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第60話

 それはまさに樹にとって青天の霹靂だった。  夕方のテレビのワイドショー番組、何気なく流していたそこで目にしたのは全く思ってもみなかった妹、美月のダーツ卒業宣言だった。  樹は声もなく会見の様子を見つめた。  ネット上などで卒業の噂はあった、だがそれは根も葉もないデマだ、そう思っていた。卒業などという大事な事を実兄である自分に言わない訳がない、自分が聞いていないのだからそれは単なる噂に過ぎない。  ずっとそう思っていた。だが、それは噂ではなく事実として樹の目の前に突きつけられた。  暫し時間を忘れたように呆然としていたが、樹はテーブルに投げ出してあったスマートフォンを手に取ると美月の番号へ電話をかけた。  だが仕事中なのか美月は出ない。ならばと、今度は実家へ掛ける。そちらは直ぐに繋がった。 「はい、守川です」  「母さん?オレだけど」 「あら、樹、やっぱり掛けてきたわね」 「やっぱりって……まさか美月の事聞いてたのか?」 「そりゃ聞いていたわよ、ここへ来たんだもの、マネージャーさんと社長さんと一緒に」 「……は?じゃあ、どうしてオレに言わないんだよ!」 「だってアンタ反対するでしょう?」 「……そりゃ、反対するだろ、なんで卒業なんて……」  深い溜息と共に呆れたような母の声がスマホ越しに届く。 「アンタね、美月の気持ち考えた事ある?」 「え……?」 「オーディション受ける時も、事務所に入る時も……あの子がアイドルになりたいなんて一言でも言った……?」 「……」 「そりゃ、嫌だとは言ってなかったわ、嫌々やってた訳じゃないけど……」 「オレが、やらせてたって言うのか?」 「そうじゃないけど……でも、ここのところずっと悩んでたみたいだから……帰って来ても辞めたいって何度も言って……でもアンタが反対するだろうから、もう少し頑張ろうって頑張ってきてたのよ」 「……オレが反対するからって……」 「お兄ちゃん子だからね、アンタに失望されたくなかったんでしょ」 「……」 「とにかくもう決まった事なんだから、あの子にとやかく言うんじゃないよ」 「分かってるよ……美月が決めた事だ……オレは……反対も何もない……」 「そう……あと一つ、あの子が決めた事があるけどそれにも反対しないでね」 「もう一つって何だよ」 「私の口からは言えないわよ、あの子から聞きなさい」 「分かった……」 「たまにはアンタも家に帰って来なさいよ、忙しい美月だってたまには帰って来るんだから」 「分かったよ……じゃあ……」 「えぇ、元気でね」  重苦しい気持ちのまま通話終了ボタンを押す。スマホを握ったまま深々とソファーへ身を沈める。  天井に向かい重い、だけど消え入りそうな溜息を吐き出した。 「はぁぁぁ……」  自分は何も分かっていなかったって事か……。  ずっと悩んでいたなんて知らなかった。美月は何も言ってくれなかった。  ……いや、知らなかった訳ではない……だけど……まさか、辞めるだなんて思ってもいなかった……。 「美月……」  失望なんてする訳ない……そりゃ、アイドルとしての美月が見れなくなるのは寂しいが、妹である美月が悩みながらステージに立ち続ける所なんて見たくない。  反対なんてしない。猛反対にあっても、自分が賛成して守ってやる位の兄でなければならないのに……。 「ごめんな……」  あれは1月下旬、締め切り前の忙しい時の事。美月と優志が部屋に来た事があった。疲れもピークにきていて二人が来ているにも関わらず寝てしまったのだ。  だが、寝る前に折角来てくれたのだから二人の顔を見てから寝よう、そう思い二人のいるリビングへ行こうとした時、廊下で漏れ聞いた話……。  美月は悩みを優志に打ち明けていた。  ……今思えばあの時に決めたのだろう。 「優志君は……俳優辞めたいって思った事ある?」  あれは美月が自問し続けてきた事なのだろう。優志も同じ芸能界に身を置く仲間、だからあんな事を言ったのだろうか……。  それともう一つ……好きな人がいるかとの問い掛け……。  あれは……なんだったんだろう……。  