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第43話
6月中旬から梅雨に入ると毎日どんよりと雲の多い鈍色の空模様が続いた。
湿った風が吹き、体の表面を湿度の幕が覆う。毎年の事だが梅雨の時期はどうしても気分が晴れない。
今にも降り出しそうな曇天の下、心持ち急ぎ足になりながら優志は事務所を目指した。
樹の部屋に行かなくなってから二週間が過ぎた。今は7月初旬、梅雨時期真っ最中だ。
気持ちを伝えようと決めたら心が軽くなった。いつ伝えるかはまだ決めていない。樹は締め切りが幾つか重なると言っていた。
それが本当の事なのか分からなかったが、確かめる事も出来ず、また優志自身も忙しかった。
深夜ドラマの撮影は終わったが、今度は昼ドラに端役ではあるが出演が決まった。
少しずつ仕事が増え、夢に近付いている気がして毎日が楽しかった。
「アクターズのオーディションですか?!」
「そう、優志、アクターズ出たいってずっと言ってたでしょう、今度こそ役取れるように頑張るのよ!」
「はい、頑張ります!」
岩根からオーディションの要項を渡され、優志は期待と緊張で胸が高鳴った。
前回落ちたオーディション、あの時の悔しさを今度こそは喜びに変えたい。
自分にどれだけ出来るか分からないけれど、これはチャンスだ。アクターズに出演して売れ出した若手俳優は沢山いる。売れるチャンスという事もあるが、純粋にあの作品に関わりたいという思いの方が強かった。
あの作品が好きなのだ、アクターズだから出たい、そう心から思う。
「オーディションには万全の態勢で臨みたいから、体調管理だけはしっかりとね」
「はい!」
その夜は興奮してしまって中々寝付く事が出来なかった。こんな事ではオーディション前日寝れなくて、当日寝坊して遅刻なんて事になりかねない。
寝る事も体調管理のひとつだ。体が資本なのだ、ゆっくり体を休める事も仕事の内だ。
要項を渡され一週間後がオーディション、その一週間は瞬く間に過ぎていった。
一日のレッスンが終わり、今日はバイトもないので優志は真っ直ぐに帰途に付いた。
バイト先を辞めるのはこのオーディションの合否が分かってから、そう優志は決めていた。
辞めてしまって本当にいいのか、これからの生活に不安がない訳ではなかったが、幸介も言っていたように俳優業に専念した方が仕事にも集中出来ると思ったからだ。
オーディションに受かったら。
いや、受からなければ。
明日のオーディションを前に微かな興奮と緊張が体を包む。モチベーションは十分だ、あとは明日全力で挑むだけだ。
レッスンからの帰り際何となく本屋に寄った。雑誌コーナーを適当に流し、文芸書の新刊コーナーの前で足を止めた。
「……あ、新刊……」
目に鮮やかな青色の空が描かれた表紙「守川 樹」の名前に視線が釘付けにされる。本を手に取ると、著者名を指で一文字一文字辿り、中をぺらぺらと捲ってみた。
忙しさにかまけて、全然チェックしていなかった。これではファン失格だ。
中を見ていると隣に立ったスーツ姿のサラリーマンが樹の新刊を手に取ると、中も見ないでそのままレジに持っていく。その後姿を見ながら、樹も本を手にレジへと向かった。
部屋に帰らずに、駅に戻り帰宅ラッシュで混雑している電車にもう一度乗り込む。
自分でも衝動的だと思ったが、どうしても会いたいと思ったのだ。樹の本を手に優志は通い慣れたマンションに向かった。
時刻は夕方18時、訪問するのに不適切な時間ではないが、最後に会った時の事を考えるとチャイムを押す指が緊張で震えた。
明日のオーディションとは違った緊張感だ。それは心臓を押し潰すような切ない痛みを伴ったもの。ドアの向こうの樹に拒絶されるのではないかという不安と恐怖からの緊張だ。
呼び鈴を鳴らすとインターホンから聞きなれた樹の声が聞こえてきた。
「はい?」
「……あ、あの……樹さん……」
「優志か?」
「うん……」
「ちょっと待ってろ」
バクバクと心臓が暴走している。樹の声は特に不機嫌そうな気はしなかったけれど、大丈夫だろうか。
仕事中だったりしたらどうしよう。それ以前に美月が来ていたりしたら最悪だ……。
帰れとは言われなかったけれど、本当は帰った方がいいのだろうか。
ぐるぐると悩んでいると、ドアが開き中から樹が顔を出した。
「久しぶりだな」
「……う、うん……」
「入らないのか?」
ドアの前から動こうとしない優志を怪訝そうに見つめる樹の表情は、普段と変わらない穏やかなものだ。拍子抜けしてしまう程にあっさりとした態度に、幾分安堵しながら「おじゃまします」と言い玄関に入った。
リビングに通されソファーで待つように言われた。キッチンに消えていく樹の後姿を見ながら優志は落ち着かない気分を味わっていた。
いつもと変わらないような樹。前回「当分来るな」と言った事をもう忘れてしまったのだろうか?それとも「当分」というのはもう過ぎて、今は来てもいい時期になっているという事なのだろうか?
