなかったが家政夫一人でここまで再生されるとは驚きだ。
「あ、あの……」
リビングに通された俺はいつものようにソファーに脱いだ上着をかけたところで、家政夫がそんな俺におずおずと声をかけてきた。
「……先日はすみませんでしたっ!」
来た早々の謝罪は大きく、九十度以上に下げられた頭が下に見える。それを見ながら俺は、やられた、と思った。
家政夫──橘っつったっけか。シロー君つってたが名前はいいや。
タチバナは深々と頭を下げ続けていて、先手を取られた俺は少々たじろいでもいた。
「きちんと謝りたいと思っていました。手を上げた事、反省しています」
彼は俺の胸倉を掴んだ程度で手を上げてはいない。
「……けしかけたのは、俺の方」
そう言ってもタチバナは頭を上げない。
挑発したのは俺の方で、そう仕向けたのも俺の策略だ。わざと煽り、大人げない方法を取った。振り返るとくだらなく、情けなくて顔から火が出そうだ。
そのくらい、あの時は余裕がなかった。
「──お前は謝らなくていい。謝るのはこっちだ……悪かった」
そう言って俺がぎこちなく、軽く頭を下げた。
タチバナは驚いたか頭を上げて、どうしていいものやらとおろおろしている。エプロン姿のままの彼は背が高く、顔もむかつくほどに整っている。綺麗な敬語や所作などからも育ちも頭もいいのだろうと推測される。
だからこそ、自分がくそだせぇ、と思い知らされた。
「い、いえ! あの、その……じゃあ……はい」
なんと答えていいか迷った挙句のそれはさすがに、かちん、ときて俺はすぐに頭を上げた。しかしタチバナは困ったように眉を下げて微笑んでいる。彼なりに安堵したのだろうか。
「ありがとうございます、ヤナイさん」
俺の名を知っていたか、ヘースケに聞いたか、初めて呼ばれた。
気まずさもあっという間、調子を狂わされた俺も肩の力が抜けた気がする。よく見ればタチバナも普通のガキ──年下の青年だ。
まだつけていたマフラーを外してソファーに腰かける。
「こちらこそ。あー、寒」
「あっ、ちょうど淹れるとこだったんです。すぐにお出ししますね」
おお、ヘースケの家で作った何かが出るのは初めてだわ。
いつも何かしら俺が持っていかなきゃ何もない状態だったのだ。
「こっちも。あとでヘースケと食えば?」
手土産の小さな袋にはクッキーの詰め合わせの箱が入っている。甘い物が好きなヘースケに合わせたものだが、多分タチバナも食べるだろうと無難なものを選んだつもりだ。受け取ったタチバナは少し間を置いてから、ふっ、と笑った。
「いただきます。ヤナイさんって聞いてた通りの人なんですね」
「あ? 何て?」
律儀でちゃんとした大人な人、とタチバナが言うので俺は嫌な顔をして返したのだった。
ともだちにシェアしよう!