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緑と透明
眼鏡の男の人は煙草を吸いながら待っていた。喫茶店の奥のテーブルで手を上げる彼は笑っている。
昔から見る笑顔と、少しも変わりはない。
「──久しぶりだね」
「お久しぶりです」
そう言って俺もコートを脱いで席に着く。同じものをと店員に告げてくれた人は、僕の親戚にあたる人で──おじさん、と言ったら怒るのだがお兄さんとも言い辛いので名前で呼んでいる。
「元気そうだね」
俺は携帯電話をテーブルに置いてこう言った。
「……知ってるんですか? その──」
「──君の雇用主は全く知らない。僕は預けただけだよ」
それとなく聞こうとした矢先、打つ前から先回りされていたようだ。
彼はそういう人だ。ノーフレームの眼鏡の奥はいつも見ていないようでよく見ている。
珈琲が運ばれてきた。ブラックのまま一口、やっぱり苦かったので砂糖を一つ落とす。
「君の様子は先生の様子でわかる。ちゃんとやってるみたいで安心してるよ」
俺はこの人を頼り、家政夫として働きだした。今は住み込みとなっているが、それまでの経由も彼は知っているだろう。
どうせ──なんて言い方は失礼か。
「……おかげさまで、なんとか」
そう言い返すのがいいところで、彼は頬杖をついて煙草を消す。本題に入るとわかった時、俺もカップを置いた。
「……眼鏡かけてたっけ?」
俺は今日、伊達眼鏡をかけている。変装したつもりでいた。
「似合ってる似合ってる──そんなに嫌か」
勝手に身体が跳ねた。俯いて何も答えないでいると彼は、ふーっ、と息をつく。呆れたものか、ただの呼吸か。
「……嫌、です」
「そっか。ごめんな、責めてるみたいに聞こえたかー」
そんな風には聞こえていない。
ただ、自分が嫌だった。
自分だけではなく、彼にも迷惑をかけているかと思うと居たたまれなかった。
「……まだ、ハナさんには言わないでください」
俺の雇用主で、付き合っている人で──男の人、で。
彼には迷惑をかけたくない、絶対にだ。時間の問題という事もわかっている。いずれ知る事になるだろうし、いずれ知ってもらわなきゃとは思っている。まだ今じゃない、と思うのはいけない事だろうか。
「言わないよ。でも変装は解いてくれ。久しぶりに会ったんだ」
顔を見せてくれよ、と彼──トールさんは言う。黒縁の眼鏡を外して顔を上げると、トールさんは微笑んでいた。
「あんなに小さかったのになー」
今では俺の方が背が高い。
「すみま、せん?」
「ははっ、謝ったら小さくなんのー?」
トールさんはまた煙草に火を点ける。白い煙が吐かれ、大人の目がすぐまた俺を捉えた。
「そっか、まだ駄目か」
「……はい」
駄目というのは、俺の事情。俺が家を出た理由。もうすぐ二年になる。それでもあの人達は俺を探しているらしい。いや、きっとトールさんを通じて知っているかもしれない。
それでも、もう──会いたくない。
ここだって近い場所だ。遭遇する確率なんてゼロに近いが、こうやって伊達眼鏡なんて簡単な変装をしている。
……どうしても駄目なんだ。
「……迷惑かけてすみません」
「迷惑くらいかけていいよー。伊達にシローのおじさんやってないんだし」
おじさんは、全然へっちゃら、と楽し気に笑う。
「……おじさん」
「あー駄目ー、おじさんって言わないでー」
「相変わらずめんどくさ……──ありがと、トールさん」
茶化してくれたおかげで、俺はやっとで笑えたのだった。
【緑と透明──終わり】
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