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第20話

 二部も一部と同様に素晴らしい演奏の数々で、優志は今までクラッシックを真面目に聴いてこなかった事を少し後悔した。もう少し知識があれば、もっともっと楽しめたんじゃないかと思ったからだ。 「樹さん、確か物販やってたよね、ちょっと見てから帰ってもいい?」 「あぁ、構わないぞ……何か買って帰るのか?」 「うん、CD売ってたよね……」 「あぁ……もしかしてピアノ?」 「うん、あのピアニストの人の売ってるかなぁ……」  名前は確か藤森喜美香(ふじもりきみか)プログラムにそう書いてあった。  三階部分にあった客席から通路に出て、二階ロビーへエスカレーターで降りる。一斉に出て行く客達で通路は混み合っているが、どの顔にも満足そうな笑顔が浮かんでいた。  そういう顔を見ていると、自分も楽しくなる。そして、いつか自分がそういう表情をさせられるようになりたいと、その思いはより一層強まる。  舞台じゃなくても、同じだと思う。  観る人を魅了させ、感動を与える。それは芝居や歌、踊り、それだけではなく今日の演奏やそして、樹が生み出すような小説だってそうだ。  誰かの魂を強く揺さぶる。  そんな何かが出来たら、きっと夢に近付けるのではないかと。それは確信に近い、だから今のままではダメなのだと分かる。 「優志」 「あ、ごめん……」  呆けていた訳ではなかったが、考え事に夢中でつい物販の前を通り過ぎてしまっていたらしい。  物販は二階ロビーで行われていて、過去のコンサートのDVDや各演奏者のCDや著書などが売られていて、そこには人だかりが出来ていた。だが、並んでいれば直に順番は回ってきそうだ。 「ちょっと、買って来るね」 「優志……」 「ん?」 「……藤森のCDが欲しいんだよな……?」 「うん」 「……だったら、家にある……聴くなら貸すが……」 「え?!」  吃驚して聞き返すと、樹は渋い物を食べたような顔になった。 「え……っと、ファンなの?」 「……そういう訳じゃない……」 「いいの?貸してもらっても……」 「あぁ……多分、全部ある」 「……そうなんだ……」 「じゃあ、いいな……帰ろう」 「あ……」  優志の返事を待たずに樹は歩き出した。人混みに紛れても長身のおかげで見失う事はないが、置いていかれると追いかけるのも大変だ。  周りの迷惑にならないようにしながら、樹の後を追いかけて歩く。二階ロビーから続く長いエスカレーターで一階に降りクロークへ向かう。  コートと荷物を引き取り、帰るのかと思っていたが樹は受付の方へ歩いて行った。受付の係員と何言か話し、それから係員が案内をするようにホール外の通路へと歩いて行った。 「?」  優志はどうしたらいいのかと迷っていたが、振返った樹が手招くのでその後ろを着いて歩いた。 「樹さん?」 「……挨拶をしていかないとな……後々面倒だからな……」 「?」  係員は壁際に付いている扉をカードキーで開けると、二人を中へ通した。通路を奥まで進むとエレベーターが2基あり、上に進む矢印の付いたボタンを係員は押した。  待つでもなく扉が開いたので、それに三人で乗り込み係員は5と書かれた数字ボタンを押す。どうやら目指す階は五階らしい。一体どこへ連れて行かれるのだろう。優志は訳が分からないままに二人の後に着き歩いた。  五階に着くと、通路には幾つかの扉が並んでいた。それのどれもが控え室らしく、個人名や団体名が扉に貼り付けてある。  そして係員が立ち止まったのは「ピアニスト 藤森喜美香」と書かれた扉の前だった。 「え……?!」  係員がノックをして返ってきたのは、ややハスキーな女性の声だった。 「お疲れのところすみません、面会の方をご案内致しました」  扉が内側から開かれ、出てきたのは先程まで壇上で優志を虜にしたピアノ演奏者、藤森喜美香その人だった。 「……樹……」  舞台で着ていたシックな黒いドレスのままの喜美香は、扉の前に立っていた樹を見て笑顔を浮かべた。その笑顔は想い人に会えて嬉しいと素直に語っている。  歳は樹と同じだ、プログラムに書かれていた年齢を思い出す。だが、客席から見るよりも、プログラムの写真よりも実物の方がずっと美人だった。身長は160センチあるかないかと小柄だが、スタイルは抜群によい。胸の開いたドレスを優雅に着こなす姿は、ピアニストというよりはスーパーモデルかセレブ女優のようだ。 「来てくれてありがとう……お花も受け取ったわ、嬉しい……樹、ありがとう」 「あぁ……」  見つめ合う二人。取り残されたのは優志と係員だ。だが、係員は仕事があるからか「失礼します」と言い残すと早々にその場から立ち去ってしまった。  出来れば自分も立ち去りたい、というか見ていたくなんてない。  まだ紹介されてないけれど、分かる。この人がきっと樹の元奥さんなのだと。

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