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第40話
コーヒーを淹れ戻ってくると、樹はテーブルの上に置かれていたアクターズ最新刊をぱらぱらと読んでいた。
美月は支度をする為に別の部屋へ移動した際、コミックを持って行っているので、樹が手にしているのは優志のコミックだった。
優志が戻ってくるのに気付くと、樹はコミックから顔を上げた。
「これ、そんなに面白いのか?」
「う、うん……面白いよ」
「ふーん…」
あまり興味なさそうな反応だ。樹はあまり漫画は読まないのか、本棚にも漫画本は少ない。
樹の前にマグカップを置くと、小さく「ありがとう」と言ってカップを手に取る、アクターズはまだ手にしたままだ。
優志は樹と少し距離を開けて、同じソファーへ座った。
時折コーヒーを啜る音と樹がページを捲る音しか聞こえてこない、沈黙が重く感じられた。だからといって何を話したらいいのか、優志には分からなかった。
ただ、樹の機嫌が直るのを待つばかりだ。
廊下からぱたぱたという足音が聞こえ、リビングに通じるドアが勢いよく開く。着替えたのか、マキシ丈の花柄のワンピースを着た美月はスマートフォンを片手にソファーへ近付いた。
先程とは違い、薄っすらとだが化粧を施したその顔はテレビで見るよりも可愛らしく見えた。
「優志君、ライン交換しとこ?」
「え?!!」
「またテレビ出るとき教えてよ、チェックするからさ!」
「あ、ありがと……」
急な申し出に面食らってしまった優志だった、はっとした表情をすると隣に座る樹の顔色を伺った。
さっきよりも機嫌が悪くなっているのがはっきりと分かる。真一文字に結ばれた唇に、眉間は険しく寄せられている。
「QRコード……じゃあこれでいい?」
樹の様子などまるで分かっていない美月は、スマホを操作しながら無邪気に言う。
「えっと……あ、うん……分かった……」
教えられない理由はないので、優志は樹が気にはなったが美月に言われるままにスマホをかざしコードを読み取る。
連絡先を交換し終えると、美月は入ってきた勢いのままで部屋から出て行った。
「それじゃあ、行ってきまーす」
「うん、気をつけて……」
樹は美月の後を追うように部屋から出て行った。多分、見送るのだろう。
暫く待っているとリビングに樹が戻って来た。出て行った時同様にあまり機嫌は良くないようだ、険しさは無くなっているが全くの無表情になっている。
整った顔立ちは笑顔を消し去ると、硬質な冷たさを感じさせた。
優志はもう帰るべきだろうと思い、ソファーから立ち上がった。
「じゃあ、樹さん……オレ……」
「来いよ」
「え……?」
「抱かれにきたんだろう?」
「……!」
樹の挑むような目付きに、優志は言葉に詰まった。
ただ顔が見たくて、声が聞きたくて。それだけのつもりでいた。だけど、本当はそれだけではない。樹の腕に抱かれ、熱を感じたい。
見透かすような樹の瞳に優志は動けなかった。
「来いよ」
樹はもう一度言うと、くるりと背を向けリビングから出て行った。
迷いは一瞬で捨て、優志は樹を追うようにリビングを出て、寝室へ向かった。
樹の瞳に嫌悪や侮蔑があったなら、直ぐに立ち去っていただろう。
だが、情欲を滾らせ肉食獣のような獰猛さを孕んだ瞳に、優志はずっと戸惑っていた。
「……ん、うぅ……んぅ……」
愛撫もそこそこに樹は優志の中へ入ってきた。
背後から掴まれた腰を高く上げさせられ、荒々しく腰を遣われる。労わるような気配は微塵もなく、ただ肉欲の為のみの行為。
快楽は痛みを伴う、特に今日は十分に入り口が解されていなかったのだろう、焼け付くような痛みは去る事がない。
いつもであれば、体も心も溶かされるような愉悦に体中が支配されるのに、今日は頭の中も冷静だ。
歯を食いしばり、シーツを掴んでその痛みに耐える。シーツに横顔が擦れる度、そこが濡れるのが分かる。涙なのか汗なのか分からない。
欲望をぶつけられても樹の気が治まらなかったらどうしよう。樹が大事に想っているのは美月だ。美月との時間を邪魔した上に連絡先の交換までしてしまった。
厚かましいと思われたに違いない。怒っているからこんな風に抱くのだ。
だけどどんな扱いを受けようと、優志は樹に対して何も言う事が出来なかった。
こんな事で樹の気持ちが晴れるなら、自分を許してくれるならどんな事をされても平気だった。
笑顔が見れなくなるよりはいい。
「……ごめんさない……ごめんなさい……」
微かな声で幾度となく呟いた。その声は樹には果たして届いていたのだろうか。
何回したのかなんて分からなかった。
いつも終わった後はあっさりとしている。甘いピロトークなんてない。
だけど今日はいつもとも違う。
抱かれた幸福感はなく、ただ体に残るのは疲労と鈍痛だけ。
のろのろと体を起こし、ベッドの下に散らかった衣服を手に取ると、優志は緩慢な動作で着替え始めた。
樹は黙ってそれを見ていた。いまだ恐ろしい程の無表情で。
「……じゃあ、オレ、帰るね……」
本当はこのまま眠ってしまいたい程に体は重かった。熱を持った体は鉛を埋めたかのようで、指を動かすのすら気力がいる。
「当分来るな」
「え……?」
「締め切りが幾つか重なって忙しくなる、お前も忙しいんじゃないのか?」
「……分かった……」
言葉を交わす間樹は優志の方を見ようともしなかった。じっと壁を見つめ、表情は閉ざしたまま。
冷たい瞳を見て、樹がまだ怒っているのだと優志は思った。
声が震えてしまわないように、努めて明るく答えた。
本当は言いたい言葉があったけれど、それは喉の奥に張り付いたまま声には出せなかった。
「……じゃあ……原稿頑張ってね……」
「あぁ」
視線を合わせようとしない樹に向かい、優志は笑顔を向けた。それは心からの笑顔でなく、カメラに向けて作る時の笑顔だ。
こんな時に出る表情が笑顔なんてどうかしている、そうは思ったがそれ以外が思いつかなかった。
優志が出て行っても樹は見送りにも来ない。当然だ、自分は美月ではないのだ。見送る程の価値もない存在なのだ。
そう、だから言ってはいけないのだ。今度いつ来てもいいのかと、問うてはいけないのだ。
心の中はしんと静まり、凍えるような冷たさが満たす。
あまりにも哀しい時、人は涙も流さないのだとその時初めて知った。
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