その夜は悶々とした気持ちのまま、一睡も出来ず朝を迎えた。 *** 「お前いつまで泣いてるんだよ……」 「泣いて、なんか……ねぇし……!」 「……優志も……部長二人が号泣ってどうなん……」 「……ぅ……っごめ……ん……オレ……」 「あぁーもういい、気の済むまで泣いてて……」  東京凱旋公演千秋楽公演がつい先程終わり、キャスト達は楽屋へ引き上げていた。 遣り切った達成感と、カーテンコールではトリプルまで貰った。幸福感と感謝、そしてこれで終わりだと思うと切なくて寂しくて、優志は舞台に立っていた時から気持ちが溢れ出してしまい感情を抑える事が出来なくなっていた。  ストーリーが全て終幕し、カーテンコールでは歌やダンスで客席の声援に応える。千秋楽なのでそれは大いに盛り上がった。  いつも以上に熱唱し、ダンスだって頑張った。そして千秋楽は皆一言ずつコメントしていき終演となる、そういう段取りだった。  最後は太一、そしてその前が優志。段々と緊張してきて、そしてこれが最後だと思うと感極まってしまい、どうしても平常心など保てそうになかった。  しかも泣いてしまうキャストもいた、特に初舞台になるダンス部の面々は普段は飄々としている者が多いのに最後だからなのか皆声を詰まらせている。  そんな皆を見ていると、応援しながらも優志は貰い泣きしてしまいそうになる。だめだ、泣いたらイメージ崩れる。自分は四条なんだ、そう言い聞かせていたのに……。  優志の前にコメントを言うべき永治が一番の号泣をかましてしまったのだ。隣りでそれを宥めながら、ついぽろりと零してしまった涙は止まる事なく、結局優志もまともにコメントできそうもなかった。  だけど、一応ありがとうございました。と言うだけは言えたし、大きな拍手も貰えた、もうそれだけで十分だった。 「絶対部長ズ号泣、とかツイッターで書かれてるよね……」  「多分ね……」  遠巻きに見ていたキャスト達も少々呆れ気味だ。いい加減泣き止めばいいのに、と思わなくもないが普段感情を面にしない二人の号泣にまだ面食らっているのと、何だか微笑ましいなぁなどと場が和んだりもしていた。  今日はこれから場所を移しての大打ち上げ会が催される。その様子はDVD特典映像となるらしい、キャストは最後まで気を抜けそうになかった。  見兼ねた治樹が二人の為に濡れタオルを差し出す。それを有難く受け取り、深呼吸をし、気持ちを落ち着ける。気を緩めるとまた涙が零れそうだったが、大分気持ちも落ち着いてきた。 「ありがとうございます……もう大丈夫です、すみませんでした…」 「いいよ、ちょっと驚いたけどね……」 「すみません……」  恥ずかしい……だが、泣いたおかげか気持ちはすっきりした。ひんやりしたタオルを目元に当てながら優志は清々しい気持ちで目を閉じた。  優志のスマートフォンが着信を告げたのは深夜一時、打ち上げが終わりニ次会会場へと移動している時だった。 「もしもし、今大丈夫?」 「うん、大丈夫だけど……」 「今日楽日だったんだよね、お疲れ様」 「うん、ありがとう……」  電話の主は守川美月だった。タクシーを降りた所だったので、優志は皆のいる所から少し離れるようにして電話を続けた。 「遅い時間にごめんね、まだ外かな?」 「うん、打ち上げあって……これから二次会なんだ……」 「そっか、ニ次会ってどこでやるの?」 「うんとね……」  店の場所を告げると、美月は知っていると言った。そして驚くべき事にこれからそこへ行ってもいいか、と聞いてきたのだ。 「え?!」 「……その、お花……届けたいなって……思って……」 「花……?」 「うん、公演中って会場の都合でお花受け付けてなかったでしょ……?その、だから……迷惑だったら行かないけど……」 「迷惑じゃないけど……大丈夫なの?来たりして……」 「うん、大丈夫……行ってもいい……?優志君に渡したら直帰るよ、二次会にはお邪魔しないから」 「……うん……分かった……じゃあ、待ってるね」 「うん」  その選択が間違いだったと、優志はその後身を持って知ることになる。

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