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第52話

本番まで一ヶ月を切り、稽古場の雰囲気は緊張を孕んだものへと変わっていた。しかし、それは舞台に対しての熱気が故のものではなく、ぎくしゃくした人間関係がもたらす副産物だった。  稽古場の中、そんな雰囲気を意に介さない男が一人。光石太一は自分の台本で顔を覆いながら大きく欠伸をした。  今回で3作目のアクターズだが、初演から入っているのは太一を含め数人だ。スタッフはほぼ同じなのでやり方も同じ、キャストが変わってもスムーズに稽古が進むものだと思っていた。  確かに稽古はスムーズかもしれない、だが、稽古場の雰囲気は何とも嫌な感じに煮詰まっている。原因は新キャストと旧キャストの折り合いの悪さだ。 「おはようございます」  そう言って稽古場に入って来たのは四条役の江戸川優志だ。優志は太一に気付くと、少しだけ笑顔を見せ小さな会釈をしてきた。 「おはよ」 「おはようございます」  他の仕事でなのか今は明るめの茶髪になった髪がさらりと揺れる。黙っていればクールな印象を受け、今の髪色と相まって軽薄そうなチャラ男系に見えるが本当は真面目で気弱なタイプだ。外見で得をしているのか、損をしているのか太一には判断がつかなかった。  太一はだいたい旧キャストの居る演劇部役の役者達と一緒にいるが、優志は一人の事が多い。多分人見知りのせいだろう。だから休憩の時なんかは側に行って話たりしているのだが、最近はそれも控えている。  旧キャストと新キャストの折り合いが悪いが、その中で優志は一人浮いていた。新キャストの中にどうやら入れていないせいだ。だからといって旧キャスト組にも入ってこれないようなので、孤立している。  永治もある意味浮いているが、こっちはどちらかというと一匹狼を気取っているだけで、団体行動が出来ない子供みたいな存在だ。治樹が適当にフォローしているようだから太一は放っておいた。  稽古が始まれば蟠りがないような態度で稽古をするのだが、それ以外の所ではキャスト同士挨拶もしない。それが日常だ。 「おい、これ誰だよ、脱ぎっぱなしにしとくなよな」  休憩中の事、キャストの一人が床に放置してあったジャージを指差して顔を顰める。その辺りには誰もいなかったので、誰の物なのか不明なようだ。  演劇部の穂高将(ほだか まさる)は周りを睥睨して溜息を吐き出した。将は旧キャストの一人で、真面目で融通の利かない頑固な性格をしている。どうやら放置が気に入らないようだ。  そこへ新キャストの福井崇弘(ふくい たかひろ)がその放置ジャージを無言で拾い上げた。どうやら崇弘の物のようだ、不貞腐れた表情で何も言わずに将の前を通り稽古場の隅へと向かう。 「おい、気を付けろよな」 「分かってるよ、説教くせーな」 「何だと」 「おい、二人共何してんだ、休憩終わるぞ」  間に入ったのは副部長役の治樹だ。治樹は旧キャストでもあるし、現場では年長組な上役者としてのキャリアも長く、スタッフからの信頼も篤い。キャスト間でも一目置かれているのでこういう場合治樹の言う事であれば大抵の人間は素直に従っている。  だからだろう、まだ大きな揉め事も起きずに稽古が進んでいるのは。 「将、お前ももう少し大目に見てやれよ、新キャストの連中こういう現場初めてなのが多いんだからさ……」 「……分かってるよ、だけどさ……」  ちらりと新キャストを見れば、さっきの事など忘れたような顔で他の者とふざけ合っている。その態度も将は気に入らないようで、眉間に皺が寄る。 「ったく、あいつらもう少し真面目に出来ないのかよ……稽古中だって真剣にやってない奴らいるじゃん……」 「……まぁまぁ、大丈夫だよ、本番近くなればあいつらだってさ……」 「近くなってからじゃ遅いんだよ、オレ達が作ってきたアクターズがあいつらのせいで評判落ちたら治樹だってイヤだろ?」 「そりゃそうだけど……」 「あーもう、休憩終わるよ、集まろう」  旧キャストは全部で5人いる、4人は演劇部部員、もう1人は新聞部部員。太一はメンドクサイと思いながらもその輪の中に居た。  新キャストも真面目にやっているのだろうけれど、旧キャストが作ってきた空気にまだ馴染めないのだろう。  まだまだ時間が掛かりそうだ、太一はそっと溜息を吐いた。  稽古が終わり稽古場からキャスト達が散り散りに解散していく。 「あ、あの……福井君……」 「なに?」 「えっと、振り付けの事なんだけど……その、ちょっといいかな……?」  たまたま近くにいた水上健吾(みなかみ けんご)と崇弘の遣り取りが聞こえて太一は立ち止まった。 「うん、何?」 「その、この後練習……していかない……?まだ揃わない感じがあって……」 「この後?」 「予定あればいいんだ……あ、中野君達も……練習……」  おどおど喋りながら上目遣いに崇弘達を見る健吾に、苛立ちを隠そうともせず崇弘が口を開く。 「悪いけど、練習する必要なんてないだろ?水上はとろいからまだ振り付け完璧じゃなさそうだけどさ、それにオレ達が付き合う必要なんてないだろ?」 「だよなー、さっきだって水上ワンテンポ遅れてたぜ、お前が確認しとけって話だよな」 「……ごめん……」 「じゃあ、オレ達帰るから」 「うん、お疲れさま」  情けない表情で見送る健吾をどうしたものかと見ていた太一だったが、先程の遣り取りを見ていたのが自分だけではな事に気付く。優志も同じように見ていたようだ。  整った顔は感情が読み取りにくい。役的にはクールな印象が合っているのだが、普段も人見知りが激しいのか笑顔を浮かべている様子は見ない。  何か話しかけるのかと思って見ていたが、優志は健吾などいないかのようにその脇を通り過ぎ稽古場から出て行った。 「……はぁ……」  旧キャストと新キャストの仲ですらあれなのに、新キャスト内までもとは……。  本当に面倒だ。太一は溜息を付きながらも健吾に近付くため足を踏み出した。

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