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第21話

「今日は寝ないでちゃんと聴いてくれた?」 「あぁ、聴いてたよ、ちゃんと証人もいるさ」  そう言って樹の視線は喜美香から斜め後に控えていた優志に移る。4つの瞳に見つめられると、緊張で心臓が跳ね上がる。なまじ二人とも美形だから余計だ。 「あら、新しい恋人?」  妖艶な笑みを浮かべて真っ直ぐに優志を見つめる瞳は、まるで値踏みするかのようだ。蛇に睨まれた蛙のように優志は固まってしまった。 「あぁ、可愛いだろ?」 「?!」 「うふふふ……」  がっちりと肩を掴まれ後から樹の胸に引き寄せられる。優志はどう反応していいのか分からず、顔を真っ赤にして硬直してしまう。だが、体は固いのに頭の中は真っ白に溶け出して心臓は壊れてしまいそうな程にフル稼働だ。  喜美香はというと、そんな二人を変わらず笑顔で見ているので怖い、その笑顔がとてつもなく怖い。 「い、いつ、きさん?!」 「やーん、ずるーい!こんな可愛い子一人占めなんて、ずるいわ、樹!!!」  てっきり怒っているのかと思った喜美香は、突然幼女のようにぷくりと頬を膨らませ両の手を握り締めてダダを捏ねたようにそれをぶんぶんと振り回した。 「羨ましいだろー、だが、やらないぞ、これはオレのだからな」 「ずるいわ、一週間……いやん、一ヶ月位はあたしも一緒にこの子といたーい!ねぇ、名前は」  ずいっと喜美香の顔が近付くと、しっかりと優志は手を握られた。ふわりと鼻を掠めたのはフローラル系の甘やかな香水の香り。 「名前は?」  メイクをしていなくても相当の美人だと窺える整った顔立ちに圧倒され、優志はシドロモドロに答えた。 「え、江戸川……ゆう、優志です……」 「優志くん?いくつ??」 「はたちです……」  樹に助けを求めようと見上げても、何故かニコニコと笑っているだけで助けてくれそうな気配はない。正直泣きたくなってきた。  女性は嫌いではないが、苦手だ。しかも、こんな美女に迫られるなんて優志には恐怖以外の何物でもなかった。 「きゃーん、わかーい!!樹なんて止めて私にしない?年末は海外よ、樹なんてどうせ炬燵で蜜柑食べてるような男よ、甲斐性なんてないわよ、絶対損よ?!」  炬燵で蜜柑……いや、樹の部屋には炬燵はない。だがそんな突っ込み怖くて出来ない。 「ね、ね、ね、そうしましょ?絶対優志君を退屈なんてさせないからぁ~」  今度は腕に喜美香の腕が絡みつき、胸が押し付けれる。多分普通の男子なら喜んで着いて行くだろうが、優志はあまり女性に興味がないので、柔らかくてグラマスな胸も脂肪の塊にしか思えない。  体を必死で捻り避けようとするのだが、その分喜美香が擦り寄ってくる。このままでは絡め取られてしまいそうだ。 「ほら、その辺にしておけ」 「樹!」  傍観から一転、漸く助け舟を出してくれた樹は優志と喜美香の間を割るようにして入り腕を離してくれた。  先程までのにこやかな顔ではなく、少し困ったような顔だ。別れたとはいえ、元妻が優志に懐いて(懐くというか絡みつくというか)きて面白くないのかもしれない。  途端にばくばくと暴走していた心臓に、押し潰されたような痛みが走る。 「言っただろう、これはオレのだと」 「ずるい!」  何故そんな事を言うのか、樹の真意が分からない。そんな風に想っているなんて事、あり得ないのに。  樹は背後から優志の肩を抱き、しっかりと胸の中に収める。それは自分の所有物だと知らしめるような行為で、優志は信じられない気持ちでその腕に抱かれた。 「じゃあ、優志に聞いてみろよ、優志、オレと喜美香どっちを選ぶ?」 「え……?」 「私よね、優志君」  目の前には自信たっぷりの喜美香、そして背中からきつく抱きしめてくれるのは樹。迷う問題ではない。決まりきった事だ。 「……樹さん……」 「いやー!嘘よ!樹のどこがいいのよぉー!!こんな顔だけの男一緒に居たって損よ!」 「……お前、元旦那に向かってそれは酷くないか……?」 「元妻だから言えるのよ!優志君の人生の損失よ?!」 