でも部屋に上げてくれたという事は、今は時間が取って貰えるという事なのだろう、それがたとえ数分でも樹の側にいられるなら優志は満足だった。
コーヒーの香りが鼻につき、キッチンの方を見るとトレーを持った樹が戻ってきた所だった。
「コーヒーで良かったか?」
「あ、うん……ありがとう……」
優志の前にカップを置くと、少し距離を置いて樹もソファーに座った。
お互い無言でコーヒーを啜る。何となくぎこちない空気が流れる、その時優志はもしかしたらと思った。
樹さんも距離を測りかねているのかもしれない……。
それは単に優志を追い返すタイミングを測っているだけかもしれないけれど、でも、あんな風に別れた後だからただ気まずいと思っているのしれない。
楽観的に考え過ぎだろうか。でも、それなら優志は気にしていないのでいつも通りに接してくれればいいだけだ。
「あ、あのね、オレ……明日、オーディションなんだ……」
「オーディション?」
「うん、アクターズの……」
「そうか……また、受けるのか」
「うん……」
前に落ちた事があるという事を覚えていてくれたようだ。小さな事だが、覚えていてくれた事は嬉しかった。それが、優志にとっては悔しい思い出だとしても。
探りながら口を開く、もう樹に対する緊張はなくなったが、明日の事を思うと胃がキリリと痛むような緊張が襲う。
また、落ちたらどうしよう。落ちて樹に幻滅されたらどうしよう。別に優志が落ちたからといって、樹が気に掛けてくれる事でもないかもしれないけれど。
でも、応援してくれるって言ってた……。
それは……まだ有効なのだろうか。
優志は自分が樹に勇気付けて貰いたがっている事に気付いた。それは甘えだ、だけど、一言「頑張れ」と言って貰えるだけで自分の勇気は何倍にも膨れ上がるのだ。
だから。
「頑張ってこいよ」
カップから視線を上げると、樹がこちらをじっと見ていた。真剣な眼差しを受け、優志は心の中に闘志のようなものが湧き上がるのを感じた。
我ながら単純だ、そうは思うが、特別な人が言ってくれた言葉なのだ。何物にも変えがたい程のパワーがそこにはある。
「うん、頑張る……オレ、絶対アクターズの舞台に立ちたい……ううん、立つ……!」
「あぁ、大変な事だと思うけど自信持って行って来い、この為にレッスン頑張ってるんだろ?」
「ありがとう、樹さん……オレね、あの……樹さんが好き」
自分の口から出た言葉に優志自身が吃驚してしまった。
ありがとう、それだけが言いたかっただけなのに、何故かすっと「好き」という言葉が出てしまった。想いが溢れてしまったのだろうか。
「あ、あのね、あの、樹さんの本、が、すきなの、今日も新刊、か、買ったんだ、まだ、その、よ、読んでないんだけど……」
しどろもどろになりながら、優志はずっと持っていた書店の紙袋を掲げて見せた。軽いパニック状態になっている。
「ん、あぁ……そうか、ありがとうな」
「あ、明日のお守りにするね!!」
「……お守りになるのか?」
「なる、絶対、なるから……!」
「そうか……」
恥ずかし過ぎて赤面しているのが見なくても分かった。熱を持った頬を隠すように俯いて、膝の上に置いた紙袋の上で拳をきゅっと握り締める。
自分の気持ちに気付かれたらどうしよう。おかしいと思われなかっただろうか。
でも、確かめるのが怖い。引かれたり、重いと思われて関係が断ち切られるのが怖い。
「頑張って来いよ」
だが、優志の心配を他所に樹は同じ言葉を与えてくれた。
恐る恐る顔を上げてみると、いつもと変わらない笑顔を浮かべている樹と目が合った。どうやらおかしくは思われていないようだ。
そっと息を吐き出し、優志は決意を込めて頷いた。
「うん、頑張る」
今自分に出来る事を頑張る。少しでも高みに上れるように、胸を張って樹の隣に並べるように。
頑張ってアクターズの舞台に立てたら……そうしたら樹も喜んでくれるだろうか?そうだと嬉しい。
明日のオーディションに向け、優志は力強い勇気を貰えたように思えた。
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