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カカオとスモーク──1

 温暖化とは言え冷える季節には変わりないな、と俺はとあるマンションの前にいる。  疲れたなぁ……。  ここのところ忙しく十分な睡眠がとれていない。と言っても倒れるほどではないが、この寒さの中にいるのは(こた)えるなぁ、とその場にしゃがんで白いため息をつく。いや、ため息はよそう、とマフラーで口元を覆った。  久々に会うのだからこういうのはいらない──。 「──あ?」  と、嬉しい声が頭上にした。俯いていた目の先には綺麗に磨かれた革靴の爪先があり、上へ上へと視線を辿っていけば、への字に曲がった口と眼鏡が似合う彼がいた。 「こんばんわ、ユーキ君」  柳井結希(やないゆうき)は僕の彼氏──彼氏候補、と言い換えようか。 「……こんばんわ。なんでここにいるんですか?」  隣近所を気にしての小声は少し棘が見えた。 「うん……」  それでも俺は棘を見なかった事にしてそれだけ呟く。立ち上がろうと中腰のまま膝に手をついていると、またユーキ君から質問が飛んだ。 「どうしたんすか?」 「うん? ううん、よっ──っと、あれ?」  立ち眩みか、ふらついた俺の腕を彼は掴み支えてくれた。 「ふっ、やっさしー」 「冗談じゃなく、あんた顔色悪いです。それに冷たい」  いつからここにいたんすか、と厳しい目も飛んできた。暗くなりかけの夕方から電気が必要な夜の今まで、まだそんなに時間は経っていない。だが体も服も芯まで冷えているようで上手く足や腕が動かない。 「……久しぶりだね」  そう言って俺はユーキ君の顔を覗き込んだ。久しぶりに見る彼も疲れた顔をしている。週末の夜だ、一週間分のそれだろう。もしかしたら俺が来たせい、なんていうのは俺らしくないのでもう忘れる。  それよりも返事がなく、俺は顔を戻して怪訝な顔を作った。 「ユーキ君?」  呼んでみると彼は薄くため息をついていた。後ろ首に手をやり、一度顔を反らしたかと思ったらまた俺を見る。その横目は切れ長のまたも鋭いものだった。 「……家、上がってってください。そのつもりだったんだろうけど」 「うん。そのつもり──」 「──なら今度から連絡してください。今日はこの時間に帰れたからいいものの、もっと遅い時間だって普通にあるんで」  先日、連絡先を交換した。いつもは適当なライーンを送信しては既読スルーばかりで、読んでくれるだけマシくらいに思っていたのにこの反応だ。彼はちゃんと読んでくれていたのだ。返信しないのはくだらない内容のせいか。 「もしかして怒ってる?」 「はい。このくそ寒ぃ中、馬鹿ですか」  がちゃがちゃ、と鍵を回す彼の手元が小煩い。 「珍し──くもないか」 「自覚あるんすね」 「ない方がよかった?」 「性質は悪いけどそういう調子は変わらねぇっすね」  今度は呆れられたか、だが薄く笑みが見えた。上がっていた眉が今度は逆に下がっている。  ユーキ君は言葉が少ない変わりに顔に出る。眉の動きや目線の在り方、眼鏡のつるを触ったりと彼の中は割と煩いらしい。 「……ごめんね」  玄関を通るユーキ君の背中にそう言ってみると、首だけ半分こちらに向いて思い切り、はぁ? というような顔をされてしまった。 「あんた、ほんとにどうしたんすか。調子狂ってるし、俺も狂う」  ……うん。  俺はマフラーを引き下げて口元を出した。 「──名前、呼んでほしくて」  靴を脱ぎかけたユーキ君が目を丸くする。 「……楠木(くすのき)さん?」 「じゃなくて」  苗字ではなく、名前を。  部屋の前の通路の淡い灯りは締めたドアでなくなり、数秒の暗さから部屋の電気の強い灯りに変わる。一瞬目が眩んで元に戻るまでにユーキ君は部屋に上がり、俺は靴を履いたまま立っていた。 「トールさん?」  (とおる)。俺の名前。  訝し気でも何でもよかった。電話でも文字でもなく、彼が呼ぶ声を聴きたかった。 「──ふふっ、うん。腹減った。今日は何かなー」  俺は靴を脱いで部屋に上がる。

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