「……だけど……」  しっかりと抱かれているせいで、首を動かしずらかったが、それでも樹を見てから優志ははっきりと言った。  樹の真意は分からない、きっと気まぐれだと分かっていても自分の気持ちに嘘偽りはないから。 「オレは樹さんがいい……」  好きだから。  とは言えなかった。重荷だと思われたくはないから。 「……この子、ゲイでしょ……」  喜美香の鋭い視線が樹を射抜く。 「もー、私に見せ付ける為にこの子連れてきたんでしょ!!まだ桃子ちゃんの事根に持ってるなんて、女々しい男!」 「根に持ってなんかいないさ、ただ、世の中にはいくらお前でも靡かない男が居るって事を知ってもらいたいと思ってな」 「悔しいー!優志君、樹なんて弄んでポイって捨てちゃって!」 「え……いや、それは……」 「優志は優しいからそんな事しないよなー」  悪戯が成功したような、そんな誇らしげな表情の樹。弄ばれてるのは多分自分だと思う。  だけど、こんな風に抱きしめられて「オレのもの」だなんて言って貰えただけでいい、きっとこの先こんな事を言われる事など決してないのだから。 「……もう、樹のバカ」  さっきまで怒っていた喜美香の顔はいつのまにか、壇上で見せたピアニストの顔に戻っていた。  すっと背後から樹の熱が消え、隣に気配が寄る。 「じゃあ、オレ達はこれで……終わったばかりなのに悪かったな」 「ううん、今日は本当にありがとう……」 「いや、楽しませてもらった……変わらない……いや、昔よりも益々良くなったよ、お前のピアノ」 「ありがとう……」 「じゃあ……」 「えぇ……」  見つめ合う二人の間に入る事なんて、誰も出来ない。だけど、その二人がこれからの時間を共有していく事もない。   もう、終わったのだと二人は無言で言っている。だけど、それはきっと悲しい事ではないのだ。この二人を見ていれば分かる。  どんな理由で別れたのかは知らないが、この関係は今の二人に取って最良のようだから。 「じゃあ、元気でな、喜美香」 「えぇ、樹も……いつも読んでるわよ、あなたの本」 「……ありがとう」  肩を叩かれ退室しようと促されたが、優志の足は動かなかった。 「今日、オレ、初めてコンサート来たんですけど……あの、すっごく良かったです……」 「まぁ、ありがとう……」  先に行っているぞ、と言い置き樹は控え室から出て行った。優志も早く後を追いかけたかったが、あの感動を本人にどうしても伝えたかったのだ。 「上手く言えないですけど……その、すごく感動して……いいなぁって……えっと……」 「ピアニストになりたいの?」 「いえ……そうじゃないんですけど……オレ、いつかこういう大きな舞台に立ちたいんです……今はまだ……役者っていってもエキストラ位の役しか貰えてないんですけど……でも、その……喜美香さんのピアノに勇気付けられたっていうか……すごく、元気になれました……」 「……ありがとう……嬉しいわ、君みたいな子にそう言ってもらえるの……頑張ってね、私も応援してるわ」 「はい、ありがとうございます…じゃあ、失礼します……」  踵を返そうとした所を喜美香が引き止める。優志はどうしたのかと振り返った。 「待って、優志君」 「はい……?」 「……樹の事、よろしくね」 「……喜美香さん……」  微笑んだ喜美香は儚げで、そして美しい。その目には初めて見る色が浮かぶ、優志はその瞳の中にある喜美香の樹への想いを知った。  まだ、好きなのだと。樹が……。 「好きなんでしょ……?」  私と同じ、喜美香の瞳がそう語る。 「……はい……だけど、オレ」 「分かってる、恋人じゃあないんでしょ?酷い男よね……私への当てつけに連れてくるなんて……」 「いえ……いいんです、今日一日、恋人気分を味わえましたから……」 「……そう……優志君……あの人の側にずっといれば、いつかきっと想いは届くわ……」 「……喜美香さん……」 「私は無理だったけどね……」  そう言った喜美香の寂しそうな笑顔はいつまでも優志の脳裏から消える事はなかった。

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